天橋暮らし 08
「そう……帰ったの、宮代君」
驚き半分寂しさ半分といった感じの、やや複雑な笑みを浮かべ、色白の女性は呟く。
朝霞の母親よりは年上で、祖母よりは年下に見えるが、正確な年齢は分からない女性だ。
深い海の様な色合いのチュニックに、灰色のズボンを合わせた、落ち着いた雰囲気の女性。
日本にいた頃、似た顔の女優を古い映画で見た気がするのだが、その女優の名前を朝霞は忘れてしまっていた。
「何時もの事だけど、本当にいきなりよね、聖盗の連中が自分の世界に帰るのは」
そう語る女性の前にいるのは、朝霞。
落ち着いた感じの洋式の応接間で、応接セットのテーブルを挟んで、女性と朝霞は向かい合って座っているのだ。
昼食を終えた朝霞は、蕨に頼まれた部屋に残していく物の処分を思い出し、蕨の部屋を訪れる事にした。
蕨から受け取った鍵は部屋に置きっ放しにしてしまったので、部屋の大家である女性の家を、鍵を借りる為に訪れているのである。
鍵が無くても、蕨の部屋に侵入するのは、朝霞にとっては容易。
だが、蕨が去った事を大家に報告しなければならないので、どちらにしろ大家を訪れなければならないなら、鍵を破るよりは鍵を借りた方が良いと考え、朝霞は天橋市の郊外……旧市街と呼ばれる地区にある大家の家を訪れ、今……応接間にいる。
「記憶の回収を諦めて、自分から帰ろうって奴でも無い限り、自分じゃ帰る時期を選べませんから、聖盗は」
同年代の仲間相手とは違い、年長者相手である為、朝霞の口調は普段より丁寧だ。
「――それにしても、別れの挨拶くらいしてから、帰ってくれても良さそうなものなのに」
「時間的に無理だったんですよ、蕨が記憶を取り戻したのが、午前三時の手前でしたから」
気落ちしているだろう女性を慰めるかの様に、朝霞は言葉を続ける。
「蕨の奴……言ってましたよ。野火止さん含めて、別れの挨拶をしたい人は何人もいるけど、その人達を夜中に起こして挨拶して回ったら、午前三時発のは当然、四時発のにも間に合わなくなるのは確実だし、誰か特定の人だけ選ぶと、選ばなかった人に悪いから……バーにいた連中以外には、会わずに帰るって」
朝霞の話は、眼前の女性……野火止和光を慰める為の嘘では無く、事実である。
バーから駅に向かう際、朝霞は蕨から、そういった趣旨の話を聞いていたのだ。
和光その他、蕨にも煙水晶界で親しくなった人や世話になった人は何人もいたので、余裕が有るなら当然、そういった人達と別れの挨拶をしてから、蕨も帰りたかった。
しかし夜中だった上、時間的余裕が無かったので、バーにいなかった人への別れの挨拶は諦めて、すぐに蕨は駅に向かったのである。
基本、聖盗は自分達が聖盗である事を、この世界で知り合った者達には明かさない。
自分が聖盗であるという事実が広まってしまった場合、違法な記憶結晶を所有したり取引したりする者達から、狙われる可能性が高まるからだ。
それでも僅かではあるが、隠すべき正体を明かす相手もいる。
その多くは聖盗の協力者であり、黒猫団にとってはティナヤが、蕨にとっては和光が、正体を知る協力者の一人である。
天橋市に古くから住んでいる大地主の和光は、世界間鉄道運営機構と関係している人物であり、煙水晶界において聖盗達の活動を、以前から支援し続けて来た協力者なのだ。
旧市街に幾つも持っている集合住宅を、最低限の維持管理費だけという破格の条件で、和光は多数の聖盗達に貸している。
朝霞も本来は世界間鉄道運営機構の紹介により、和光の所有する集合住宅に住む筈だった。
だが煙水晶界に来た直後、偶然にもティナヤが命を狙われている場面に出くわし、ティナヤの命を聖盗としての力で救った結果、朝霞は行動を共にしていた神流や幸手と共に、ティナヤにボディーガードを頼まれる形で、現在の住み処である倉庫に住み着いたのだ。
その後、ティナヤは命を狙われる事も無く、ボディーガードとしての仕事は、事実上無くなったも同然の状態。
だが、ティナヤと黒猫団の三人は、かなり親しくなった為、その後も同居は続き、現在に至っている。
黒猫団から数日遅れて、煙水晶界を訪れた蕨は、世界間鉄道運営機構の紹介を受け、そのまま和光の所有する、旧市街の集合住宅の一室に住み着いた。
その後の十ヶ月、色々と和光の世話になっているので、蕨は当然の様に、和光には深く感謝していて、挨拶もせず去る不義理を、申し訳なさそうにしていた。
「そうなの……。まぁ……気を遣い過ぎる、あの子らしいといったら、あの子らしいのかな」
朝霞の言葉を聞いた和光は、多少は気が晴れたのだろうか、そう呟きながら微笑む。
「それで、宮代君が置いて行った荷物の処分の為に、部屋の鍵を借りたいって話だったわね?」
和光の問いに、朝霞は頷く。
「蕨から部屋の鍵は受け取ったんですけど、色々とトラブルがあって、自分の部屋に鍵を忘れちまったんですよ」
気まずそうに頭を掻きながら、朝霞は続ける。
「それで、取りに戻ろうかなとも思ったんですけど、少しばかり部屋に戻り難い状況でして……」
「ああ、また彼女連中を怒らせて、裸同然で部屋から逃げ出したのね。今度は、どんな女を部屋に連れ込んだの?」
そう言いながら、和光は楽しげに笑う。
住み処の外の数箇所に服などを隠して、朝霞が備えている程度に、同様のトラブルが何度も起こっているのは、蕨や他の聖盗からの噂話などで、和光も知っている。
「あいつ等は彼女じゃないし……女には勝手に部屋に忍び込まれただけで、連れ込んでませんから!」
同じ様な弁解を、一日に二度もしなければならない事にげんなりしつつ、朝霞は言葉を続ける。
「前にも言いましたけど、何時かは元の世界に戻って、全部忘れちまう俺の場合、この世界での恋愛は、別れて終わると決まってる、期間限定の物でしかないんです。別れると決まってるのに、彼女とか作る気……俺には無いですよ」
「真面目だねぇ、君は。まぁ、悪い事じゃないんだけど」
淡々とした口調で、和光は語る。
「聖盗と付き合った挙句、相手に全て忘れられたり、この世界から去られて、自分だけ残される女の立場とか考えたら、正しいのは君の考え方の方なんだろうさ。でも……」
「――でも?」
「正しくばかりは生きられないのが、人生という奴だからね……」
そう言いながら、何かを思い出しているかの様に、遠い目をする和光の寂しげな表情を見て、朝霞は思う。
(野火止さん、昔……聖盗と付き合ってた経験、有るんじゃないかな?)
今回だけではない、以前にも何度か、和光と似た様な会話をした際、同様の印象を朝霞は和光に持った事がある。
そういう過去が和光にはあるのではないかと、蕨も言っていたのを、朝霞は思い出していた。
「――話が逸れ過ぎたかな」
余計な話をしてしまったと思ったのか、和光は話題を切り替える。
「鍵の話だけど……君なら鍵が無くても、自分で解除出来るんじゃないのかい?」
「出来ますけど、聖盗としての活動でも無いのに、人様の家の鍵を勝手に開けるのは、どうかと思ったんで」
「それもそうね……。じゃあ、少し待っていて」
和光は立ち上がると、応接間のドアを開けて出て行く。
そして、テーブルの上にあった湯のみを手に取り、会話の間に冷めてしまった緑茶を朝霞が飲み干した頃合に、和光はドアを開け、応接間に戻って来る。
湯呑みを置いて立ち上がると、朝霞はテーブルの方に歩いて来る和光に歩み寄る。
「じゃあ、これ……返すのは、荷物の処分が終わったらでいいから」
朝霞と向かい合う様に立ち止まった和光は、手にしていた鉄色の鍵を、朝霞に手渡す。
「部屋の片付けが終わったら、蕨から受け取った鍵と一緒に、お返しします」
鍵を受け取りつつ、朝霞は続ける。
「今日は部屋の状態を確認するだけで、荷物を運び出すのは、車が直ってからになると思いますが」
「車が直ってから? ああ、そういえば新聞で見たが、随分と派手な真似やらかしたそうだね。あれで車……やられちまったのかい?」
「あちこち弾痕だらけにされちまって、お天道様が出ている時間に、天橋市の中を走るには、少しばかり物騒がせな見た目になってるだけですけどね」
受け取った鍵を、朝霞はポケットに仕舞い込むと、朝霞は和光に一礼する。
「――では、蕨の部屋の方に行きますんで」
そう言い残すと、朝霞はドアの方に歩いて行く。
「また、茶でも飲みにおいで」
和光の声を後ろから聞きつつ、朝霞はドアを開けると、応接間を後にした。
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