暗躍疆域 19
そんな朝霞に追いついた、白い華武服の男に、飛鴻は声をかける。
「妖風、下がってろ。この鼠は……俺がやる」
妖風と呼ばれた、白い華武服の男……倫妖風は、朝霞と十メートル程の間合いを取った上で立ち止まり、不満そうに言い返す。
「私が……この鼠程度に、遅れを取るとでも?」
「この鼠が、お前より強いとは言わねぇよ。だが……お前より速いし、相性は悪そうだ。ここは俺に譲っとけや」
「――分かりました」
やや不満そうではあるが、飛鴻の言葉に妖風は従い、引き下がる。
「ま、そんな訳で……そこの鼠、逃げるのは諦めな。妖風より速いってのは、中々の速さではあるが、その程度じゃ俺から逃げるのは無理ってもんだ」
飛鴻は妖風から朝霞に、話の相手を変え、言葉を続ける。
「お前さんの速さは、脚力に頼り過ぎていけない。功夫が足りないんだよ」
朝霞は飛鴻の話など、聞いていられるかとばかりに、再び……今度は一度、先程とは別の建物の屋根に向って跳躍し、その屋根を蹴って即座に切り返すと、五十メートル程離れた場所に着地してから、全力で駆け出す。
そんなフェイントをかけた上で走り出した朝霞は、今度も飛鴻に行く手を塞がれる。目の前に、涼しい顔の飛鴻が、最初からその場にいたかの様に、立ち塞がったのである。
だが、今回はフェイントをかけた事からも分かる様に、朝霞も飛鴻を警戒し、飛鴻が現れるかもしれない前方を、全力で注視していた。瞬延の領域にこそ入れはしないが、動体視力を極限まで引き上げて、現れるかもしれない飛鴻の姿を目で捉え、何が起こっていたのかを、正確に理解する為に。
そして、捉えた……自分を数段上回る速さで地を駆け、自分の前に平然と回り込み、立ち止まった飛鴻の動きを。安定した移動姿勢に、力が無駄になるのを感じさせない、独特かつ高速の足運びを。
(こいつ、ただ単に……俺より数段速いんだ!)
煙水晶界を訪れて以来、実は自分より速い人間に出会った経験が、朝霞には無かった。故に、自分より速い相手はいないだろうと、心のどこかで自惚れてしまっていたが故に、その当たり前で単純な答に、辿り着くのが遅れてしまっただろう事を、朝霞は自覚する。
「大して金目の物は無い薬幇のアジトに、マーケット前日に潜入するとなると、おそらくはマーケットの商品……玉狙いの泥棒だろう」
飛鴻は朝霞を観察しながら、推測を語り始める。通りからは既に一般客は退避していて、薬幇の者達しかいないので、マーケットや玉……完全記憶結晶について、飛鴻は口にしてしまっている。
「常人ならざる速さを出せる脚力を持ちながら、それとはアンバランスな歩法の未熟さ、身体能力頼りの動きからして、お前さん……泥棒とはいっても、玉狙いの聖盗だね?」
蒼玉界に来て以来、かなりの修行を積んだとはいえ、朝霞の速さが二色記憶者であるが故の、高い身体能力頼りであるのは事実。完全記憶結晶を大量に扱うブラックマーケットの開催日前に、それを主催する組織のアジトに潜り込んだ、異常な身体能力の持ち主である事から、飛鴻は朝霞を聖盗だと推測したのだ。
「だったら、何だってんだ?」
朝霞に聞き返された飛鴻は、ポケットから両手を出すと、両手の親指と人差し指を組み合わせ、目の前に長方形を形作り、その中から朝霞を覗いて見る。
まるで、写真家や絵描きが、指で作ったフレームで、目に映る光景を切り取るかの様な仕草。指のフレームに収まる、深呼吸を終えようとしている朝霞を目にして、飛鴻は表情を少しだけ曇らせる。
「――悪い事は言わないが、明日のマーケットからは手を引け。手を引くなら、ここは見逃してやる」
驚く様な話を、飛鴻が持ちかけて来たので、朝霞は驚きの表情を浮かべる。だが、万単位の完全記憶結晶が取引されるというブラックマーケットの為、ハノイを訪れた朝霞にしてみれば、そんな話に応じる訳にはいかない。
「手を引けと言われて、引く聖盗がいる訳ないだろ!」
「ま、そりゃそうなんだが、お前さん……死相が出てるんだよ」
「死相?」
朝霞の問いに、飛鴻は頷く。
「君の前にいる男は、指の囲いから相手を覗けば、死神に魅入られているかどうか分かる……つまり、死相が見えるんですよ」
何時の間にか、朝霞の背後に移動して来ていた妖風が、朝霞に説明する。
「死を占う仙術の秘術、名は死相算命」
(シェンシュウ……仙術か。確か流派ごと、禁忌魔術だか禁術だかになってる、危険な魔術だったな)
瀛州読みではなく、四華州の発音を多用する妖風の話に、やや聞き取り難さを感じながらも、朝霞は妖風を一瞥し、言い返す。
「死を占うって、ただの占いだろ! 当たるも外れるも運次第じゃねぇか!」
「運次第? 死相算命が、そんな生易しい術なら、飛鴻自身が死神などという、縁起の悪い通り名で呼ばれたりはしません。飛鴻が死相算命で、死相を見た者達の半数程は、数日中に死んでいるのですから」
妖風の言う通り、飛鴻は裏社会では、死神と呼ばれる場合がある。死相を見る秘術を使うだけでなく、その圧倒的な強さを恐れる者が、その強さを死をもたらす死神に例えているのも、死神と呼ばれる理由である。
「その話が本当かどうか知らないが、仮に本当だとしても……半分しか死なない死相とか、そりゃ随分と怠け者の死神が多いんだな」
「死なずに済んだ半数は、飛鴻の忠告に従った者達。死を避け得る忠告を無視した、残りの半数は……全て死んでいます」
妖風は朝霞を指差し、言葉を続ける。
「つまり、飛鴻の忠告を無視すれば、君は死ぬ側の半数に回る羽目になります。死にたくなければ、飛鴻の忠告を聞き、明日のマーケットは諦める事ですね」
「ご忠告は有り難いが、占いの類は信じないタイプでね……」
朝霞は妖風に言い返しつつ、どうすべきか思考を巡らす。人の死相を見る占いの話などは、流石に信じる気にはなれないので、口にしている通り気にもしないが、飛鴻の速さは本物、このまま走って逃げ切るのは無理だと、朝霞は判断せざるを得ない。




