暗躍疆域 41
夜であっても、妖しくも鮮やかな光に満ちているのは、どこの繁華街でも変わりはしない。だが四華州の影響が強く、赤い提灯風のランタンを象った照明が多いせいか、赤い光が多く感じるのが、ハノイの繁華街の特徴といえば特徴だ。
薬幇が仕切る繁華街……ターベン通りは、今夜も酔客で賑わっている。肌も露な女性が接客する店もあるが、一応は合法的な範囲の店なので、地下街に存在を隠す必要は無い。
直線が次々と折れ曲がって升目状の幾何学模様を描く、雷紋(雷文とも)という東洋的な意匠の細工が施された組格子の窓から、艶っぽい嬌声と光が通りに漏れ出している。独弦琴の奏でる楽しげな調が何処からか響いて来るが、魔術機構で再生されたものではなく、薬幇に雇われた演奏家が、通りで奏でているのだ。
そんな通りにある酒場……金清酒館の横開きの格子戸が開き、一人の酔客が通りに姿を現す。白い麻のスーツをラフに着こなし、白いストローハットを手にしている二十代中頃に見える男……飛鴻である。
出入口からは、金糸銀糸で刺繍が施された、肌も露な赤い旗袍姿の女給が一人、飛鴻と共に姿を現す。飛鴻の左腕に右腕を絡ませ、豊かな胸を押し付けながら、派手な顔立ちの髪の長い女給は、飛鴻に甘える様に声をかける。
「まだ宵の口なのに、もう帰るだなんて情無いじゃない……先生ぇ」
「――悪いね、これから少し仕事があるんだ」
「こんな時間から仕事って、用心棒の?」
「あーいや、そっちとは別口でね」
「そんなに酔ってるのに、仕事なんて無理でしょ。休んじゃいなさいよ」
「どちらかというと、素面の方がキツい仕事なのよ、これが」
その素面だとキツイ仕事の内容を思い浮かべ、飛鴻はげんなりした表情を浮かべつつ、愚痴り続ける。
「それが毎晩続くもんだから、ここんとこ毎晩……飲み続けでさ」
「――毎晩飲み続けてる割りには、顔見たの三日振りよ。どこか他所の店で、良い娘でも見付けた?」
拗ねた様な表情と仕草で、女給は飛鴻の腕を軽く抓る。
「え? そうだっけ? 二日振りの筈だけど」
飛鴻は惚けつつ、ストローハットを頭にかぶる。
「俺が飲みに来た時に、スーアンちゃんが店に出てなかったから、顔見れなかっただけじゃないかな?」
「嘘ばっかり、毎晩……店出てたよ」
スーアンと呼ばれた女給、ナオ・スーアンは少しだけ不貞腐れてみせてから、飛鴻の耳元に唇を寄せると、はにかんだ様な表情で囁く。
「――店に来れないなら、外で会ってもいいんだけど。私の家……ここから近いし」
「そいつは中々に魅力的なお誘いだけど、俺……一応は薬幇の食客って立場だから、薬幇の店の売れっ子に、何かする訳にはいかんでしょ。薬幇の怖い人に、怒られちまうよ」
おどけた口振りで、飛鴻はスーアンの誘いを断る。心の底から、勿体無いなとは思いつつ。
「薬幇の怖い人って……薬幇の人がが先生に、何か出来る訳ないじゃない。虎の尾を自分から踏む様な馬鹿は、薬幇にはいないわよ」
スーアンは裏社会において、飛鴻がどんな風に語られている人間なのか、ある程度は知っているのだろう。仮に飛鴻が薬幇にとって好まざる真似をしたとしても、薬幇が飛鴻相手に何か出来る訳も無いのを、スーアンは知っているのだ。
「――そもそも先生には怖い人なんて、この世に一人もいないんじゃない?」
「いや、いるよ。俺にだって怖い人くらい、何人かは……」
意外そうな表情で、スーアンは飛鴻に問いかける。
「何人かって……何人?」
「何人なんだろう? 俺もそれが知りたくて、ハノイに来た様なもんなんだが」
「――からかわないでよ」
飛鴻は事実を答えたのだが、スーアンはからかわれたのだと思い、不愉快そうに半目で飛鴻を睨む。
「先生、これ……ママから。さっきのお礼にって」
出入口の脇に佇んで、スーアンと話していた飛鴻に、店の中から現れた赤い旗袍姿の女給が声をかける。女給は手にしていた地酒のボトル……角瓶を、飛鴻に差し出す。
女給の言う「さっき」というのは、飛鴻が金清酒館で飲んでいる間、店内で起こったトラブルを解決した事だ。店の中で柄の悪い酔客が、女給や他の客に因縁をつけたり、暴力を振るおうとしただが、飛鴻が酔客を傷付けない程度に無力化し、店から放り出したのである。
「礼なんざ要らないよ、非番の俺が出しゃばらなくても、どうせ薬幇の連中が片付けただろうし」
夜の森の様に深い緑色の、硝子製の角瓶を受け取らずに、飛鴻は断りの言葉を続ける。
「それに……俺は日中に迷惑かけた分、金を落とすつもりで飲みに来たんだから、礼なんて貰う訳にはいかねぇさ」
「安酒ですので、遠慮なさらず。それに……貰って頂けないと、私がママに怒られてしまいます」
シニヨンにしているせいか、十代の娘の様に幼く見える女給は、困り顔で飛鴻を見上げる。
「――意外とずるい頼み方するね、嫌いじゃないけど……そういうの」
本気で困っている訳では無い、水商売の女のポーズなのは分かった上で、騙されるのも悪くは無いとばかりに、飛鴻は笑顔で角瓶を左手で受け取る。
「ネップ・モイか、有り難く貰っとくよ。安酒の方が、俺には似合いだ」
飛鴻の言うネップ・モイとは、角瓶の赤いラベルに書かれた酒の名。もち米で作られた蒸留酒で無色透明、ナッツ類で風味付けしてある、越南州の地酒だ。
「じゃあ、今夜はこれで」
右腕だけでスーアンを軽く抱き寄せ耳元で囁くと、飛鴻は身体を離し、おどけた風に二人の女給相手に挙手敬礼をして見せる。そのまま踵を返すと、右手を軽く何度か振りつつ、歩き去って行く。
「先生、明日も顔見せてよ!」
「――明日の夜まで、生きてたらな!」
背後からのスーアンの声に、飛鴻は冗談にしか聞こえない気楽な口調で言葉を返すと、酔客と夜の女で溢れ返る雑踏の中に消えて行く。一見、人ごみの中に紛れて姿を消した様にしか見えないのだが、飛鴻は実際に繁華街の路上から、一瞬で姿を消してしまっていた。




