煙る世界と聖なる泥棒 01
やや欠けているせいか、レモンに似た形の月の姿が、月明かりに照らされた、夜の街から立ち上る煙のせいで、くすんでいる。
本来なら鮮やかなレモンイエローなのだろうが、痛んでいる様な色合いだ。
やや離れた場所にある街の至る所から、夜空に煙は立ち上っている。
小さめの城に匹敵する程に大きな屋敷を囲む、これまた城壁の如き、人の数倍の高さがある、石を積み上げた壁の上で身を伏せている、黒尽くめの少年の近くにも、黒い煙は漂っている。
煙を僅かに吸い込んでしまい、咳き込みそうになった少年は、口元を押さえて咳を堪えつつ、心の中で呟く。
(煙い……って事は、この煙は本物の煙か)
煙に本物も偽物も有りはしないのだろうが、少年の認識では、そうではない。
何かを燃やした結果として発生する、煙い煙こそが本物の煙であり、そうではない煙は、本物では無いのだ、少なくとも少年にとっては。
少年は壁の内側にある庭を見下ろし、煙の発生源を確認する。
庭園と言える広さがあり、整えられた庭木に彩られている庭の各所では、大人と同じ位の高さがある、金属製の三本の脚部に支えられた、照明としての篝火が燃えていて、煙を立ち上らせているのだ。
鬼灯の様な色合いの篝火に照らされている為、庭の半分程は、夕暮れより僅かに暗い程度の明るさとなっている。
篝火の光が届かぬ場所は、夜といえる暗さなのだが。
庭木の間にある通路には、十メートル程の間隔をおいて、黒いスーツ姿の男達が立っている。
腰に鞘に収めた剣を携え、軽装の鎧を装着している為、警備の為に配されているだろう事は、少年には用意に察せられる。
(庭にいるのは、二十人弱ってところかねぇ)
目に入る庭の状態を把握しつつ、警備員達に見付からず、目的の場所に辿り着けるルートを、少年は探す。
(あの茂みの手前に下りて、木箱が積んである辺りまで壁伝いに行けば、そのまま庭木の陰とかに隠れつつ、屋敷まで辿り着けそうだな)
壁の近くにある低木の茂みと、やや離れた場所に雑然と積まれている木箱、警備員達の姿もあるが、多数の庭木が立ち並んでいる為、姿を隠すには困らなそうな辺り……。
そして、その先にある石造りの屋敷という順で、少年の目線は移動する。
ルートを決めた少年は、早速移動を開始する。
四つん這いの姿勢で壁の上を移動し、眼下に茂みがある辺りに辿り着くと、頭にかぶった黒いキャスケットを右手で抑えながら、壁と茂みの間に、猫の様な身軽さで飛び下り、音も無く着地する。
キャスケットだけでなく、タートルネックの黒い長袖のシャツやカーゴパンツ、背負っているリュックなども、全て黒。
肌の色も褐色気味……実際の年齢より年下に見える、童顔気味の顔を飾る、大きな目などの外見的な印象と、しなやかで身軽な動きから、何処と無く黒猫っぽい印象の少年である。
身をかがめたまま、少年は茂みの向こう側の様子を窺う。
五メートル程離れた所に立っている、黒いスーツに身を包んだ精悍な男の姿が、少年の目に映る。
少年に背中を向けているので、年齢は分からない。
丈の短いジャケットの下には、左側には剣の鞘が、右側には拳銃のホルスターが装着されている、いわゆるガンソードベルトを締めている。
(剣ならともかく、拳銃まで持ってる時点で、まともな組織の連中じゃねぇな。まぁ、裏オークションに参加して、ご禁制の品物集めてる時点で、分かり切ってる事だが……)
心の中で呟きながら、少年は警備の男に気付かれぬ様、音を立てずに物陰や闇に身を隠し、庭の中を進み始める。
黒猫の様に闇に溶け込み、警備の者達を数人やり過ごしつつ、雑然と積まれた木箱の陰まで移動を終える。
見付からない自信が有るとは言え、少年の肌には緊張により、汗が滲んでいる。
(ここから、あの庭木が並んでる辺りまで、隠れる場所が無いから、気を付けないと……)
屋敷がある方向に、林の様に立ち並ぶ庭木を確認してから、少年は視界に入る警備の者達の様子を窺う。
二人の警備員の視界に、木箱の陰と庭木の壁の間……十メートル程の、月明かりに照らされている場所が入るだろう事を、少年は察する。
(あの二人は、どうにかしないと……)
少年は足元から小石を拾い上げ、屋敷とは別方向にある、低木の茂みに投げ込む。小石は茂みに当り、枝葉を鳴らす。
「――何だ?」
茂みの近くにいた警備の男が、枝葉の音を耳にして声を上げつつ、茂みの様子を窺う。
彼の声に反応し、庭にいた警備の者達の注意が、一斉に声を上げた男と茂みに、引き寄せられる……無論、「どうにかしないと」と少年が考えていた、二人の注意も。
(今だッ!)
二人の目線が、自分の進行方向から逸れたのを視認した少年は、即座に木箱の陰から飛び出す。
月明かりに照らされた、身を隠す物が無い場所を、足音を立てぬまま素早く駆け抜け、あっと言う間に少年は庭木の陰に身を隠す。
すぐに、庭木の陰に隠れたまま、少年は警備の者達の様子を窺う。
「誰もいないぞ、鼠か猫じゃないのか?」
「おいおい、脅かすなよ」
警備の者達の気楽な口調の声が、少年の耳に届く。
会話のトーンや内容から、自分の存在に気付いた様子は無いなと、少年は安堵する。
気付かれていないなら、すぐに次の行動に移らなければならない。
少年は即座に、立ち並ぶ庭木の陰を伝いながら、屋敷に向かって忍び足で進み始める。
程無く、月明かりに照らされた屋敷の周囲……芝生が植えられている辺りに、少年は辿り着く。
辺りに警備の者がいない事を確認した上で、少年は屋敷を見上げる。
石垣の上に聳え立つのは、五階建ての古びた屋敷。
灰白色に見えるが、それは月明かりに照らされているとはいえ、夜であるからで、盗みに入る為に下調べに訪れた日中に見た時の色は、やや煤けた感じとはいえ、見事な白であった。
石灰を混ぜた漆喰で塗られた館の角は、城などに良く見られる、塔の様な構造……いわゆる外殻塔形式となっている。
外殻塔の部分だけは外壁までも石積みであり、館の部分より色が濃く、鉛色である。
かっては貴族の別邸だったらしい、豪華な作りの屋敷の窓の周囲は、女性を象った像などの装飾に飾られている。
ガラス窓の外側にある、閉じられた木製の鎧戸に板が打ち付けられ、塞がれているのは、侵入者を防ぐ為なのだろう。
少年は目に入る窓の様子を、確認して行く。
すると、一階から三階までの窓からは、鎧戸の隙間から、僅かに光が漏れている事に、少年は気付く。
(三階までは、人がいる可能性が高いな。窓破る時に、多少は音も出るだろうし、四階か五階の窓を破った方が良さそうだ)
そう判断した少年は、屋敷の外壁から、掴まったり足場に出来そうな箇所を探す。
(石積みの外殻塔の部分が、凹凸があって登り易そうだな。外殻塔を登って、窓まで跳ぶか)
即座に少年は、向かって左側の……比較的月光が当らない側の外殻塔に向かって、芝生の上を忍び足で移動する。
リュックから、予め用意しておいた白い薄手のフード付きコートを取り出し、素早く着込んでフードをかぶる。
夜の闇を移動するなら、黒衣の方が目立たない。
だが、下調べの段階で、白系等の色合いの建物に登る必要が有った為、用意しておいたのだ。
警備の者達の様子を窺いながら、白いコート姿となった少年は、外殻塔によじ登り始める。
積まれた石は凹凸があり、その出っ張っている部分を指先で掴み、足先を置き、少年はフリークライミングの選手……もしくは木登りする猿の様に、素早く外殻塔をよじ登って行く。
一分もかからずに、塔の天辺近くまで登った少年は、右側に目をやり、館の五階にある一番近い窓までの距離を、目測する。
そして、軽く脚に溜めを作るだけで、その五メートル程離れた窓に向かって、少年は躊躇いもせずに跳躍する。
ふわり……と宙に舞った少年の身体は、緩い弧を描いて、狙いの窓の辺りに辿り着き、少年は窓枠を飾る、ほぼ等身大といえる女性の像を、左手で掴む。
丁度、掴み易かった為、突き出た胸の辺りを掴んでしまった事に、多少の気まずさを感じながらも、窓枠の下を足場として、少年は窓の状態を確認する。
(魔術系の防御策は、仕掛けられて無いな)
この世界において、魔術と呼ばれている技術による防御策は、窓の周辺には仕掛けられていなかった。
魔術を駆使した防御策は、普通の人間が見て存在を確認出来たりする性質のものでは無いのだが、少年の場合、その手の仕掛けは見るだけで、大抵分かってしまうのだ。
(窓の向こうの様子は?)
鎧戸に耳を当てて、屋敷の中の様子を探る。人の気配もしなければ、物音もしない。
(――誰もいなさそうだ。地上からも離れているし、多少の音なら立てても大丈夫か)
心の中で呟きつつ、器用に右手だけでリュックを開け、中から釘抜きを取り出すと、少年は鎧戸を固定している板の釘を、その釘抜きで抜く。
釘が抜け……落ちそうになった板を、膝で受け止めると、抜いた釘と釘抜きをリュックにしまい、板を拾って窓枠に立てかける。
そして、鎧戸を開けようとするが……鎧戸は開かない。
(鍵? いや……内側からも固定されてるみたいだな)
鎧戸の隙間を覗き、板らしき物の存在を確認した少年は、そう判断する。
(仕方が無い、釘抜きより時間かかるけど……)
今度はリュックから、小型の鋸を取り出すと、少年は鋸の刃を鎧戸の合間に挿し込み、ネズミが壁を削る様な音を立てながら、内側の板を切り始める。
大きな音を立てない様にしなければならないので、一分もかからずに外せた外側の板とは違い、それなりに時間はかかる。
見付からない様に祈りながら、小刻みに手を動かし、少年は鋸を引く。
(大きな音を立てていいなら、一撃でぶち破って、中に入るんだけど、下にいる警備の連中に、気付かれる可能性高いからなぁ……)
心の中で愚痴りながら、少年は何とか三分程で、内側の板を全て切断し終える。
少年は鋸をリュックにしまうと、即座に木製の鎧戸を開けてみる……今度は問題無く開いた。
すると、今度はガラス製の窓が姿を現す。
ガラス窓の方は、鎧戸を開閉する際の為だろう、内側にも外側にも動かせるタイプの物の様だ。
(ま、ガラス窓があるのは、当たり前か)
無論、鍵は締まっているし、音を立てない様に、鍵を外して開けなければならない。
少年はカーゴパンツのポケットから、銀色のオイルライターを取り出すと、窓の中央辺りにある鍵の周囲のガラスを、炎で炙り始める。
無論、炎の光が下にいる警備の者達に見付からぬ様、炎を身体で隠しながら。
一分程……ガラスを炙った後に火を消し、オイルライターをポケットに戻すと、少年はリュックの中から、手に握るのに丁度良いサイズの銀色のボトルを取り出す。
そして、右手の指先だけでボトルの蓋を外すと、中に入っている水を、火で炙ったばかりのガラスにかける。
すると、チョコレートが割れる様な、ほんの僅かな音を立てて、ガラスにヒビが入る。
熱膨張したガラスを急激に冷やすと、ガラスは音も立てずに割れるのだ。
この一連の作業を、少年は手馴れた感じに、右手だけで器用にやり遂げる……左手は女性の像の胸部を掴み、身体を支える為に使っているので。
ヒビが入れば、後は軽く突いて穴を開け、中に右手を突っ込んで、鍵を解除すればいい。
少年は窓を開くと、真っ暗といって良い状態の屋敷の中に、侵入する。