暗躍疆域 30
薄い褐色の土砂に覆われた荒野が、夕陽に染まっている。地表だけでなく、百棟を数える大小様々な建物も、黄昏時に相応しい色合いだ。
建物は明らかに人に利用されていないのが、見た目で分かる。至る所が破損したまま放置され、荒れ放題といった状況。
ハノイの南西に数十キロに渡って広がるタンロン荒野、タンロンとは古い越南州の言葉で「昇龍」を意味している。その中央辺りに、かっては鉄鉱石の鉱山が存在し、小さな街の様に栄えていたのだが、その繁栄も既に遠い過去の話。
地下を蟻の巣の様に掘り続け、採掘可能な鉄鉱石を全て掘り尽くしたタンロン鉱山は、二十年程前に閉山に追い込まれた。かって鉱山を支えた多数の人々が暮らした建物と共に、地下鉱山はハノイ郊外に打ち捨てられてしまった。
ハノイから距離があり、他に何かがある訳でもないので、普段は無人のゴーストタウンといった感じのタンロン鉱山跡なのだが、たまに多くの人が訪れる時がある。ハノイの薬幇が大規模な裏取引の場として、人気の無いタンロン鉱山跡を利用するからだ。
地上の半壊状態の建物ではなく、利用されるのは地下に多数存在する空洞。地下は目立たぬだけでなく、行き当たりばったりに掘り進められた、多数の坑道は迷路の様に地下に張り巡らされているので、警察の手入れなどがあった場合、逃げ隠れ易いメリットもある。
それ故、麻薬や模造品、完全記憶結晶などの御禁制の品々を、裏社会の組織が大規模に取引する場に、地下鉱山跡は向いている。薬幇が大規模な取引を行う場合のみ、タンロン鉱山跡は人が多いのだ。
人が多いと言っても、殆どの人々がいるのは地下であり、かっては鉱山鉄道が出入りしていた、大きな出入口付近くらいしか、地上に人はいない。荷物を運び込む為、薬幇の者達が出入りしているので、賑わっている状態といえる。
鉱山鉄道の線路が残る、街道程の広さがある幅広い坑道が、地上から地下に真っ直ぐ伸びている。三十度程の勾配があり、地下百十メートル程の深さまで、鉄道や車両……人を運べる坑道の名はホァンダオ、黄道(太陽の通り道)を意味する越南州の古い言葉だ。
ホァンダオを通じ地上と繋がれているのは、地下鉱山跡最大の地下空洞であるマットチョイ。マットチョイは越南州の古い言葉で、太陽を意味する言葉である。
マットチョイやホァンダオだけでなく、タンロン鉱山跡の主要な部分は、星に関わる古い越南州の言葉で名付けられている。鉱山が閉山するまでに、六つの大きな地下空洞が出来たのだが、その最大のものが小さな街なら、すっぽりと収まりそうな程の大きさがある、マットチョイ(太陽)。
マットチョイより下にある地下空洞が、それぞれサオトゥィー(水星)、サオキム(金星)、サオフォア(火星)、サオモック(木星)、サオトー(土星)と命名された。単に出来た順に水星から名付けられただけであり、それぞれの空洞の大きさと惑星の大きさに、相関性は無い。
そして、二番目に古くて深い所……地下三百メートル程の深さにある地下空洞、サオモックに朝霞は身を潜めていた。より正確にいえば、荒く削られたままの岩壁に口を開けている、一本の細い坑道の中に朝霞はいるのだ。
体育館程の広さと高さがあるサオモックの天井には、多数の照明が設置されているので、暗くは無い。サオモック自体も、鉄鉱石を掘った挙句に出来た大空洞だが、此処から更に細い坑道が多数、周囲や地下に伸びているので、周囲の壁は穴だらけの状態。
無数にある坑道の多くは、薬幇ですら完全に管理は出来ていないのか、タンロン鉱山跡への侵入と、中の移動は容易。警備の者達がいない坑道を見つけ出して侵入した朝霞は、タンロン鉱山跡の潜入調査を開始、一時間程あちこちを巡った挙句、サオモックに辿り着いたのだ。
ハノイ繁華街で騒ぎを起こした後、神流と共にホテルに戻った朝霞は、シャワーを浴びて服を着替えてから、起こった一連の出来事に関する情報を、黒猫団の三人で共有。タンロン鉱山跡に関してハノイ市街地で調べて回ってから、イダテンでタンロン鉱山跡に向った。
神流と幸手は薬幇の者達に見付からぬ様、物陰に隠したイダテンで待機中。朝霞一人でタンロン鉱山跡に潜入を開始した。
ハノイ市街地で調べた結果、地下鉱山内部は地上と違い、夏でも涼しい程らしいと知った朝霞の格好は、タートルネックの黒い長袖のシャツにカーゴパンツという、潜入時には着なれたもの。無論、変身時に利用するキャスケットや、様々な道具が入っているリュックも背負っている。
ホァンダオから離れた坑道から、タンロン鉱山跡に潜入した朝霞は、余りにも甘過ぎる警備体制に拍子抜けした。余りにも無秩序かつ多過ぎる坑道の数から、完全な警備が無理なのは、朝霞にも理解は出来たのだが、それでも蟻の巣の様に地下を巡る坑道で、地下鉱山を自在に移動出来てしまうのは、警備体制が甘過ぎると朝霞は感じたのだ。
だが、サオモックを目にして、朝霞の認識は変わった。サオモックは他所とは桁違いに厳しい警備体制が、敷かれていたのである。




