大忘却と旅立ちの日 01
何の夢を見ていたのかは覚えていない、ただ何となくだが嫌な夢から目覚めただろう事は、後味の悪さと安堵感の入り混じった寝起きの感覚から、朝霞には何となく察せられる。
(――何だろう、この嫌な感じ……)
その今現在、自分が覚えている嫌な感じを、言語化してみようとする朝霞の頭に、喪失感という言葉が浮かぶ。
(喪失感……か。確か、大事な物を失くした時に、こんな感じがするんだ……)
自分が何を失ったのか、朝霞には分からない。
でも、寝起きの今、何か大事な物を失ってしまったという確信が、朝霞にはあったが故の喪失感だった。
一体自分に、何が起こったのか、朝霞は思い出してみようとする。
だが、ほんの数秒前まで寝入っていたので、まともに何かを思い出せる訳も無い。
(いや、でも……何か、妙な歌が聞こえた様な気がしたが)
歌詞の意味すら分からない、不思議な言葉で歌われた歌を聞いて、朝霞は目覚めさせられた覚えがあった。
その歌は、今も朝霞の耳には聞こえ続けている。
何処から歌が聞こえて来るのか、確かめてみようと、朝霞は目を開く。
目を開いた朝霞の視界に飛び込んで来たのは、梅雨明けの強い陽射しに照らされた、教室の中。
その光景を見て、朝霞は自分が何処で寝ていたのか、気付く。
(教室で、居眠りしてたのか……俺。この変な歌は、何処から?)
左側にある窓の外……校庭の方から、その不思議な歌は聞こえて来るのだが、聴覚が捉える不可思議な歌以上に気になる異変を、朝霞の視覚が捉えた。
机に突っ伏している他の生徒達の身体が、仄かな青い光に包まれていたのだ。
黒いズボンや黒いスカートの辺りは確認し辛いが、白い半袖のシャツやブラウスは、青白く染まっているので、青い光に包まれているのが確認し易い。
「な、何だァ!」
驚きの声を上げる朝霞の視界の中で、青い光は生徒達の身体から離れ、生徒達の頭上に集まって行く。
そして、集まった光は掌に収まりそうなサイズの、透明感のある青い球体に姿を変えると、意味不明の文字列の様な何かが、その青い球体の表面に浮かぶが、すぐに消え失せる。
「お、俺もなのか?」
他の生徒達の様子を見て、自分にも同じ現象が起こっているのではと考えた朝霞は、慌ててポケットからスマートフォンを取り出し、そのモニターを鏡の代わりにして、自分の頭上の様子を確認する。
朝霞の頭上にも、青い光は集まっていた。
だが、他の生徒達に比べて光の量は少なく、透明感のある青い物体に光は姿を変えたが、大きさは他の生徒達に比べて、数分の一であり、形も球体ではなく、球体の欠片といった感じであった。
(あ、喪失感の原因は……これだ!)
その青い球体の欠片の様な物を目にして、朝霞は何故か直観した。
自分の物だけ、他の生徒達の球形の物と形が違うが、一目見て、それが自分にとって掛け替えの無い大事な物であると、朝霞は本能的に察したのだ。
(これが……俺の身体から喪われて、こうやって外に出てるから、何か大事な物を喪った様な感じがしたんだ)
大事な何かを取り戻す為、朝霞は青い欠片に向かい、手を伸ばす。
「これを元のとこに……戻さないと!」
そう朝霞が呟いた直後、朝霞の頭上の青い欠片も、他の生徒達の青い球体も、一斉に移動を始める。
エアコンが効いている為、閉まっている窓ガラスを、激しい音を立てて突き破りながら、青い球体と青い欠片が、教室の外に向かって飛び出して行く。
だが、こんな異常事態が発生している中、窓ガラスが割れたにも関わらず、何らかの反応を見せたのは、朝霞だけであった。
朝霞だけが窓ガラスが割れた音に悲鳴を上げたが、他の生徒達や教壇にいるジャージにTシャツというラフな出で立ちの女教師は、ただ呆然としたまま椅子に座っているだけで、この異常事態に何の反応も見せない。
(どうなってるんだ?)
他の人達の無反応さも気になるが、それ以上に自分や他の人達から発生し、飛び去った青い物の行き先が、より朝霞には気になった。
その青い物が、何か自分にとって、凄く大事な物である気が、朝霞にはしていたが故に。
その大事な物の行き先を、朝霞は目で追う。
窓を突き破って教室外の空に飛び出した青い物は、そのまま軌道を変えて、急降下を始めたのを、朝霞の目は捉える。
青い球体は、教室から飛来した物だけではない。
窓の外……空には、校外から飛来しただろう事が、曳いている光の尾の向きから分かる、無数の青く光る球体らしき光源が飛び交っていて、それらが皆、校庭に向かって落下して行く。
「校庭に向かってるんだ、あの青いのはみんな……」
窓の外を見ながら、朝霞は呟く。
そして、校庭に向かって落ちて行く青い球体とは逆に、校庭から空に立ち上っているらしい、幾条もの黒煙の存在にも気付く。
「――煙? 校庭で火でも炊いてるのか?」
校庭で何かが起こっているのは明らかである為、朝霞は窓に駆け寄って、窓から眼下に見渡せる筈の校庭の様子を確認しようと思うが、窓際辺りは窓ガラスの破片が散らばっていて、安易に踏み込める状態ではなかった。
故に直接、三階にある教室を出て、校庭に駆け下りて状況を確認しようと決意する。
(状況確認した上で、あの青い欠片を……取り戻さないと!)
心の中で呟きながら、教室の後ろのドアを乱暴に開けて飛び出し、朝霞は廊下を駆ける。
誰もいない廊下を駆けながら、途中で他の教室を覗き込み、様子を瞬時に確認するが、他の教室も朝霞の教室と大差は無い状況。
階段を飛び降りるかの様に駆け下り、下駄箱に向かった朝霞は、即座に上履きからスニーカーに履き替え、ドアを開けて校舎を飛び出す。
朝霞は即座に、校庭を見渡し、大雑把な状況を確認する。
昼間にも関わらず、空はまるで青い流星雨が降り注ぐ、夜空の様な状況。
白く聳え立つ校舎からや、校外から飛来する無数の青い球体(その一部は球体ではなく、朝霞自身から生み出された物の様に、欠片なのだろうが)が、光の尾を曳いて校庭に落下して来ているのだ。
青い球体が落下して行く先に目をやると、そこにあるのは……巨大な穴。
テニスコートが二面程、余裕で収まりそうな広さの、真っ黒な穴が校庭に開いていて、その穴の中に、空から落下して来る無数の青い球体が、吸い込まれる様に姿を消していた。
今現在、穴に降り注いでいる球体はタイミング的に、朝霞の通う高校の校舎からではなく、その周囲から飛来して来ている物。
だが、それを見れば先程、窓を破って教室から飛び出した、朝霞のクラスメートから出現した青い球体や、朝霞自身から出現した、青い球体の欠片の様な物も、同様に穴の中に入って行っただろう事は、朝霞には容易に推測出来た。
(煙も……この穴から出て来てるのか)
教室の窓から視認出来た黒い煙は、この巨大な穴の中から、空に向かって立ち上っていた。
煙の一部が強風に流され、地上にいる朝霞の方にも流れて来る。
朝霞の全身が、津波の様に襲い掛かってきた黒い煙に包まれ、朝霞は視界を奪われる。
突然の事だったので、思わず朝霞は煙を吸ってしまうが……咽びかえったりはしなかった。
(何だ、この煙? 全然……煙く無いぞ。目も……喉も痛くならないし)
煙を吸い込んだ際の不快感が、何も無い事に、朝霞は違和感を覚える。
だが、その違和感以上に、穴や青い球体、そして聞こえ続ける奇妙な歌の方が気になったので、とりあえず煙について考えるのを、朝霞は先延ばしにする。
津波の如き黒煙が通り過ぎ、一応ある程度は視界が回復したので、朝霞は再び、黒い穴の方に目をやる。
だが、まだ黒煙の一部が残っている為、朝霧の中にいる様で、良くは見えない。
良くは見えないが故に、朝霞は必死で……普段より強く、見ようとする。
すると、そこには先程までと、微妙に違う光景となっていた。
「――さっき、あんなの無かったよな?」
朝霞は思わず、自問する。何故なら、黒い穴の周囲の地面に、大量の不可思議な文字や紋様を、朝霞は視認したからだ。
先程まで、穴の回りの地面は、普段通りの白橡色(しろつるばみいろ……薄い茶色っぽい色)の、土壌を水はけが良く改良された、校庭そのものだった。
だが今は、その地面の上に、黒い不可思議な文字や文様が書き込まれているのを、朝霞は視認出来ていた。
強く見ようとした結果、それまでは存在していたけど見えなかった物が、見えるようになった。
そんな感じの体験を今、朝霞はしたのだ。
朝霞は穴がどうなってるかを確認する為、穴に駆け寄る。
穴の様子を探る前に、その手前にある、穴の周囲の文字を、朝霞は目にする事になる。
(こんな感じの文字……確か、歴史の授業で見たな。サンスクリット語だっけ? あれに似てるんだ)
無論、似ている事が分かるだけで、読めたりはしないのだが。
(ま、意味の分からない文字より、穴の方だよ問題は)
朝霞自身の身体から分離する様に出現した、青い欠片を含めた、多数の青い球体が吸い込まれて行く穴の方が、朝霞にとっては重要だった。
何なのかは分からないが、喪失感の原因となる程度に、自分にとって大事な物らしい青い欠片を、朝霞は取り戻さなければならないのだから。
恐る恐る、朝霞は穴の中を覗き込む。
真っ暗な上、黒い煙が立ち上って来るせいで、穴の中の視界は著しく悪く、どうなっているのか殆ど確認出来ぬ状態。
だが、穴の中に吸い込まれて行く無数の青い球体が、光を放ちながら果てし無き深さまで落下して行くのを見れば、その深さが少なくとも、人間が飛び降りたら確実に死ぬだろうレベルである事は、朝霞の目には明らかだった。
(こりゃ、あの青い欠片を取り戻しに、穴に入るのは自殺行為だな)
穴の前で、朝霞が考え込んでいる時、強い風が校庭を吹き抜け、穴から立ち上る黒煙を、今度は朝霞がいない方向に向かい、吹き飛ばす。
すると、穴から立ち上る黒煙と、落下する無数の青い球体のせいで、見え難かった穴の反対側の様子が、見える様になる。
穴の反対側に、朝霞の視覚は二つの人影を捉える。
その二つの人影は、大きく口を開いていて、歌を歌っている様に、朝霞には見えた。
(あの、ずっと聞こえてる妙な歌を、歌ってる連中か!)
すぐに風は止んだので、黒煙に人影は掻き消される。
だが、その二人の事が気になった朝霞は、即座に二人の様子が確認出来る場所への移動を始める……危険な相手かもしれないので、見付からぬ様に、体育倉庫やサッカーのゴールポストなどの物陰に身を隠しつつ、慎重に。
十数メートル程の距離まで近付き、午前中に行われた球技大会で使われたまま、放置されたものだろう、ボールが大量に入った大きな籠に身を隠しながら、朝霞は二人の様子を窺う。
(女……じゃなくて、男か)
二人共、いわゆるチャイナドレスに似た服に、ドレスと同じ色の細身のパンツという出で立ち。
歌声も女の様に高く、ロングヘアーの上、顔立ちも女と見紛う整い方であった為、朝霞は二人を女と間違えそうになったのだが、すぐに男であると気付いた。
二人の青年はチャイナドレスの胸元を開き、女性としての膨らみが無い平らな胸を、晒していたのだ。
視力に優れる朝霞は、十数メートル程離れた場所から、その胸を確認出来たのである。
女性としての膨らみは無いが、二人共……胸の中央部分が少しだけ膨らんでいた。
強い光を放つ、掌に収まりそうなサイズの透明な球体が、二人の胸の中央部分に埋め込まれていたのだ。
ポニーテールにしている翠色のチャイナドレスの青年は、胸に翠色の球体を、ストレートにしている瑠璃色のチャイナドレスの青年は、胸に瑠璃色の球体を持っていた。
それぞれの球体は、球体の色と同じ色の光を放っている。
どちらの球体にも、同じマークが刻まれている。目を凝らして、朝霞はマークのデザインを確認しようとする。
(丸い……船を操縦する、ハンドルみたいな奴に似たマークだな)
車のハンドルの周囲に、多数の取っ手がついた様な、船の舵を操作する操舵輪を、朝霞は思い浮かべる。
操舵輪に、球体のマークは似ていたのだ。
(――それにしても、この距離で良く、あんな小さいマークが確認出来たな、俺。こんなに目……良かったっけ?)
元から視力に恵まれてはいたのだが、十数メートルの距離で、小さなマークのデザインを確認出来る程に、視力が良かったという自覚は、朝霞には無い。
それなのに、あっさりとマークの存在に気付き、デザインまで確認出来た自分の視力に、朝霞は少し驚いていた。
だが、自分の視力について、朝霞が気にしている暇も無く、状況は動き出す。突如、二人の青年は、歌うのを止めたのだ。
歌うのと止めたのと同時に、青年達の胸の球体から、光が消え失せる。すると、程無く……青い球体の飛来が、ピタリと止んだ。
(まるで、あの歌と……あいつらの胸にある球体の光が、この辺りにいる人間から青い球体を奪い取り、掻き集めていたみたいじゃないか!)
目の前で起こった事を、そう朝霞は認識する。その自分の認識が、ほぼ正しかった事を、後に朝霞は知る事になる。
青年達は、自分達の役目は終えたとばかりに、開いていた胸元を閉じて、着衣を整える。
そして、青年達は躊躇いもせずに、チャイナドレスの裾をはためかせながら、目の前にある穴の中に飛び降りる。
「え?」
人間が飛び降りたら、確実に死ぬだろうと朝霞が判断した穴に、二人の青年が平然と飛び降りたのを目にして、朝霞は思わず驚きの声を上げる。
朝霞は即座に、二人の青年がどうなったのかを確認する為、籠の陰から出て穴に駆け寄る。
その直後……朝霞が穴の縁に駆け付ける直前、穴から黒煙が火山の様に噴出し始める。
爆風の様な勢いで噴出する黒煙に、朝霞は悲鳴を上げながら、身体ごと吹っ飛ばされ、空中を数回転してから、地面に叩き付けられる。
穴から噴出した黒煙で、辺りの景色は完全に黒く塗り潰されている。
黒煙に包まれたまま、地面に叩き付けられた際、受身を取り損なって頭を強打してしまった朝霞は、視界だけでなく、意識までもが黒く塗り潰され、気を失ってしまう……。
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