昇龍擾乱 24
ポワカが略式で発動させた魔術により、トーテムが描かれた左手で持っていたストールが、一瞬で解れて無数の糸と化する。同時に、マットチョイの南側……八部衆の三人がいる辺りの空間全体に、空色の光の粒子が出現する。
無数の糸はポワカの手を離れ、その前方の空間全体に、瞬く間に広がって行く。糸に触れた空色の粒子は、ビリヤードの球の様に弾かれて移動しながら、それ自体が糸に変化。
ストールだったポワカの糸だけでなく、空色の光の粒子だった糸は、あっという間に複雑に絡み合いながら、ポワカの前方のマットチョイの南側空間中に拡散した。ポワカの手から無数の糸が放たれてから一秒もかからずに、まるで巨大な蜘蛛の巣に、マットチョイの南側空間の殆どが、占拠されたかの如き状態。
ポワカがナ・アシュ・ジェイ・アスダァア(Na'ashje'Ii Asdzua)の巣……通常ナジャの巣という、マニトゥの魔術を使ったのだ。基本的には星牢を守っていた時の様に、何かを守る為に仕掛けておく魔術なのだが、戦闘時に敵の動きを封じる為に使う場合もあり、その場合は一瞬で発動し展開する。
一瞬で展開する場合は巣の作りが雑になり、魔力の消耗が激しい為、短時間しか展開した状態を維持が出来ない。丁寧に発動すれば、サオトーに仕掛けられていた奴の様に、空水晶粒一粒で数時間もの間、ナジャの巣が維持出来るのだが、一瞬で雑に展開した場合は、短ければ数分……長くても三十分程と、丁寧に発動した場合に比べて短い時間しか持たないのである。
ナジャの巣が一瞬で展開したとはいえ、八部衆の三人も為すがままになっていた訳では無い。三人の中では最も反応が速い夜叉は、ポワカの背後に光と煙を確認した時点で、華武服の胸元を素早く開き、野球ボール程の大きさがある、蜂蜜に似たくすんだ黄色の完全記憶結晶……琥珀玉を露にする。
胸に埋め込まれた琥珀玉には、香巴拉のシンボルでもある魔術式、法輪の姿も確認出来る。夜叉が右手の指先で軽く琥珀玉を撫でると、琥珀玉は明るめの黄色い光を、電球の様に放ち始める。
その直後、ナジャの巣の糸が押し寄せる寸前、夜叉を中心として半径五メートル程の半球状のドームが出現。琥珀玉をそのまま巨大化させ、半分に割った感じの半透明の魔術的防御殻を、夜叉は一瞬で出現させたのだ。
完全記憶結晶とシンボルである法輪が一体化している為、八部衆は使用出来る魔術の殆どを、ソロモン式やマニトゥなどでいうところの略式に近い形で、瞬時に発動出来る。多くの魔術は、法輪と一体化している完全記憶結晶に、手で触れるだけで発動が可能。
夜叉が琥珀玉を使って発動した魔術は、金剛念珠。宝珠と似た見た目の防御殻……金剛念珠を、念じた瞬間に出現させる事が出来る、発動の速さと強力な防御能力を両立させた、香巴拉式の防御魔術だ。
ポワカの放った無数の糸は、金剛念珠に弾かれてしまい、夜叉の半径五メートル以内には届かない。ナジャの巣は完成してしまえば、金剛念珠など余裕で切り刻んでしまえるのだが、完成する前の展開している段階では、特に強力な攻撃能力を持たないので、金剛念珠に弾かれてしまう。
ほんの一秒程度で、マットチョイの南側の光景は変貌してしまった。巨大な蜘蛛の巣の如きナジャの巣の糸が、東西の壁の間や地面と天井の間に至るまで、空間を埋め尽くすかの様に張り巡らされ、巣の中央辺りのマットチョイの底には、金剛念珠の黄色いドームが存在するという感じの光景に。
そして、その光景を目にした朝霞は、ほんの僅かな間に目の前の光景が一変した事に驚きつつ、自分が判断を誤ったのを自覚する。投擲の為に煙玉を握り締めていた両掌が、焦りの汗に湿る。
「しまった……これじゃ煙玉使っても、逃げられない!」
八部衆の行動を完全に封じる目的で、ポワカは広範囲にナジャの巣を展開した為、朝霞が予定していた地上への逃げ道までもが、糸に塞がれてしまったのだ。




