天橋暮らし 05
「食欲有るなぁ、大盛かよ!」
声をかけてきたのは、右隣の席に座ろうとしていた少年。
朝霞にとっては、聞き慣れた声の持主である。
顔を確認しなくても、朝霞には大よそ誰だか分かっている。
だが、一応右側を向いて、声の主が誰なのか、朝霞は確認してみる。
満月の夜空の様な、鉄紺色の長着を着流している少年が、そこに居た。
満月の様な色合いの、トップが平たくなっているボーダータイプの麦わら帽子を被っている、年齢も背の高さも、朝霞と余り変わりが無い少年である。
やや垂れ目勝ちではあるが、端整な顔立ちの色白の少年で、和服……もしくは東瀛風の民族衣装の着崩し姿が、様になっていた。
「カンカンか。こりゃまた、うどん屋に似合い過ぎる格好だな」
声をかけてきた少年に、朝霞は語り掛ける。
その友人である少年が、日本ではカンカン帽と呼ばれている、ボーダータイプの麦わら帽子を好んで被っている事から、朝霞は彼にカンカンという徒名を付けたのだ。
「昔……上野動物園に居た、パンダみたいな呼び方すんなよ。八潮と呼べって」
カンカンと呼ばれた少年、本庄八潮は、苦笑する。
八潮の前のテーブルには、朝霞の前にある物より小振りの丼の、天橋うどんが載ったトレイが置かれていた。
「やっぱ大仕事した後は、食欲が湧くもんなのか?」
脇の下に挟んでいた新聞を取り出すと、八潮は他州のニュースをまとめて載せている紙面を開いて、朝霞に見せる。
紙面には小さく、那威州で黒猫団と思われる聖盗の集団が、地元の犯罪組織から、市街戦の如き派手な戦闘を繰り広げつつ、大量の蒼玉を盗み出したといった趣旨の記事が、印刷されていた。
聖盗の活動は、言わば義賊の活動の様な物なので、煙水晶界では最もメジャーなメディアといえる新聞で、記事になる事もあるのだ。
「市街戦って……市街地じゃ戦って無いし、大仕事って程の扱いの記事でも無いじゃん」
八潮が指差している新聞の、黒猫団についての記事が載っている部分を一瞥してから、朝霞は掻き揚げの欠片を箸で摘み、口の中に放り込む。
出汁が染みた衣が口の中で崩れ、残された小魚を朝霞は噛み締め、味わう。
(――ん、美味い)
続けて、朝霞は出汁の絡んだ艶のある面を、箸で手繰って口にする。
歯ざわりは滑らかだが腰が強い、麺の食感は朝霞好みであった。
麺を飲み込んだ朝霞は、大盛を頼んだ理由を八潮に語る。
「大盛頼んだのは、朝飯食って無いからだよ。これは、朝昼兼用の食事って訳」
「何で朝飯食って無いんだ?」
八潮に問われた朝霞は、目覚めてからの経緯を八潮に語る。
八潮は朝霞と同じ、蒼玉界出身の聖盗仲間なので、聖盗に関する話をしても、構わないのだ。
無論、他の人間には聞かれない様に、声を潜めて話したのだが。
話している間に、二人の食は進み、八潮は出汁を残すだけとなり、朝霞も八割方食べ終えてしまう。
「まーた同棲相手連中を、怒らせたのか。お前も懲りないねぇ、これで何度目だ?」
うどんを食べながら、朝霞の話に耳を傾けていた八潮は、そう言いながら楽しげに笑う。
「同棲とか言うなっつーの! 何度も言ってるが、ただの同居人連中で……恋愛中の相手とかじゃないんだから、あの三人は!」
朝霞は丼に口をつけて、出汁を啜ってから、強い口調で否定の言葉を口にする。
「ただの同居人って……同じ性別ならともかく、恋愛感情も無い相手と、一緒に住み続ける訳無いでしょ」
「恋愛関係じゃない男女が、ルームシェアやらハウスシェアとかで、一緒に住むのは日本でもあったじゃん」
「あったと言っても、男女のケースは基本レアだし、金無い連中が部屋代や光熱費浮かす為にやるもんだから、お前等がやるのは変だろ。赤煉瓦倉庫街のボスは当然、お前等三人も、金に困ってる訳じゃないんだし」
八潮の言う「赤煉瓦倉庫街のボス」とは、ティナヤの事だ。
朝霞達が根城にしている倉庫街は、天橋港付近の倉庫街の中では最も古く、最大の倉庫街なのだが、現在のオーナーはティナヤであり、倉庫からの稼ぎがあるティナヤは、金には困っていない存在だ。
朝霞達三人も、聖盗活動の合間に仕事をして、金を稼いでいる。
それぞれ魔術に通じていたり、特殊な技能を持っていたりする為、天橋市の街中で働いても稼げるし、煙水晶界の至る所に存在する、危険ではあるが財宝が眠る地下迷宮などを探索して、稼いだりも出来るので、ティナヤ程では無いが、金には困っていない。
つまり、部屋代などを浮かす為に、同居する必要性は、朝霞達には無いのである。
「金銭的な必要性も無いのに、ずっと同居続けてるって事は、程度の差はあっても、恋愛感情自体はあるに決まってると考えるのが、普通だよ」
「普通がどうだかは知らんけど、恋愛感情なんてもん、俺には無いって」
にべも無く、朝霞は言い放つ。
「――お前が無いと言い張ろうが、女の子連中の方には、有るに決まってるだろ」
呆れ顔で、八潮は続ける。
「一緒に住み続けても良い程度に、好ましく思ってる男が、他の女とキスなんざしたら、そりゃ怒って当然だ」
「いや、でも別に俺は悪く無いじゃん」
「悪くは無くても、それで女の子が怒るのは、当たり前って話さ」
納得が行かないという風に首を傾げてから、丼を持ち上げ、出汁を口にする朝霞に、八潮は過去に何度もしたのと同じアドバイスを、また口にする。
「男と女の関係は、良い悪いの問題じゃねえのよ。いい加減学習しろって」
出汁を飲み込んだ朝霞は、溜息を吐いてから、不満げに呟く。
「そんなもんかねぇ?」
「そんなもんだよ。理不尽なもんさ、女なんてのは」
当たり前だと言わんばかりの口調で、八潮は答える。
「ハチマキも理不尽なの?」
朝霞の問いに、八潮は苦笑する。
八潮にはパートナーとして組んでいる聖盗の彼女がいて、その少女に朝霞が付けた徒名が、ハチマキなのだ。
ハチマキを頭に巻いている事が多い為、付けられた安易な徒名なのだが、本人も気に入っている為、蒼玉界からの聖盗仲間の間では、ハチマキという徒名が定着している。
「お前も、ちゃんと彼女作れば、分かるさ」
「――だったら、分からなくていいや。俺……日本に戻るまで、彼女とか作る気ねぇからな」
茶化す様に、朝霞は肩を竦めつつ、続ける。
「こっちで彼女とか作っても、日本に帰る時に……どうせ別れる羽目になるんだからな」
付き合う相手が、同じ日本出身の聖盗なら、日本に戻る際、付き合っていた事すら忘れてしまう。
そうなれば、当然の様に恋愛関係を続けるのは、不可能になるだろう。
日本出身者以外の相手と付き合えば、日本に戻る際、当然の様に別れ……忘れる事になる。
つまり、記憶を取り戻した際、日本に帰る選択をする者にとって、煙水晶界での恋愛は、日本に帰るまでの期間限定のものなのである。
朝霞は絶対、日本に帰ると決めているし、日本に戻るまで付き合う様な恋愛関係は、相手に悪いから、すべきでないと考えている。
だから、煙水晶界にいる間、誰とも恋愛関係にはならないとし、惚れたりもしないと決めているのだ。
「誰にも惚れないって、決めてるんだ」
「俺も前は……そう決めていたんだけど、決めた所で、惚れる時には惚れちまうもんなのさ」
「そりゃ、お前の意志が弱いだけの話じゃん」
「意志の強さでどうこう、出来るもんじゃねえのよ」
分かってないなぁと言わんばかりの、余裕の有る八潮の表情が、朝霞を微妙に苛つかせる。
「――昨日の会合、来なかったから知らないかも知れないが、昨夜……女装趣味が日本に帰ったぜ」
昨夜の会合、八潮はパートナーと共に欠席していたのだ。
遠征帰りの途中で、帰宅が夜中だったので、会合には参加しなかったのである。
「ああ、今朝……岡さんに聞いた。随分といきなりだったな」
蕨の事を思い出しているのだろう、遠い目をして窓の外を眺めながら、感慨深げに八潮は呟く。
岡……上福岡とは、蒼玉界出身の聖盗の一人だ。
「お前もハチマキも、いきなり日本に帰らなきゃならなくなる時が……全て忘れて別れなきゃならなくなる時が、何時か来るんだぜ」
「そうだな、確かに別れる事には、なるんだろうさ。でも……記憶を無くしても、感情は残るんだ」
八潮の言葉を聞いて、朝霞は神流と幸手の事を思い出す。
友人に関する記憶を全て無くした結果、過去に友人関係だったらしい、神流や幸手についての記憶を、朝霞は無くした。
それでも、大忘却後に出会った直後、神流と幸手を自分が何となく嫌っていたのを、朝霞は思い出した。
記憶を無くしても、感情が残っていた、自分自身の経験として。
目を瞑り、自分に言い聞かせる様な口調で、八潮は語る。
「だから、きっと……日本に戻って再会したら、俺達はまた恋に落ちるさ。そうに決まってる」
自分が少し、気障ったらし過ぎる発言をしたという自覚があるのだろう、八潮は照れ隠しのつもりか、麦わら帽子のひさしを下げて、目元を隠す。
「着流し姿で、安いうどん食ってる奴に、似合う台詞じゃねえや、それ」
半眼の朝霞に、呆れたとばかりに突っ込まれ、恥ずかしさが増したのか、八潮は新聞を畳んで左脇に挟むと、トレイを持って立ち上がる。
「あ、じゃあ俺……仕事あるから、またな!」
八潮はそう言い残すと、そそくさとカウンターに向かって歩き去って行く。
「普段から、散々恥ずかしい発言してるってのに、今更……恥ずかしがる様なキャラじゃねえだろうに」
そう呟いてから、まだ残っている少し冷めた麺を、朝霞は箸で手繰って食べる。
(日本に戻って再会したら、俺達はまた恋に落ちる……か)
八潮の言葉が、ふと朝霞の頭の中に甦る。そして、その言葉に触発されたかの様に、神流と幸手の顔が、思い浮かぶ。
(そういう事も、有るのかもしれないな。相手が日本の……川神市の相手なら)
そして、神流や幸手から連想したせいか、同じ同居人であるティナヤの顔を、朝霞は思い浮かべる。
ついでに、三人の同居人達とトラブルを起こしたオルガや、その仲間であるタチアナなどの顔までも……。
(でも、日本に戻ったら、再会しようが無い相手じゃ、そういう事は起こり得ないじゃん)
色々と思いを巡らせながら、麺と掻き揚げを食べ終えた朝霞は、丼を持ち上げて、出汁を一気に飲み干す。
そして、丼と箸をトレイに置くと、両手を合わせる。
「ごちそう様」
食事を終えた朝霞は、トレイを持って立ち上がると、自分に言い聞かせるかの様に、ぼそりと呟く。
「ま、俺には関係無い話か……」
そして、トレイを手にしたまま、カウンターに向かって歩き出す。
何か物思いに耽っているかの様な、心此処に有らずといった感じの表情を浮かべながら。
× × ×