昇龍擾乱 89
アナテマ内でバズの派閥が主流派となって、まだ二年程でしかない。アナテマの戦力と情報収集能力を徹底して引き上げ、様々な策謀を用いたとしても、八部衆と戦い脅威を排除するのが、バズを筆頭とする主戦派の主張である。
伝統的に、アナテマでは主戦派が主流であり、対アナテマ戦を前提とした、武闘派の組織であり続けた。だが、八部衆の復活自体を抑える事に、全てのリソースを集中すべきだと主張する、ジョセファン・メロタグという魔術師が率いた、穏健派と呼ばれる勢力が、この十年間……アナテマの主流派だったのだ。
徹底した情報収集活動により、八部衆の候補者を探し出し、八部衆の復活自体を防ぐというのが、穏健派が行った対香巴拉対策。穏健派という言葉は優しく響くが、その実態は八部衆として復活する可能性が高い人間を探し出し、復活前に暗殺するという、一般人を大量に暗殺する形での、香巴拉対策である。
本来、八部衆が復活する前に発見出来るのは、仲間である八部衆以外では、アナテマ内部ですら使用が禁じられてる、虚空に存在する法輪を知覚出来る魔術……薔薇滅の使い手のみ。つまり、穏健派が主張する、八部衆が復活する前に候補者を探し出して暗殺し、八部衆の復活を阻止するのは、薔薇滅に手を出さなければ不可能な筈。
それにも関わらず、穏健派が主流派となり主導権を握れたのは、ジョセファンが薔薇眼という、薔薇滅同様の機能を持つ新魔術の開発に成功したと、発表したからだ。薔薇結晶という新発見された魔術物質を利用し、薔薇滅の様に多数の人命が失われる事なく、習得が可能だと主張する新魔術の薔薇眼を。
当時、至高魔術師の一角を占めていたジョセファンの信頼は厚く、薔薇眼の存在を前提に、八部衆復活自体を阻止出来るという穏健派の主張は支持を集め、主流派となった。無実の一般人を少数暗殺する事になるとはいえ、八部衆相手の戦闘よりは、総合的な被害が小さくて済むと考えた者が、アナテマ内に多かった為である。
アナテマ内に多くの支持者を得たジョセファンは、十年前……薔薇眼の開発に対する功績と、多数の穏健派の支持により、階級においてアナテマのトップとなった。同時に、至高魔術師の序列一位にも、上り詰めたのだ。
その後、七年に渡り穏健派はアナテマを仕切り続けたが、その間……乾闥婆と摩睺羅伽の明確な復活が確認され、不確かながら緊那羅復活の情報までもが、アナテマにもたらされた。当然、この時点で穏健派のやり方に、アナテマ内で疑問を抱く者達が増え始めた。
しかも、薔薇眼という新魔術自体にも、疑惑の目が向けられた。薔薇眼という魔術の習得に必須な、薔薇結晶と命名された宝石の如き小さな結晶が、薔薇滅を習得した魔術師の体内から取り出した物だという疑惑が、持ち上がったのである。
その疑惑は、事実だった。ジョセファンがアナテマにもたらした全ての薔薇結晶は、薔薇滅を習得した者達の身体から、取り出した物だったのだ。
ジョセファンは秘密裏に組織した特務機関を使い、エリシオン中から孤児や浮浪者を多数掻き集め、即席の魔術師に仕立て上げた。その上で、多数の犠牲者を出しながら、薔薇滅を強制的に習得させた後、習得に成功した者達を殺害し、その身体から薔薇結晶を取り出し、アナテマに持ち込んで利用していたのである。
薔薇滅を習得した者まで、特務機関が殺害したのは、その者達の身体がボロボロで、魔術師としては使い物にならなかったから。即席の魔術師の多くは、通常の大人に比べれば身体の弱い、子供や浮浪者であった為、薔薇滅の習得に成功しても、魔術師としての活動は不可能。
故に、特務機関は薔薇滅を拾得した者達を、薔薇結晶を製造する材料としてだけ利用。習得した者を殺害しなければ、薔薇結晶は体内から取り出せない為、薔薇滅を習得した者達も全て、特務機関に殺されたのである。
この薔薇結晶を体内に取り込んだ者は、薔薇滅を習得した者と同様、虚空に存在する法輪の感知が可能になる(距離的な範囲制限はあるが)。要するに、薔薇眼という魔術は、薔薇滅の使用が前提となる魔術であり、ジョセファン率いる穏健派は、アナテマにおける禁忌を犯していたのが判明したのだ。
このアナテマ史上最大のスキャンダルが発覚した段階で、アナテマは主に三つの派閥に明確に分かれた。薔薇滅に手を出していた事がばれた上でも、ジョセファンを支持し続ける、言葉としては矛盾しているが、「過激な穏健派」が、その一派。
バズ率いる、アナテマ伝統といえる方向性であり、穏健派排除に動いたバズ率いる主戦派が、二つ目の派閥。そして、様子見を決め込んだ中立派が、第三の派閥。
この段階で最大の勢力となったのは、意外にも過激な穏健派であった。ジョセファンが薔薇眼を実現する為に犠牲にした人間が、アナテマ内部の人間ではなく、孤児や浮浪者だった事や、ジョセファンが名家の出であり、天才的な魔術師であった事が、スキャンダルにも関わらず、支持を大きくは失わなかった理由といえる。
穏健派に続いたのが、バズ率いる主戦派であり、このアナテマの二大勢力の争いは、一年に渡って続いた。多数の魔術戦闘や暗殺合戦が人知れず行われ続け、数に劣るが個々の実力で勝る主戦派は、過激な穏健派と五分の争いを続け、二大勢力の争いは、膠着状態に陥るかと思われた。
だが、戦いが二年目に突入しそうになった二年前、戦いには呆気無く勝負が着いてしまった。過激な穏健派を率いていたジョセファンと幹部達が全て、当時はアナテマと無関係だった、一人の男に暗殺されたのである。
暗殺したのは、裏社会で死神の異名を取っていた男、洪飛鴻。当時……だけでなく、今でも表向きは、裏社会の人間である飛鴻は、用心棒や殺し屋どころか、たまに祭の出店で占い師までも行う程の、何でも屋状態の謎の多い男であった。
そんな飛鴻が、殺し屋として引き受けた仕事を果たす為、ジョセファンなど二人の至高魔術師を含む、過激な穏健派幹部だけでなく、その配下の特務機関に所属する者達全てを、皆殺しにした。その結果、アナテマの内部抗争は、過激な穏健派の壊滅という形で、あっさりと幕が下ろされたのだ。
殺し屋と言っても、殺すべき真っ当な理由が無い相手の殺害を、飛鴻は引き受けはしない。飛鴻がジョセファン達に対する殺害の依頼を引き受けたのは、孤児院を運営していた、知り合いの老夫婦からであった。
孤児院から養子として貰われていった子供達が、その後どうなったのかを調べた老夫婦は、孤児の多くが行方不明になっていた事を知った。政府関係者という信用出来る相手に養子に出したにも関わらず、養子に出した子供の多くが、その後短期間の内に行方不明になった異常事態に、老夫婦は不信感を抱いて自ら調べ始めた。
だが、政府機関の人間に邪魔され、その調査は上手くはいかなかった。そこで、裏社会の知り合いにして、腕利きの武術家にして仙術使いである飛鴻に、最初は殺害ではなく、調査を依頼したのである。
その結果、飛鴻は様々な能力とネットワークを駆使し、行方不明となった子供達が皆、アナテマの穏健派に誘拐され、薔薇結晶を作り出す為の犠牲となった事実を調べ上げた。養子として孤児を引き取った政府関係者達も、全てアナテマの穏健派の関係者であり、最初から薔薇結晶を作り出す「材料」として、孤児院の子供達に目を付け、引き取っていたのである。
調べ上げた事実の報告を受けた老夫婦は、激しく悲しみ後悔し……そして、飛鴻に復讐を依頼した。子供達の仇を討って欲しいと。
殺すべき真っ当な理由があると判断した飛鴻は、老夫婦の依頼を受けた。子供達を引き取った政府関係者から、穏健派(当時は既に過激な穏健派と呼ばれていたが)の幹部まで、薔薇水晶の製造に関わった殆どの人間を、飛鴻は即座に殺害した。
戦闘能力においては、バズに匹敵すると言われていた、ジョセファンともう一人の至高魔術師ですら、飛鴻は難なく抹殺。当時の飛鴻が殺し損なったのは、世界各地に散らばっていた、薔薇眼の持ち主を中心とする、八部衆候補者の暗殺部隊の幾つかに過ぎない。
地下に潜み、世界中に散らばっていた者達を全て殲滅するには、飛鴻にも時間が必要だったのだ。もっとも、それらの地下に潜った暗殺部隊の殆どは、その後飛鴻やアナテマの主戦派の刺客達により、一年強の期間をかけて殲滅される事になったので、既に生き残ってはいない。
後に飛鴻や主戦派の刺客により、殲滅された暗殺部隊が「殆ど」であり「全て」でないのは、自決して滅んだ暗殺部隊が存在した為。暗殺対象とした候補者を襲撃中、通りすがりの聖盗達に倒された挙句、秘密を守る為に全員が自決した暗殺部隊が存在したのだ。
その出来事が起こったのは、今から一年近く前。自決した暗殺部隊の者達は、死体すら残さなかった上、襲撃を受けた被害者も聖盗達と共に行方をくらませた為、まともなレベルで事件化される事すら無かった、妙な襲撃事件が起こったという、噂が流れはしたのだが。