暗躍疆域 34
夜のハノイで煌く街灯りの数は、大都市だけの事はあり、夜空で煌く星々に負けぬ程。高みから見下ろす景色は壮観であり、目を奪われぬ者はいないだろう。
だがハノイの殆どの建物は低く、高みからの夜景を楽しめる場所は殆ど無い。数少ない高い建物も、一般人が出入り出来ない物が多い。
その数少ない例外の一つが、八重塔……もしくはハノイの八重塔と呼ばれる建物だ。ハノイの中心部分にあり、高さ百メートルを越えるハノイの八重塔は、数百年前に建てられた、既に滅んだ宗教の神殿である。
八つの巨大な円盤を、大きい順に積み重ねた形状の、シンプルな外観。石造りの表面には、宗教的な意味合いの彫刻が施されていて、ハノイの観光名所の一つとなっている。
午後九時を回った頃合、塔の八階は多くの観光客で賑わっている。階数こそ八階と少ないが、それぞれの階の天井は高い為、今は展望台となっている八階の高さは百メートル程であり、観光客達は素晴らしいハノイの夜景に、目を奪われていた。
「――壊すには惜しい夜景だね」
そんな夜景を見下ろしながら、一人の青年が呟いた。石造りの窓枠に寄り掛かっている、長い黒髪をストレートにしている、青いアオザイ姿の青年だ。
一見すると女性にしか見えないが、胸の膨らみが無く、良く見れば男だと分かる。東洋系の人種で肌は抜ける様に白く、南国といえるハノイの者では無いのも、勘の良い者にはすぐに分かる。
「タンロン鉱山跡からは離れてるから、この街が戦場になる可能性は、今回は高くないとは思うんだけど」
青いアオザイ姿の青年の右隣で、同様に夜景に見惚れていた青年の呟きだ。こちらも髪は長くアオザイ姿だが、髪はポニーテールの様に頭の後ろで結っていて、アオザイの色は薄い緑。
双子なのだろう、顔は殆ど同じなのだが、ポニーテールの方が少しだけ引き締まった感じの顔立ちに、ストレートの方が幼い顔立ちに見えてしまう。性格が顔に出ているのかもしれない。
「今回は無事で済んでも、いずれは壊す羽目になるんじゃないの?」
残念そうな表情で、夜景を見下ろしながら、青いアオザイの青年が緑のアオザイの青年に問いかけた直後、二人のアオザイの青年に、別の者が声をかけてくる。
「――お前達に今更、人間共にかける情けがあるとは、意外だな」
声をかけて来たのは、中央部にある階段の方から歩み寄って来た青年。左手に白い大きな紙袋、右手にコーヒー豆を象ったマークが印刷された紙コップを持っている、体格の良い青年だ。
目に鮮やかなシフォンケーキの様な色合いの、亜細亜襟の半そでシャツに、くちなし色のハーフパンツという出で立ち。シャツの袖やハーフパンツの裾から除く腕と脚は筋肉質で、鍛え上げられた身体なのが一目で分かる。
東洋系の顔立ちだが、肌は褐色気味で彫りが深い。精悍な印象の顔や身体には、短く刈り込まれた黒髪が似合っている。
青いアオザイの青年は前髪を弄りつつ、体格の良い青年を見上げ、言葉を返す。体格の良い青年は、長身であるアオザイ姿の二人よりも、更に背が高い偉丈夫なのだ。
「人間は壊れたって構いやしないさ、惜しいのは街並と夜景だけ」
続いて、後ろで結っている髪束を左手で弄りながら、緑のアオザイの青年が声をかける。
「遅かったね、タイソン。予定時刻より三十分遅れだ」
「――色々と面白い物を見かけたんでな、時間がかかっちまった」
緑のアオザイの青年の右側で、体格の良い青年……グェン・タイソンは立ち止まる。夜景になど興味は無いとばかりに、窓枠に背をもたれ、手にした紙コップに刺さっているストローを咥えると、タイソンは珈琲を飲む。
「面白い物って、屋台か何か? 遅れたくせに、飲み食いする物買い込んでるし」
青いアオザイの青年に、皮肉っぽい口調で問いかけられたタイソンは、問い返す。
「何だ華麗、飲みたいのか? コーヒーならまだ袋の中に入ってるぞ」
タイソンが抱えている紙袋にはお菓子の袋と共に、コーヒーが満たされた紙コップが、まだ二本入っているのだ。紙コップにはストローが刺さった蓋がしてあるので、コーヒーは零れたりはしない。
「いらないよ、越南のコーヒーは苦過ぎて甘ったるくて、飲めたもんじゃない」
顔をしかめて、華麗と呼ばれた青いアオザイの青年……閔華麗は答える。
「――そうか? 塩気のあるものに合うんだけどな」
紙コップを窓枠に置くと、タイソンは紙袋の中に入っている別の紙袋に右手を突っ込み、中から黄色っぽい揚げ煎餅を取り出す。
「このバイン・フォン・トムとか」
芋の澱粉から作られる、海老の入った揚げ煎餅……バイン・フォン・トムを、タイソンは美味そうに食べる。
「タイソンが越南育ちだから、味に馴染んでるだけでしょ」
再び紙コップを手にしてコーヒーを飲み始めたのを見て、華麗が呆れ顔で言葉を吐き捨てた直後、何時までも飲み物や食べ物の話を、続けられたら困るといった風に、緑のアオザイの青年が会話に割り込んで来る。
「――で、その面白い物というのは? まさか本当に屋台で買ったコーヒーや、煎餅の訳でも無いだろうし」
問われたタイソンは、ストローから口を離してコーヒーを飲み込んでから、答を返す。
「宝珠が保管されている、最下層の地下空洞……サオトーで、ナジャの巣を見た」
ナジャの巣という言葉を聞いて、緑のアオザイの青年は驚き、目を見開く。




