昇龍擾乱 10
「――というのは冗談で、君が私のアドバイスを生かせるかどうかを確認する為に、事前に罠を仕掛けておいたのさ。生かせていたなら、騙されたばかりの私の頼みに警戒し、バターの匂いや杖の不自然な照りに、気付けていた筈だ」
そんな鼻髭の男の言葉通り、壁に立て掛けられた杖の柄の辺りは、不自然な照りがあるし、バターの匂いも辺りに漂っている。注意深くしていれば、それらの違和感にジェームズは気付いただろう。
ジェームズは警戒を怠り、鼻髭の男が仕掛けた罠に、見事にはまってしまったのだ。
「相変わらず、君は騙され易いままじゃないかね、ジャッキー君。早死にしたくなければ、その騙され易さを本気でどうにかする事だ」
「――今度こそ、本気で心に留めておきます」
二連続で騙された事へ、苛立ちや気恥ずかしさを感じたジェームズであるが、自分の迂闊さを自省もしていた。故に、ジェームズは努めて理性的に、淡々とした口調で言葉を続ける。
「それと……ジャッキーじゃありません、ジェームズです」
ジャッキーの言葉を聞きながら、鼻髭の男は右足の先端で、素早く地面に魔術式を記述する。ナイル同様、靴に魔術式記述用の煙水晶粒が、幾つも仕込んであるのだ。
戦闘を得意とする魔術師が、良く靴に仕込んでおく仕掛けであり、一粒の記憶結晶粒を使い切ると、すぐに次の記憶結晶粒が先端に装填される仕掛けになっている。多い物では数十粒の記憶結晶粒が、靴底に収納されていたりもする。
鼻髭の男が地面に記述した純魔術式から、黒い煙が噴き出した直後、人間の頭程の大きさがある、赤い球が出現する。赤い球は純魔術式から浮かび上がると、胸の高さの辺りまで上昇して、空中で停止する。
ナイルが使ったのと同様のタィニィ・バブルスだが、色が違うのは繋がっている泡……亜世界の色が違う為。タィニィ・バブルスで発生する球体は、安全に亜世界と煙水晶界を繋ぐ通路の様なもので、接続先の亜世界の色が反映されるのだ。
鼻髭の男はタイニィ・バブルスに左手を突っ込むと、中から黒い杖を取り出す。バターが塗られていた杖と、同じデザインの杖を手にすると、鼻髭の男は右足先の煙水晶粒で純魔術式を弄り、タイニィバブルスを消滅させる。
杖を突いて歩く程、身体が衰えている訳では無い。鼻髭の男は杖を左手で、バトンの様に弄びながら、矍鑠とした動きで、出入口に向かって歩いて行く。
「あ! お待ち下さい、バズ様!」
ハンカチで手についたバターを拭い取り終えたジェームズも、ハンカチをポケットに仕舞いながら、鼻髭の男……バズ・スクリューボールの後を追い、出入口に向かって歩き始める。早歩きでバズを追い抜くと、ジェームズは高級ホテルのドアボーイの様に、ドアを開けて先に通路に出て、バズが出入口を出るのを待つ。
「――大仰だねぇ、ドアくらい自分で開けるよ」
出入口を出た所で立ち止まると、バズは少し面倒臭げな表情で、ジェームズに話しかけた。
「ドアの取っ手にバターを塗りたくられたら、困りますので」
ジェームズの言葉を聞いたバズは、満足気な笑みを浮かべて、右掌を開いて見せる。
「その用心深さこそ、生き延びる為には肝要だ。まぁ、塗りたくろうとしたのはバターではなく、ヘアクリームだがね」
バズの表現した通り、右掌の上に載っていたのは、バズの頭髪……だけでなく鼻髭をも艶やかに固めている、ヘアクリームが入った銀色のチューブ。ドアを開ける際、バズは素早くドアノブに、ヘアクリームを塗りつけるつもりだったのだ。
ジェームズはバズが手にしていたヘアクリームのチューブを目にして、呆れ顔を浮かべつつも、今度は騙されなかった自分に安堵する。
「――では参ろうか、我等が戦場へ」
使う機会が無かったヘアクリームのチューブをポケットに仕舞うと、立ち止まっていたバズは、通路として利用されている坑道の中を歩き始める。部下であるジェームズを従え、バズが言うところの戦場へと向かって……。




