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暗躍疆域 42

「上は良いねぇ……空いていて」

 路上から姿を消した飛鴻は、周りを見回しながら呟く。飛鴻が言うところの「上」とは、屋根の上の事。

 飛鴻は普通の人間の目にはとまらぬ程の速さで、ターベン通りに並ぶ建物の屋根の上に、跳び移っていたのだ。賑わい過ぎている雑踏の中を歩いて行くのは面倒そうだったので、屋根の上を移動して、飛鴻はハノイで借りている部屋に戻るつもりなのである。

「イー・ホフ通りは……あっちか」

 瓦葺にコンクリート……煉瓦造りに石造りと、統一性の無い屋根が並ぶ街並を見下ろし、飛鴻は目的地であるイー・ホフ通りを見つけ出す。同じ薬幇が仕切る通りなので、そんなに離れてはいない。

 本気を出せば、一跳びで辿り着ける距離なのだが、結構酔っている上、余り部屋に戻りたくないのが飛鴻の本音。それ故、屋根の上をゆっくりと歩いて、飛鴻はイー・ホフ通りに向い始める。

 繁華街の喧騒を背景音楽代わりに、夜景を楽しみながら、飛鴻は屋根の上を歩く。発展の途上であるが故に、活気に満ちたハノイの夜景は、飛鴻にとっては好ましい。

 風遮る物が無い屋根の上は、通りよりも夜風が心地良い。夜風に涼しさを感じるから心地良いのではなく、周りの空気を淀ませないでくれるから、飛鴻には心地良いのだ。

 ハノイでもスーツ姿で通している程度に、飛鴻は暑さ自体を大して感じていない。身体を流れる気を操作し、体感温度を自在に調整出来る飛鴻にとって、ハノイ程度の暑さなど、元から問題では無いのである。

 空気を淀ませないだけでなく、夜風は飛鴻の元に、甘い匂いを運んで来る。嗅ぎ覚えのある、花の匂いだ。

 風上である右斜め前に、飛鴻は目をやる。二十メートル程離れた場所にある、高くは無い建物の屋根の上に飛び出している、沢山の花を咲かせている街路樹が、飛鴻の目に映る。

 月光に映える鮮やかな紫の花に、飛鴻は見覚えがあった。ハノイでは良く見かける花であり、酒場の女に名前を聞いた覚えもあったのだ。

 聞いた女の顔と名前は、すぐに思い出せたのだが、花の名前は思い浮かばない。

「何だったっけ?」

 街路樹の近くにある屋根の上に、飛鴻は瞬時に移動を終えると、その甘い匂いを嗅ぎながら、花の名前を思い出そうとする。数十秒考え込んでから、はっとした様な表情を浮かべ、飛鴻は花の名を口にする。

大花紫薇バンランだ! そうそう、大花紫薇だよ大花紫薇!」

 思い出せたのが嬉しく、飛鴻は笑顔で目の前の街路樹……大花紫薇を眺める。

「こんなに鮮やかな花だったかねぇ? 月明かりの下の方が、風情があるって事か」

 夜空には、満月に近く明るい月。大花紫薇の花と枝葉には、その月光が作り出した飛鴻の陰が、投げかけられている。

 影の飛鴻の左腕は、右腕よりも長く見える。左手で持っているネップ・モイの角瓶のせいで、左腕の影の方が長く見えるのだ。

 咲き乱れる大花紫薇の花の間にある、ネップ・モイの角瓶の影を眺める飛鴻は、ふと……詠う様な口調で独白する。

「――花の間にゃ、一瓶の酒……となると」

 左手に持つネップ・モイの角瓶に目線を移し、飛鴻は続ける。

月影つきかげ相手に、月下独酌げっかどくしゃくと洒落込みたいところだねぇ」

 飛鴻は角瓶の封を指先で切ろうとするが、寸前で思い留まり指を止める。まだ今夜は果たさなければならない仕事があるのを、飛鴻は思い出したのだ。

 その仕事の内容を思い出した飛鴻は、げんなりとした表情を浮かべ、深く溜息を吐く。

「あれだけは慣れねぇというか、慣れたくねぇもんだ。誰か代わってくれねぇかなぁ?」

 愚痴りながら、飛鴻は腕時計で時間を確認する。

「時間切れになると不味い、部屋に戻るか……」

 酔っている為、思考が普段より鈍ってはいるが、部屋に戻って果たさなければならない仕事の重要性を、飛鴻は忘れてはいない。だからこそ酒場での飲酒を切り上げて、部屋に向い始めたのだから。

 大花紫薇近くの屋根の上で立ち止まっていた飛鴻は、再びイー・ホフ通りに向って屋根の上を歩き始める。仕事の重要性は理解しているが、気が進まないのも事実なので、屋根の上を行く飛鴻の足取りは重い。

 途中で何度か通りを跳び越えつつ、数分……屋根の上を歩き続けた飛鴻は、イー・ホフ通りの出入口の手前に辿り着く。

「俺だ! ここからで悪いが、入らせて貰うよ!」

 牌楼の近くで警備をしている者達に、飛鴻は屋根の上から声をかけた。了承を伝える警備の者達の返事を聞いてから、飛鴻はイー・ホフ通りに並ぶ建物の屋根の上に跳び移る。

 そのまま屋根の上を歩き、飛鴻は通りの中央辺りにある、古びた石造りの建物を目指して移動。屋根の上から二階の部屋の窓に設置されている、簡素な石造りのバルコニーに跳び下りる。

 飛鴻は灯りが漏れている窓をノックしようとするが、拳が窓ガラスに触れる前に窓が開く。飛鴻は気配を消していなかったので、部屋の中にいる者が気配に気付いて窓を開けたのだ。

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