暗躍疆域 18
(いや、出て来なさいと言われて、出て行く馬鹿がいるかよ!)
壁に隠れていた朝霞は、心の中で突っ込みを入れる。店内に他に出口はないか、朝霞は店内を探しまくっていたのだが、結局は壊した出入口以外に見付からず、壁に身を隠して、外の様子を窺っていたのである。
「出て来ないなら、仕方が無いですね。出来れば使いたくなかったのですが……」
白い華武服の男は、ポケットから鶉の卵程の大きさの、小さな白い玉を取り出す。玉の表面には、東方表意文字に似た言語で記された、小さな魔術式が記述されている事から、エリシオン式では無いが、魔術機構が仕込まれた物であるのが分かる。
玉に記された魔術式の中央にある、ボタンの様な部分を、数秒間……長押ししてから、白い華武服の男は店の出入口に向けて、その玉を放り投げる。見事なコントロールで出入口から、朝霞が身を隠す店内に投げ込まれた玉は、床に当たって炸裂する。
炸裂したと言っても、爆弾の様に建物や中にいる人間を、吹っ飛ばしたりはしない。大量の灰色の煙を、店内に撒き散らすだけの代物だ。
だが、店内を撒き散らした煙が、ただの煙では無い事に、朝霞は瞬時に気付く。うっかり少しだけ、その煙を吸い込んでしまい、激しく咳き込んだ事によって。
(――ただの煙でも、煙水晶粒を使った魔術の煙でも無い! 吸ったら駄目な……催涙ガスの類? 店内には薬幇の連中だっているのに、俺を燻り出す気か!)
痛む胸の感じから、吸い続けたら危険な煙だと判断した朝霞は、仕方が無く……出入口から飛び出す。そして、すぐに深呼吸して……肺の中の空気を入れ替える。
そんな朝霞の姿を目にして、白い華武服の男は、白いスーツの男に声をかける。
「煙卵に燻り出されて、出て来ましたよ、鼠が……」
煙卵とは、煙の卵……煙玉の様な、投擲武器だ。視界を遮る煙幕から有毒な煙まで、仕込める煙は様々。煙卵の煙によって、朝霞は店の中から燻り出されてしまったのだ。
「酷い事しやがるな、まだ薬幇の連中だって、中にいるだろうに」
白いスーツ姿の男は、呆れた様に呟く。
「――吸い込んでも、別に害は有りませんよ。死ぬ程に苦しい思いをするだけの、人体には無害な煙ですから。いや、無害どころか……関節痛と腰痛が治る、薬効がある煙ですし」
事も無げな表情で、白い華武服の男は言い放つ。
「身体には無害だろうが、心の健康にゃ害が有り過ぎだ。後で薬幇の連中には、謝っておけよ」
白いスーツ姿の男の言葉に、白い華武服の男は、素直に頷く。
「――それにしても、あの鼠……」
まだ深呼吸を続けている、朝霞の姿を視認して、白いスーツ姿の男は、楽しげに笑い出す。
「何が可笑しいんです?」
白い華武服の男の問いに、白いスーツ姿の男は、笑顔で答える。
「――いや、何……鼠が、鼠色の服着てるもんだからさ」
姿を現した朝霞の服装は、エアダクトを通った時の煤汚れで、白いスーツ姿の男が言う通り、まさに鼠色といった状態。
「笑う様な場面じゃありませんよ、敵が現れたんですから」
白い華武服の男は、白いスーツの男を、呆れ顔で窘める。
「まぁ、言うだけ無駄なんでしょうけど、緩み過ぎです……飛鴻」
飛鴻……洪飛鴻というのが、白いスーツ姿の男の名だ。瀛州読みでは、洪飛鴻となる。
「幾ら、貴方の出番が無いとはいえ、仕事なのだし……薬幇の連中も見ているんです。真面目にやっている振りくらいは、して貰わないと」
白い華武服の男は、そう言いながら……朝霞に歩み寄って行く。解しているのか、両腕を軽く回しながら、余裕のある表情で。
(――冗談じゃない、相手してられるか! 逃げないと!)
吸い込んだ煙を吐き出し終わり、何とか身体の調子が戻った朝霞は、逃げる決意を即座に固めると、地を蹴って全速力で駆け出す。牌楼がある、通りの出口に向って。
地下街よりも通りには障害物が少ないし、薬幇が避難させたのだろう、巻き込んでしまいかねない客の姿は無い。地下街では薬幇の者達と戦いながらでもあった為、走るスピードは抑え気味だったのだが、今の地上の通りなら、抑える必要は無い。
「な、何?」
常人の域を超えた速さで、駆け出した朝霞を目にして、白い華武服の男は驚きの表情を浮かべる。完全に、男の想像を超えた速さだったのだ。
白い華武服の男は、即座に朝霞の後を追い駆け始める。男の速さはかなりのものなのだが、朝霞には劣り、追いつけはしない。
朝霞は白装束の二人から、逃げ遂せられるかと思ったが、そうはならなかった。
「え?」
今度は朝霞が、驚きの声を上げつつ、急停止する。靴のソールが悲鳴を上げながら、地面と擦れて削れる程の、急激な止まり方。
何故、朝霞は急停止したのか? それは、目の前に……背後に置き去りにした筈の、白いスーツ姿の男……飛鴻が立っていたからだ。
ズボンのポケットに両手を突っ込み、初めからそこに立っていたかの様な、気楽で自然な佇まいで、朝霞の十メートル程先に、飛鴻は立っていた。
「――何で、こいつが……俺の前に?」
背後にいる筈の男が、目の前に現れた事に驚き……混乱しつつも、直進する訳にはいかなくなった朝霞は、地を蹴って宙に舞い、二階建ての建物の屋根に飛び乗る。そして、建物の屋根を走り抜け、イー・ホフ通りから逃げ出そうとするが、それは不可能。
何故なら、屋根の上……朝霞が逃げようとした方向には、先程の様に飛鴻がいたからだ。今度もまた、ポケットに両手を突っ込んだままの、気楽な感じではあるのだが、確実に朝霞の進行方向に立ち塞がっている。
「またか! どうなってんだ?」
朝霞は即座に屋根を蹴り、通りに再び下りて、全力で駆け出すが……また同じ事の繰り返し。走り出した朝霞の十メートル程先に、飛鴻が姿を現し、行く手を塞ぐ。
何が起こっているのか分からず、立ち止まったまま焦りの表情を浮かべる朝霞。状況を理解する為に、朝霞は神経を尖らせ、飛鴻の動きを探る。




