暗躍疆域 48
(仕方が無いか、起こしたのは悪かったし……)
朝霞はオレンジジュースを口に含んで、空にした瓶を床に置くと、ベッドの上に膝立ちになり、神流の上体を抱き寄せる。そして、神流の顎を右手で上向かせると、前屈みになって顔を寄せ、深く唇を合わせる。
重なった唇が通路となり、朝霞の口の中から神流の口の中に、まだ冷たさを保っているオレンジジュースが流れ落ちて行く。朝霞が膝立ちになったのは、背が低い側の自分の頭が上に位置しないと、上手く口移し出来ない為。
多少は口元から零れるが、殆どのオレンジジュースは神流の口腔に流れ落ちる。唇を合わせたまま、神流がオレンジジュースを飲み込んだので、生々しく喉を鳴らす音が、唇を通じて朝霞にも伝わって来る。
唇を離して手の甲で唇を拭うと、神流は朝霞を見上げて呟く。
「――美味しかった。少しだけ黒猫の味も混ざってたね」
黒猫……朝霞の味とは、唾液の事だ。
「喉も潤し終わったし事だし、明日に備えて寝ようか。早く起きなきゃいけないんだから」
神流は元々寝ていた辺りに身体をずらすと、ベッドを軋ませつつ寝転がる。
「――眠れりゃいいんだけど」
自信無さ気な言葉を口にする朝霞も、ベッドの上を移動して、神流と幸手の間に身体を横たえる。
「眠れないなら、子守唄でも唄ってあげようか?」
「子供扱いすんな!」
半目で睨む朝霞を見て、神流はからかう様な口調で続ける。
「遠足や運動会の前の夜に、眠れない小学生状態なんだから、子供じゃない」
そして、何か言い返すべく口を開こうとした朝霞を、神流は抱き寄せる。
(え?)
いきなり抱き寄せられ、神流の胸元に顔を埋める形になり、朝霞はうろたえ……紅潮する。
「子守唄は……起こしちゃうかもしれないから、駄目だけど……」
その起こしちゃうかもしれない、寝入っている幸手の方を一瞥してから、神流は朝霞の耳元で囁き続ける。
「胸の鼓動なら大丈夫だろうし」
「胸の鼓動?」
「――眠れない子供は、胸の鼓動を聞きながらだと、気が安らいで……良く眠れるらしいよ。何かの本で読んだけど」
「だから、子供扱いするなって! 同い歳なんだから!」
「まぁ、駄目元でいいから、試してみなって」
抱き締めたまま解放する気が、神流には無さそうだったので、朝霞は諦めた様に……神流の胸の鼓動に、聞き耳を立てる。朝霞の顔と神流の胸元……触れ合っている肌を通じて、少し速めの鼓動を、朝霞は感じ取る。
(俺を子供扱いして……大人ぶってる癖に、鼓動速くなってんじゃん)
身体を動かしている訳では無い今、胸を打つ心臓の音が速くなっているのは、胸を時めかせているから。余裕を持っている風に装っていても、裸で異性を抱き締めていれば、胸が高鳴ってしまう程度には初心なのだ……幾ら朝霞相手に、一線を越えぬ程度の経験をしていても。
胸を高鳴らせている事について、朝霞は神流に突っ込もうかと思うが、思うだけで止める。神流の鼓動を聞いている内に攻撃的な感情が収まり、そんな気が失せてしまったのだ。
クーラーに冷やされた夜の室内では、人肌の温もりは心地良く、心臓の鼓動は子守唄の様に、朝霞の心の昂ぶりを鎮め……癒す。
(――悪く無いな、こういうの……)
露になっている胸に抱き締められているのに、不思議と性的な興奮などは起こらない。抱き締めるのに慣れて落ち着いたのか、神流の胸の鼓動が遅くなっていくのに比例して、朝霞の昂ぶりは鎮まり、眠気が強くなり続ける。
程無く、瞼は完全に下がり切り、朝霞は心地良さ気に寝息を立て始める。神流の腕に抱かれたまま、朝霞は寝入ってしまったのだ。
そんな朝霞の寝顔を確認し、神流も安心したのか、普段は見せない優しげな微笑みを浮かべたまま、眠りの世界へと落ちて行った……。




