越南州へ 06
「――水田に入って三十分くらい過ぎたし……いくらハノイ近郊で、稲作が盛んだからといっても、そろそろ水田以外が見えて来てもいいんじゃないの?」
白猫団と呼んだ方が相応しい、白尽くめの格好の朝霞が、フロントガラスの向こうを眺めながら、幸手に問いかける。無論、水田以外というのは、ハノイの市街地の事だ。
車通りが多くなって来ているので、ハノイが近付いて来ている事は確実。だが、まだ前方に……その姿形は視認出来ない。
「そろそろの、筈なんだけどねぇ」
幸手も前方を眺めながら、答を返す。
「大都市なんだけど、高い建物が少ないらしいから、遠くからは見付け難いんだよ、たぶん」
国とは言っても、事実上は自治州に近い程度に、独立した権限がある州の連合体であるエリシオンの各州には、経済や社会の発展度合いに、ある程度の差がある。越南州の場合は、数十年前まで隣接する州との境界争いや、州内で激しい権力闘争が行われ、疲弊したのが原因となり、発展している部類である瀛州に比べると、発展が遅れている部分が多い。
幹線道路の状態や、高い建物が少ないのも、そのせいといえる。蒼玉界でいえば、発展途上国といった状態だ。ただし、逆に言えば既に発展し、百年単位で停滞している、瀛州などと違い、発展中で活気が有るとも言えるので、別に悪い事ばかりでは無い。
稲作を中心として農業が盛んな州であり、古い遺跡などが多数残っていて、観光地としても人気が有るという。
「――ん? あれか?」
一直線に伸びる幹線道路と、地平線が交差する辺り、微妙に地平線が波打つ感じに見えたので、朝霞は声を上げる。波打つ地平線の様に見えた辺りは、イダテンが前進するにつれて大きくなり、高さがまばらな建物と、その無数の建物から立ち上る煙が乱した、地平線なのだと分かる様になる。
「ハノイだ!」
車中の三人は、ほぼ同時に同じ声を上げる。ようやく、目的地であるハノイが視界に入ったので、喜びの声を上げたのだ。
近付くにつれ、ハノイの巨大さに、三人は圧倒される。高い建物こそ目立たないが、郊外の農村まで含めた人口が、二百万を越えると言われるハノイの大きさは、越南州の州都だけの事はある。
イダテンが走る路線だけでなく、他にも幾つかの幹線道路が、ハノイには通じているらしい。平行して遠くを走る、ハノイに向っている車の姿や、ハノイから遠ざかる車の姿も、朝霞達の視界に入って来る。
その多くが、運送業者の物なのだろう、大型のトラックだ。イダテンの様な小型車は、殆ど見当たらない。
「これだけ大きな都市なら、そりゃ開かれるブラックマーケットも、でかくはなるか……」
地平線を埋め尽くすかと思われる程に、横に広がって見える、巨大都市ハノイが近付いて来るのを見て、朝霞は呟く。朝霞には、万単位の完全記憶結晶が取引されるという、史上最大規模のブラックマーケットが開かれるのに、ハノイは相応しい場所に思えた。
「――香巴拉の連中、現れるのかな?」
ブラックマーケットの事が頭に浮かんだせいだろう、ふと幸手が疑問を口にする。
「現れないでいてくれたら、それに越した事は無いんだけどさ……」
幸手の問いへの朝霞の答は、ただの願望だ。実際には、現れるだろうと、朝霞だけでなく、問いかけた幸手自身も覚悟をしている。無論、何も口にしなかった神流も。
香巴拉と、その八部衆の存在を思い出し、目的地であるハノイを目にして喜び、浮ついていた三人の心が、引き締まる。今回の聖盗としての仕事が、これまでに無い程に、命の危険が高いのを、三人は思い出したのだ。
気を引き締めなおした三人を乗せて、イダテンは突き進んで行く。翌々日にブラックマーケットが開かれる巨大都市、ハノイに向って。




