暗躍疆域 20
(透破猫之神になるか?)
仮面者に変身すれば、速さで飛鴻を上回れる筈だと朝霞は思うが、貴重な蒼玉粒を消耗してしまう。戦わずに逃げに徹すれば、蒼玉粒は僅かに縮むだけで済み、再度使用出来る可能性もあるが、黒猫団の存在を知られるのは避けられない。
可能な限り、朝霞としてはブラックマーケット本番前の、仮面者への変身は避けたいところ。
(なら、乗矯術で飛んで逃げれば?)
新しく得た力……乗矯術の存在を、朝霞は思い出す。飛鴻が速いと言っても、それは地上の話、空を飛べば逃げ切れるかもしれないと、朝霞は考える。
(煙水晶粒には、まだ余裕がある! 試して見るか……)
朝霞はシャツの胸元に右手を突っ込むと、胸に下げているミニボトルから、素早く煙水晶粒を一粒取り出す。そして、半袖なので剥き出しになっている左腕の内側に、素早く五芒星を描く、心の中で乗矯術を指定しながら。
煙水晶粒が消え失せ、五芒星から灰色の煙が大量に噴出し、朝霞だけでなく、飛鴻や妖風までもが、煙に包まれる。煙はすぐに周囲に散ると、空気に溶ける様に消え失せる。そして、姿を現した朝霞の背中には、少し身体から離れた辺りに、小さな翼が現れている。
乗矯術が略式で、発動したのだ。
(発動……成功だ! 逃げないと!)
飛ぼうと決意した朝霞の背中の翼から、灰色に輝く光の粒子群が、噴出し始める。朝霞の身体はふわりと、宙に舞い上がり始める。
やや驚いた様な顔で、飛鴻と妖風は朝霞を見上げるが、逃がさないとばかりに地面を蹴り、跳躍する。すぐに朝霞と同等の高さの空中に、二人は辿り着くが、空を飛べる乗矯術を使用する朝霞を、跳躍しただけの二人が追い続けられる訳が無い。
だが、そこで朝霞にとっては、驚くべき事が起こる。空中に跳んだ飛鴻と妖風の身体から、大量の灰色の煙が、噴出したのだ。少し前の朝霞が、乗矯術を発動した時の様に。
朝霞は嫌な予感に、襲われる。
(まさか、この二人も?)
嫌な予感は、当たっていた。風に流され、すぐに消え去った煙の中から姿を現した、飛鴻と妖風の背中には、形こそ微妙に朝霞の物とは異なるが、基本的には同様の物だと思われる翼が出現し、灰色に輝く光の粒子群を噴出していたのだ。
「乗矯術まで使うのには、少しばかり驚いたが、五芒星での略式発動という事は、陰陽術の乗矯術かな?」
空を飛んで、朝霞を追い駆けながら、飛鴻は続ける。
「聖盗が交魔法を発動させる時に、良く使う術だ」
(乗矯術が使えるどころか、交魔法の存在まで知ってるのか? 何者だこいつら?)
朝霞は心の中で自問する、空を飛び続けながら。
(薬幇の連中は、先生とか呼んでたから、フリーの用心棒か何かだと思ったんだが、違うんじゃないのか?)
無論、答など思い浮かぶ筈も無い。とりあえず今は、逃げる方が優先だ。朝霞は雑然とした街の上空を、必死で飛んで逃げるが、飛鴻と妖風を振り切るどころか、あっさりと空中で二人に挟撃されてしまい、空中で動きを止められてしまう。
二人がかりのせいもあるが、単純に朝霞よりも、飛鴻の飛行速度や技量は数段上であり、妖風は速度こそ朝霞と大差無いが、飛行技量は明らかに朝霞を上回る。どちらも自分より、乗矯術で空を飛び慣れていると、朝霞は感じる。
「乗矯術は元々、陰陽術ではなく仙術のもの!」
高度五十メートル程の高さを、十メートル以上の距離を取りながら、飛鴻と共に朝霞を挟み、滞空している妖風は、勝ち誇った様な口調で続ける。
「所詮は偽物に過ぎない、陰陽術の乗矯術で、本物の乗矯術を使う私達から、逃げられる訳などないでしょう!」
「いや、術の能力自体には差は無いよ。略式で発動させる際、使う魔術式が五芒星か、太極図かの差があるだけで」
飛鴻は妖風の言葉を、さらりと否定する。その左腕には円を逆S字の曲線で分割し、その分割された両方に、点が打たれている感じの小さな図が描かれている。
この図が陰陽太極図、仙術を略式で発動する際に使用される魔術式の記号で、大抵は太極図と略される。本来の太極図は分割された片方が塗り潰され、点の部分は色が抜かれているのだが、略式で記述される際は、両側共に塗り潰されず、点が打たれるだけだ。
「個人の向き不向きはあるし、功夫を積めば……より速く、より上手く飛べる様になるだけの話さ」
飛鴻は朝霞を指差し、言葉を続ける。
「お前さんは、かなり乗矯術に向いてるタイプの様だが、如何せん……走り以上に功夫が足りない。一目見て分かるくらいに、飛び方が未熟……まだ覚えたてだろう」
(ま……覚えたてなのは事実だが、参ったな……。乗矯術でも逃げられないとなると、透破猫之神になるしかないじゃないか)
そんな朝霞の心の中を、見透かしたかの様に、飛鴻は朝霞に問いかける。
「そろそろ手詰まりだから、仮面者に変身しようとか、思っているんじゃないか?」
考えを読まれた朝霞は、言葉を返せない。戦いのペースを、完全に飛鴻に握られてしまっているのが、苛立たしく……朝霞を焦らせる。




