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大忘却と旅立ちの日 03

「げ! バニラとチョコレートしか残って無いじゃん! 俺のオレンジシャーベットは?」


 冷凍庫を開け、流れ出てくる冷気の心地良さを楽しみながら、青いタンクトップに短パンという、ラフ過ぎる格好の朝霞は不満を口にする。

 小腹が空いた為、アイスを食べようと思って、朝霞は冷凍庫を開けたのだが、自分の分であるオレンジシャーベットが残っていなかったのだ。


「バニラ食えばいいでしょ、好き嫌い言ってないで!」


 クーラーが程好く効いた、ダイニングキッチンの椅子に座り、テレビのバラエティ番組を見ていた、黒いTシャツにデニムのショートパンツ姿の、スタイルの良い女性が、冷凍冷蔵庫の前で不満げな顔をしている朝霞に、素っ気無く言い放つ。


「俺がバニラ好きじゃないの、知ってるだろ!」


 朝霞は冷凍庫の扉を閉めて、テレビを見ている、自分と良く似た顔の女性に、食って掛かる。


「この前スーパーで特売になってたアイスをまとめ買いした時、ちゃんと誰が食べるか種類で分けたじゃん! 俺がオレンジシャーベットで父さんが抹茶アイス、美里みさとがチョコレート、母さんがバニラって!」


「それはまぁ、そうだけど……バニラばっか食べてたら、食べ飽きたんで……さっきオレンジシャーベット貰ったのよ。だから、今回は代わりに、あたしのバニラで我慢しなさい!」


 あたしのバニラ……という発言から分かる通り、黒いTシャツ姿の女性は、朝霞の母親である。

 名前は、渡良瀬伊奈わたらせいな


「――やなこった! バニラみたいな気色の悪い食い物、食えるか! 俺のオレンジシャーベット返せ!」


「あーもう、しつこいな!」


 伊奈はショートパンツのポケットから、顰め面で五百円玉を取り出すと、朝霞に手渡す。


「コンビニでも行って、これで好きなアイス買ってきな!」


「コンビニ? こんな夜遅く……面倒なんだけど。近くのコンビニ休業中だし」


 五百円玉を受け取りながら、朝霞は不満そうに呟く。

 大忘却のせいで、二万人以上の住民が、記憶を全て失ってしまった川神市では、かなりの数の店が休業に追い込まれてしまっていた。


 朝霞が普段、利用していた近所のコンビニも、経営者夫婦が共に記憶喪失になり、休業中なのである。

 故に、近所ではないコンビニまで、買いに行かなければならないのだ。


「あんた最近、病院行く時以外、殆ど引き篭もり状態でしょ。いい運動になるから、グダグダ言ってないで、買いに行き来なさい!」


 伊奈の言う通り、大忘却の後、朝霞は病院に行く場合以外、殆ど家に引き篭もった状態である。

 何故かといえば、マスメディアの取材攻勢が、朝霞は鬱陶しかったからだ。


 数少ない大忘却の際の記憶を失っていない、部分健忘者である上、大忘却発生時に中心と思われる場所にいた朝霞は、マスメディアの興味を惹く存在となった。

 故に、渡良瀬家はマスメディアの取材陣に、取り囲まれる羽目になってしまったのである。


 病院に行き来する際なども、無遠慮な取材陣の取材攻勢を受けまくった朝霞は、すっかり取材に辟易していたので、取材に遭わずに済む様に、病院に行く際以外は、殆ど家から出なかったのだ。

 さすがに大忘却から一週間も過ぎると、世間の興味が他の事件に移った事もあり、家に貼り付く程の取材陣は、姿を消したのだが。


「――取材の連中なら、昨日の昼頃に見かけたの最後に、この辺りでは見かけないから、安心しな!」


「そうなの? 病院の方には……まだ結構いたけど」


 今日の夕方、市の中心部にある埼玉大学川神総合病院を訪れた際の事を、朝霞は思い出す。

 大忘却から数日置きに、朝霞は病院で検査を受けているのだが、その行き帰りに、朝霞はマスメディアの取材陣を、病院のロビーや駐車場などで見かけたのだ。


「まだ中央病院の方には、いるんだ。美里が入院してるとこには、全然いなかったけど……」


 伊奈の言う通り、朝霞の妹である美里は、入院中である。

 大忘却時、川神高等学校の近くにある、地元の中学に通っていた美里は、部分健忘で済んだ朝霞とは違って、全生活史全健忘を発症してしまった。


 朝霞の様な数少ない部分健忘者は、通院での検査や対策委員会からの聴き取り調査などしか行われていない。

 だが、大量に発生した、大忘却による全健忘の発症者達は全員、順番に入院した上で、徹底的な検査を受けている。


 しかし、全健忘の発症者達は数が余りにも多い為、関東の様々な病院に振り分けざるを得ない状況。

 故に、全健忘の発症者である美里は、隣接する市の病院で入院検査を受けている為、伊奈は今日、美里が入院している病院の方に行っていたのである。


 ちなみに、伊奈が冷凍庫のチョコレートアイスを食べずにオレンジシャーベットを食べたのも、朝霞が伊奈に食べられたオレンジシャーベットの代わりに、チョコレートアイスを食べると言い出さないのも、チョコレートアイスが美里の物であり、好物だからだ。

 記憶を全て失って入院中の、娘や妹の物に手を出す様な真似は、伊奈にも朝霞にも出来ない。


 例え、チョコレートアイスが好物だったという記憶を、美里が失っていたとしても……。


「取材の連中がいないなら、運動不足解消ついでに、行って来るか」


 伊奈に背を向け、ダイニングキッチンから出て玄関に向かおうとした朝霞の背中に、伊奈が声をかける。


「ちゃんと釣りは返しなさいよ!」


「分かってるって!」


 振り返りもせずに、そう言い返すと、朝霞は部屋着のまま着替えもせずに部屋に戻り、スマートフォンを短パンのポケットに突っ込んでから、玄関に向かう。

 そして、靴箱の上に置いておいた自転車の鍵を取り、裸足のままスニーカーを履くと、ドアを開けて外に出て行った。


    ×    ×    ×


 夏の夜、肌に汗が滲む程度には暑いのだが、朝霞の場合、汗はすぐに乾く。

 自転車で走っているので、程好い風に身を洗われている様なものだからだ。


 虫がたかり、誘蛾灯の様になっている街灯が照らす夜道に、人影は殆ど無い。

 前には夜にでも開いていた、店や娯楽施設の多くが閉まっているので、必然的に人通り自体が減ってしまっている。


 大忘却前には、様々な店の電飾や看板で賑わっていた通りも、街灯以外に明かりが無かったりもする。

 昼間よりも夜の方が、街の景色の寂れ様が良く分かる。


 既に夏休み期間に入っているのだが、夜遊びに興じている若者達を見かけたりもしない。

 高校を中心に、市内にある中学や大学までもが大忘却に巻き込まれ、多くの若者達が記憶喪失となり、遊ぶどころでは無いのだ。


 寂しい夏の夜道を、朝霞は一人……自転車で駆け抜ける。

 ペダルは軽い……運動不足の筈なのだが、体力は落ちるどころか、むしろ相当上昇している気が朝霞にはした。


(思い違いかもしれないけど、色々とパワーアップしてる気がするのよね、大忘却以降。目や耳も良くなったし、妙に勘が鋭くなった気もするし……)


 病院に行かない時は、殆ど部屋に引き篭もり、オンラインゲームなどに、朝霞は興じていた。

 そのオンラインゲームでの朝霞の成績は大忘却以降、殆ど負け知らずといえるくらいに上昇しているのだが、その原因は……視覚や聴覚、反射速度や勘が大忘却以前に比べ、異常に鋭くなったせいだった。


(おまけに力もついてるみたいだ……むしろ弱ってて当たり前な筈なのに)


 不思議に思いながら、以前なら全力で漕いでもキツく、歩いて上る事も多かった坂道を、朝霞は軽く感じるペダルを漕ぎ続け、上がって行く。

 そして、普段は余り使わない、駅近くのコンビニに辿り着いた朝霞は、自転車を停めて、誘蛾灯に誘われる蛾の様に、明るいコンビニの店内に吸い込まれて行く。


 夜に開いているコンビニが減ったせいか、午後十時前にしては混んでいる店内で、朝霞は目当てのオレンジシャーベットを手に入れると、会計を済まして店外に出る。

 家に持って帰ってから食べようとすると、ある程度は溶けてしまう気がしたので、朝霞はコンビニの駐車場に停めた自転車を椅子代わりにして、オレンジシャーベットを食べてから、帰宅する事にした。


 朝霞は早速、オレンジシャーベットを袋から出して蓋を開け、食べ始める。

 木の匙ですくい、口に運んだオレンジ色の塊が舌の上で溶けると、舌が甘味を楽しみ、柑橘系の爽やかな香りが鼻腔に抜け、嗅覚をくすぐる。


(――ん! やっぱコレだよねぇ! アイスはフルーツ……特に柑橘系に限る、バニラとか糞だ!)


 木の匙を、オレンジシャーベットのカップと口の間を往復させる。

 その合間に、爽やかな甘味を楽しみながら、夜空を見上げ……星空を楽しむ。


(クーラーが効いた家の中で食うより、暑い外で……夏の夜空とか眺めながら食べた方が、オレンジシャーベットも美味いよなぁ!)


 外で食べた方が美味いと考えたのは、朝霞だけでは無いようで、コンビニの駐車場では、朝霞以外にも自転車やバイクを椅子代わりにしたり、ベンチでアイスを食べている人が、数人いた。

 朝霞同様、夜空を見上げたりしながら。


(いやー、遠くのコンビニまで買いに来て、良かっ……え?)


 驚きの余り、口に含んでいたオレンジシャーベットを、朝霞は噴き出しそうになる。

 自分が見た光景が信じられず、匙を持ったままの手で目元を何度か擦ってから、もう一度……夜空を見上げる。


(見間違いでも、錯覚でも無い!)


 朝霞は呆然とした顔で、夜空を見上げる。

 そんな朝霞の目線の先にある夜空には、まるで煌めく星々をインク代わりに使って、書き込んだかの様に、文字……というか、文章が浮かび上がっていたのだ。


 ほんの少し前に現れたばかりの、夜空に浮かび上がった文章を、朝霞は黙読する。


(このメッセージは、世界間鉄道運営機構広報部による告知です。西暦二千十四年七月二十二日、世界間鉄道が川神駅まで、開通しました。この世界における記憶強奪事件の被害者となった皆様方の中で、自力で自分や……大事な人の記憶を取り戻そうという意志のある皆様方は、川神駅零番ホームにおいで下さい。世界間鉄道運営機構は、皆様方に協力を惜しまぬ所存です。なお、このメッセージは、記憶の一部を奪われた被害者の皆様方しか、見る事は出来ません……だって?)


 朝霞は辺りを見回し、夜空を見上げながら、アイスを食べている人達の様子を探る。

 だが、朝霞以外は夜空の異変になど気付いていない様で、普通にアイスを食べ続けていた。


(――あのメッセージが見えてるのは、ここでは俺だけなのか!)


 本来なら、周りの人には見えていないらしいメッセージが、夜空に表示される光景を目にしたとしても、自分が幻覚でも見たのだろうと思い、自分が見た光景の実在を疑うのが普通だろう。

 そんな事は、有り得る筈が無いのだから。


 だが、一週間程前に起こった大忘却の際、既に朝霞自身は有り得る筈が無い光景を、目にしてしまっているのだ。

 そして、その光景を全てでは無いものの、朝霞同様に記憶の一部を失った者達が数名、目にしているのを朝霞は知っている。


 常識を飛び越えた何かが、川神市で起こっている……。

 自らの経験から、そういう認識があった朝霞は、この場では自分にだけ見えているらしい、夜空に表示されたメッセージの存在を、幻覚だと片付ける気にはなれなかったのだ。


(行ってみるか、川神駅……)


 意を決した朝霞は、まだ少しだけ残っていたオレンジシャーベットを、口の中に匙で掻き込んで食べ終える。

 カップや蓋……木の匙をコンビニ袋に入れ、近くにあったゴミ箱に捨てると、自転車の鍵を解除し、朝霞は夜道を自転車で走り出す。


 コンビニから、それ程遠くは無い、川神駅に向かって……。


    ×    ×    ×





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