暗躍疆域 44
陽に焼けた肌に覆われている、鍛え上げられた筋肉質の身体が露になる。胸の中央に、大きな十字の傷が有るが、それ以外に傷らしい傷は見当たらない。
まず滅多な事では傷など負わない上、普通の傷なら、飛鴻は気や仙術を使うなどして、傷跡など残さずに治してしまえる。故に身体に残っているのは、まともでは無い者に負わされた、まともでは無い傷跡だけだ。
飛鴻は妖風が座っていない方の、窓際のベッドの方に移動すると、椅子の様に腰掛ける。萎えた気分が姿勢に出てしまうのか、飛鴻は項垂れて、光の無い目で床を眺めている。
「――何もそこまで沈まないでも」
妖風は飛鴻を一瞥して呟くと、立ち上がって長袍風のガウンを脱ぐ。ガウンの下には何も着ていないので、妖風は既に裸となっている。
鍛えてある引き締まった身体ではあるが、肌の色は磁器の様に白く……身体のラインはどことなく女性的。普段はうなじで結ってある黒く長い髪が、下ろしたままになっているせいもあり、後姿は女と見紛う程。
前から見れば胸が平たいので、ちゃんと男だと分かるが、膨らみが無いのに違和感を覚える程度に、裸になっても女性的な印象が妖風は強い。そして、胸には女性の様に目を惹く膨らみは無いが、別の意味で目を惹かれる物が存在する。
胸の中央に、掌に収まる程の大きさの球体が、埋め込まれているのだ。胸に埋め込まれている球体といっても、香巴拉八部衆の様に完全記憶結晶を埋め込んでいる訳では無い。
略式で術を発動する際にも使用される、仙術の象徴である図柄……太極図。この太極図を、そのまま球体にした感じの白黒の球体……太極球が、妖風の胸には埋め込まれているのだ。
太極球自体は、それ程珍しい物では無い。仙術は禁忌魔術である為、表向きは滅んだ事になっているが、実は四華州の裏社会を中心に、多数の仙術系魔術の使い手は存在しているので、仙術使いが道具の一つとして使う太極球自体は、数多く使われている。
だが、その殆どは単なる魔術機構レベルの代物であり、身体に埋め込んだりはしない。妖風の胸の太極球は、現代の仙術使いには作り出せない、仙術界における至宝レベルの特別な太極球の一つなのだ。
古の仙術使いが作ったと言い伝えられているが、仙術の魔術式は何処にも見当たらず(完全な形で隠蔽されていると推測される)、記憶結晶も消費しない。言わばミルム・アンティクウスの様な物なのだが、仙術界の者達は誇りを持って、宝貝と呼ぶ場合が多い。
厳密に言えば、宝貝は仙術界における至宝レベルの魔術道具の総称なので、記憶結晶を消費する物や、魔術式が存在する(完全には魔術式が隠蔽されていない)物もある。つまり、妖風の太極球はミルム・アンティクウス的な性質を持つ、宝貝という訳だ。
妖風が胸に埋め込んでいる太極球の名こそが、滅魔煙陣。記憶結晶ではなく、仙術使いや四華州の武術家が用いる、魔力とは似て非なる生命エネルギー……気を燃料とする宝貝である。
凄まじい性能や神秘的な能力を発揮する宝貝には、癖が強い性質の物が多いのだが、滅魔煙陣も例外では無い。身体に埋め込んで使用しなければならない事も、その癖の一つではあるが、最大最悪といえる癖は……燃料である気の補充方法だろう。
かっての仙術には房中術という、性交渉を利用するカテゴリーの術が存在した。滅魔煙陣の開発者は、この房中術を得意とする者であったらしく、性交渉により気を補充するシステムを、滅魔煙陣に搭載したのだ。
つまり滅魔煙陣を使用するには、身体に埋め込んだ人間が他の人間と性交渉を行い、性交渉の相手から気を吸収しなければならないのである。しかも、言い伝えでは同性愛者だったらしい、開発者の性的趣向が反映されたせいか、性交渉の相手は同性に限定される。
宝貝級の代物は、一定以上の仙術使いでなければ、使いこなすのは難しいので、それなりの使い手が選ばれる。滅魔煙陣の場合は、気の補充方法の特殊性故に、更に同性愛者という条件も加えられるのが通例。
その条件を最も満たすが故に、当代の滅魔煙陣の使用者となったのが妖風であり、気の補充相手にさせられているのが飛鴻なのだ。飛鴻が嫌がり続けていた仕事とは、妖風と性交渉を持って……ありていに言えば妖風を抱いて、滅魔煙陣の気を補充する事だった。




