暗躍疆域 39
「――交魔法を習得しても、安易に八部衆と戦うのは避けるべきなんだよね?」
幸手の問いに、朝霞は頷いてから答える。
「ナイルさんの話だと、数倍……下手すれば数十倍の数でかからないと、交魔法を習得した聖盗でも勝てないらしい」
「つまり八部衆が現れたら、戦わずに逃げろと?」
「そう言う事になるな」
朝霞の返答を聞いた神流は、やや不満そうな表情を浮かべる。聖盗としては戦闘に特化したタイプであり、短期間とはいえ苦行の末に習得した交魔法で、更に大幅に強くなった自覚がある神流としては、最初から逃げる前提なのは少し不満なのだ。
そんな神流の気持ちは、朝霞にも分からないではない。自分が得た力を実戦で試したいという誘惑に、朝霞自身も駆られる事はあるのだから。
だが、その誘惑に流されてはいけない自覚も、今の朝霞は同時に持ち合わせていた。持ち合わせている理由は、飛鴻相手の戦いを経験したせいだ。
速さには自信を持っていた朝霞は、明らかに自分より速い飛鴻と戦った結果、実体験として思い知っていた。自分達が井の中の蛙であった事を、この世界にはまだ底知れない力を持つ者達が、存在している事を。
「――この世界、俺達より強い連中なんて、幾らでもいるんだよ。今日……俺が戦った、死神って呼ばれてた男みたいに」
朝霞の言葉を聞いて、神流は遠くから見た朝霞と飛鴻の戦いを思い出す。明らかに手を抜きながら、圧倒的な速さと強さを見せ付けた飛鴻の存在を。
「香巴拉の八部衆も死神同様に、底知れない力を持つ類の連中だと考えておいた方が良い。交魔法を習得して、俺達は確かに強くはなったが、それでも可能な限り……その手の連中との戦いは避けるべきだ」
自分より強いだろうと認識した飛鴻の存在を、朝霞の言葉で思い出した神流の中から、逃げを基本とする策に対する不満が消える。戦って勝つ……いや、自分の強さを確かめたいという誘惑に駆られる愚かさに、気付いたのだ。
実際に飛鴻と戦った朝霞よりも、あくまで観戦していた神流は、その事に気付くのが僅かに遅れてしまった。
「強過ぎる力は麻薬に似ている、決して溺れる事勿れ」
突如、交魔法の解説書で繰り返されていた警告を、幸手が口にしたので、朝霞と神流は驚きの表情を浮かべ、幸手に目をやる。
「使った事なんてないけど、麻薬って欲しがるだけじゃなくて……使いたくなるものだよね」
淡々とした口調で、幸手は言葉を紡ぎ出す。
「あれって……強力な力を欲しがり、安易に交魔法のレベル上げに走ると、聖盗は身を滅ぼすから、レベル上げは極力避けるべきだって意味だと、私達は思ってたけど、それだけじゃないんじゃないかな」
同様の考えを持ち始めていた朝霞と神流は、真剣な表情で幸手の話に耳を傾ける。
「交魔法で強力な力を手に入れると、その強力な力を試したいという誘惑に駆られて、八部衆と安易に戦ってしまい、身を滅ぼす羽目になりがちなんだよ。だから、交魔法で得た強力な力を『使いたい』という誘惑も、身を滅ぼす麻薬に例えられていたのかもしれない……」
朝霞や神流には、その誘惑に対する自覚があったので、幸手の話は正しいと思えた。修行の際にも、似た様な誘惑に捉われそうになり、「強過ぎる力は麻薬に似ている、決して溺れる事勿れ」という警告により、その誘惑を振り払えたのも、二人は思い出したのだ。
そして、また何時の間にか朝霞達の心の中で、その誘惑は膨らんでいた。気付かぬ内に、麻薬の様な誘惑に捉われるが故に、解説書に繰り返し「強過ぎる力は麻薬に似ている、決して溺れる事勿れ」という警告が記されていたのだろうと、朝霞達は思う。
「八部衆が現れた場合、いや……あの死神とか呼ばれてる飛鴻って奴が出て来ても、可能な限り戦いは避けて逃げに徹するのが、今のあたし達にとってはベストって事か」
神流の言葉に、朝霞と幸手は頷く。
「少なければ、即ち能く之を逃れ、若かざれば、即ち能く之を避く。故に小敵の堅は大敵の擒って奴さ」
「――何、それ?」
いきなり訳の分からない事を言い出した朝霞に、神流は問いかける。
「自軍が敵より劣勢なら逃げろ、勝ち目が無いなら戦うな、弱い奴が無理すると強い奴にやられるぞという、中国の兵法家……孫子の有り難い教えだよ」
「孫子の兵法か……。そんなもん何で知ってるんだ?」
「昔、オンラインゲームにはまってた時があったんだけど、孫子の兵法をゲームの戦いに応用するのが、そのゲームのプレイヤー連中の間で流行ってたんだよ。確か……それで知ってるんだ」
少し懐かしそうに、ゲームにはまっていた頃の事を、朝霞は思い出す。ゲームの中だけでなく、現実世界で出会って本当に友人となったゲーム仲間がいたせいだろう、関連する記憶が部分的に消え去っているせいか、記憶は途切れ途切れな部分もあるのだが。
「――孫子の受け売りしてた癖に、その兵法を無視しまくっては、自分より強い相手に突っ込んで、良くやられてたよね……」
思い出し笑いをしてから、幸手は懐かしげに呟く。
「それ、何の話?」
幸手の呟きの意味が分からなかった朝霞は、不思議そうに首を傾げて、幸手に問いかける。
「あ、いや……別に、こっちの話! 朝霞っちには関係無い話だよ!」
明らかに慌て気味の表情を浮かべた幸手は、朝霞を黒猫と呼ぶのを忘れつつ、誤魔化す様に話題を切り替える。




