死亡遊戯 32
甘ったるい越南風コーヒーの匂いが、冷房用のパイプが壁や天井を這い回る、安っぽい部屋には相応しい。ベッド脇の白いテーブルの上に置かれた、紙製のカップから漂う、飲みかけのコーヒーの匂いだ。
五月二十二日の午後十一時頃、滞在中のハノイの安ホテル、「シンチャオ」の部屋で、神流はベッドに腰掛けて本を読みつつ、コーヒーを飲んでいた。亜麻色のTシャツに、膝の辺りでカットオフにしたデニムのパンツという服装は、ハノイでの滞在が伸びたので、神流がハノイで買ったものである。
読んでいるのはソロモン式の魔術書、一般的に出回っている物ではなく、聖盗の支援組織が聖盗に供給する、禁書扱いの魔術書だ。聖盗はどうしても能力頼りになりがちなのだが、略式で発動可能なソロモン式の魔術は戦闘において、非常時の頼りになり得るので(特に蒼玉粒が足りない場合など)、黒猫団の面々は幸手程ではないにしろ、暇な時には魔術の学習を欠かさない。
幸手がハノイを発ってから、既に六日が過ぎている。ハノイに一人残されている間、神流は日中はハノイや近辺で、朝霞の捜索を続けているが、ホテルに戻ってからの夜間、空いている時間は、魔術の学習を行っているのだ。
魔術書を読み耽っている時、突如……閉じられた窓をノックする音がした。余り音を立てない様に、ガラスの窓を軽く叩いただけの音。
神流は魔術書をベッドに放り投げ、身構えつつ窓に目をやる。カーテンに覆われている為、窓の向こう側は見えないが、明らかに何者かが窓の外にいる。
(殺気や敵意は感じなかったが……)
気配を探った神流は、窓の向こう側に二人分の気配を捉える。
(二人……敵じゃないな)
わざわざノックをして、存在を知らせて来た相手であり、殺気や敵意を感じなかった事もあり、神流は警戒しつつも窓の方にに歩み寄り、カーテンを退けた上で解錠、窓を開ける。一応は何時でも攻撃に移れる様に、半身で構えながら。
(朝霞と幸手だったら、いいんだけど……)
そんな神流の期待は、半分だけ裏切られる。開いた窓の向こうにいたのは、二人共女性であり、朝霞ではなかったので。
だが、窓を通り中に入って来た二人の姿は、神流を安心させた。何故なら、姿を現した二人は、朝霞ではないが仲間だったのだから。
嬉しそうな声を、神流は上げる。
「お前達だったのか!」
「窓から失礼するよ」
白いTシャツにジーンズ姿の黒髪の少女と、カーキ色のパンツに白いTシャツという出で立ちの少女が、神流に声をかけつつ部屋の中に入って来る。二人共、夜だというのにサングラスをかけている。
窓を閉めてから、ジーンズ姿の少女の髪を一瞥しつつ、神流は話しかける。
「髪……染めたんだ、ティナヤ」
「一応は変装のつもりだったんだけど、私だって一目で分かっちゃったのかな?」
ジーンズ姿の少女……ティナヤは、神流に問いかける。
「あたしは武術やってるから、顔や髪で誤魔化しても、身体を見れば何となくね」
身長だけでなく、手や腕の長さに筋肉の付き具合など、神流は人の身体的特長を見抜く能力が高い。相手のリーチや筋力を見切る為、修行を通じて身に付いた能力で、別に変装を見抜く為の能力では無いのだが。
「それに、ティナヤが変装してる可能性は、一応考慮していたし」
神流がティナヤが変装している可能性を考慮していたのは、十九日の段階で、ハノイでティナヤが何等かの事件の重要参考人として、手配され始めたからである。大学から入手したと思われる、ティナヤの写真を使用した手配書を手にして、警察や他の公的な組織の者達が、ハノイでティナヤを探し回っているのを、神流は朝霞を探して街中を移動している際に、何度も目にしていた。
「何せ私は重要参考人らしいんで、変装しないと警察に捕まっちゃうから。何の事件なのか分からないけど」
ティナヤは自嘲気味に愚痴る。実際は容疑者ではなく重要参考人なので、逮捕ではなく任意同行的な形になるのだが、身柄を事実上拘束されるだろう事には変わりが無い。
「何やらかしたの?」
冗談染みた口調で、神流はティナヤに問いかける。
「知らないよ。福温縮地橋通って、温州市に着いた後、幸手がトイレ行きたいって言い出したんで、ロードステーションに寄ったら、いきなり私の手配書が回ってたんだから」
「それで、染髪料買って髪染めた訳?」
「あ、これは染髪料じゃなくて、幸手が……」
ティナヤの言葉を、幸手が受け継ぐ。
「ソロモン式の治療用魔術使って、ティナヤっちの髪と瞳の色を変えてるの」
「瞳の色も?」
驚く神流の目の前で、ティナヤがサングラスを外して畳み、Tシャツの喉元に引っ掛ける。本来なら蒼玉の様に青い筈のティナヤの瞳は、色が濃い煙水晶の様に、黒くなっていた。




