死亡遊戯 01
東の空に昇りつつある朝陽が、濃紺の空を乳白色に塗り替えていく。浅い角度の陽光は広大な田園風景を照らし、稲を濡らす朝露や水面を煌かせている。
吹き抜ける風に稲が波打つ水田を、緑の海原に例えるのなら、水田の手前にあるハノイの北東側郊外は、港街に例えられるだろう。田園風景の中を北東に向かって伸びている、太い幹線道路の脇には、出航を待つ船の様に、一台の灰色の自動車が停車中だ。
自動車は魔動エンジン音を響かせ、排気口からは灰色の煙を吐き出し、早朝の爽やかな空気を濁している。自動車は何時でも、走り出せる状態である。
灰色のトレーラーを牽いている自動車であり、トレーラーにはクリーム色の幌が被せられていて、積荷は見えない。運転席がある左側のドアの前には、白いスーツ姿の背の高い女……神流が、吹き抜ける風に体温を奪われるせいか、やや寒そうに腕を組んで立っている。
運転席にいるのは、同じく白いスーツ姿の幸手。かなり切羽詰った、余裕の無い感じの表情で、幸手は神流を見上げて口を開く。
「――ハノイの方は任せたよ。二十日迄には戻って来るから」
幸手の言葉に、神流は頷く。
「余り無茶な運転して事故るなよ、大事な荷物と一緒なんだ」
神流の言葉に、幸手も頷く。この場合の大事な荷物とは、偽装の為に灰色に塗り替えたばかりの、イダテンのトレーラーに積まれた、大量の蒼玉の事だけではない。
これから幸手は天橋市に向い、星牢に入った状態の蒼玉を、蒼玉界の聖盗達のアジトといえるバーに届けてから、黒猫団のアジトに戻る。そして、ティナヤから魂の羅針盤を借りた上で、大急ぎでハノイに取って返すつもりなのだ。
つまり、ハノイに運んで来る予定の魂の羅針盤も、大事な荷物の一つなのである。
「じゃあ、行くから!」
そう言い残すと、幸手はアクセルを踏み込み、アイドリング状態だったイダテンをスタートさせる。排気口から煙くは無い煙を吐き出しながら、北東に向かって一直線に伸びて行く舗装道路を、イダテンは走って行く。
トレーラーを牽いて走り去るイダテンの姿が、胡麻粒程の大きさになるまで見送ってから、神流は踵を返すと、ハノイの街並に向かって歩き出す。朝靄が出ている訳でもないのだが、既に目覚め始めている大都市ハノイは、至る所から魔術の使用や本物の火の使用による煙が、建物から上がり始めているので、遠目には霞んで見えるのだ。
水田地帯に隣接する郊外地区は、建物は疎らであり、主に水田を保有する農家が家や農作業用の建物を構えている。鶏や牛馬を飼っている農家も多く、たまに雄鶏の鳴き声を朝の空に響き渡らせたりもする。
農家が並ぶ郊外と水田の間の辺りまで、神流は幸手を見送りに来ていたのだ。単に見送りをする為だけでなく、アナテマや香巴拉の者達が、蒼玉の星牢を探し続けている可能性を考慮し、ハノイの街を完全に出たといえる辺りまで、護衛する為でもあった。
「ま、香巴拉もアナテマも諦めてくれたのか、護衛の必要は無かったな……」
結局、何者も神流と幸手の前には現れなかったので、神流達の警戒は杞憂と言えた。二人は知らないが、既に香巴拉は完全に、アナテマも殆どがハノイから撤退していたのだから。
(幸手は送り出し終えたし、後は……朝霞か)
仕事の最中は、黒猫や巫女などの愛称で呼び合う事にしているのだが、不安と焦りのせいで、神流は心の中とはいえ、二人を本当の名前で呼んでしまう。
(無事でいてくれれば良いんだけど……)
そう神流が願わなければならないのは、朝霞の無事が確認出来ていないから。昨日のタイソンとの激戦が終った後、朝霞の無事を神流と幸手は、確認出来ずにいるのだ。
タイソンの迎撃と足止めを朝霞に任せ、神流と幸手はハノイに逃げ込んだ後、ハノイを覆い尽くした煙の防御結界に驚きつつ、イダテンとトレーラーを隠した。その上で、二人は朝霞を探す為に、ハノイ南西部に戻っていたのだ。
だが、煙の防御結界のせいで、二人は外の様子を見る事も、外に出る事も出来なかった。滅魔煙陣は使用者が通そうとした少数の人間だけは、結界に一時的に小さな穴を開けて、通す事が出来るのだが、現在の使用者である妖風は、アナテマの者達以外を通す気は無いので、神流と幸手はハノイに閉じ込められていたのである。
戦闘終了から二時間弱が過ぎた、まだ陽が頂点に昇る前に、滅魔煙陣は解除され、ハノイは煙の防御結界から解放された。その頃には、アナテマの者達は撤退を終えていた為、タンロン荒野は無人の状態。
タンロン荒野で大規模な魔術戦闘が行われていたのは、多くのハノイ住民達には気づかれていた。故に、野次馬根性を発揮したハノイの住民達は、タンロン荒野に雪崩れ込み、戦場の見物を始めてしまった(一応、警察は制止したのだが、野次馬の数に圧倒され、制止し切れなかった)。
神流と幸手は野次馬に紛れ込み、タンロン荒野で朝霞を探し回り続けた。だが、朝霞とタイソンの凄まじい戦いの跡を目にするだけで、朝霞の姿は発見出来なかったのだ。
夜になるまでタンロン荒野を探し回ったが、朝霞は見付からなかった。その後、二人はホテルに戻ったが、朝霞がホテルに戻った様子も無い。
朝霞が死んだのかもしれないという不安に苛まれつつ、二人はホテルで朝霞を待ちながら、夜を過ごしていた。その最中、幸手が朝霞を探し出す、確実な方法の存在に気付いたのだ、魂の羅針盤を使い、朝霞を探し出す方法の存在に。




