猛 1
あの日のことはよく覚えてる。
あの年は記録的な寒波がながながと本州の真上に居座った影響で、生まれて初めて体験するホワイトクリスマスだった。この街でクリスマスに雪が降ったのは後にも先にもこれっきりだったから、それだけでもとても印象深い冬だったと言える。
昼間から降り続いた雨は日暮れとともに雪に変わって、日付が変わる前には街をうっすらと薄墨色に染め上げていた。雪に街の明かりが反射して、夜も遅いというのに街もなんとなくほの明るい。まださほど遅い時間ではなかったけれど雑多な音は雪に吸われて、驚くほどの静寂だった。
歩くたびにザクザクと、スニーカーで雪を踏みしめる音が聞こえてくる。もう二時間は歩き通しだったから、つま先から泥水が沁みこんできて気分は最悪だった。
「こんな日に出歩くなんて狂気の沙汰だな」
めったに降らない雪は水分を多く含んでいて重たいから、傘はすぐに折れてしまって通りがかった公園のごみ箱に突っ込んできたし、結果、コートは水を含んで冷たく重い。
いくら『ロマンチックなホワイトクリスマス』とはいえ人通りは少なく、すれ違う人もみんな家路を急いで早足で去っていく。デートに出かけた男女も、早々にホテルに引っ込んでしまったらしい。大通りはともかく、ちょっと路地に引っ込んでしまえば貸し切り状態だ。空いてて気持ちいいとは強がりでも言う気にならず、濡れそぼったスニーカーの感触が一層惨めでならない。
僕だって、徘徊が趣味ってわけじゃない。ここに至るには自分ではどうしようもない理由があった。
僕はおしゃべりな方じゃないし、つい二時間前の出来事は多感な少年の心を傷つけるには十分な鋭さだったから、このことについて事細かに語るのはどうか勘弁してほしい。けれど僕が今ここにいる理由を簡単に説明するとしたら。――クリスマスイブに妙にめかしこんだ母親に、つまり僕は追い払われてしまったのだ。母親の新しい男は、どうやら男子中学生を嫌っているらしい。
「夕食はこれで済ませてね」と渡された千円札は、ポケットの中でくしゃくしゃになっている。こんな雪の夜に千円で一晩帰ってくるなと追い出されるなんて、あんまりじゃないか。
それでも今日あの家に『招かれざる』はあいつではなく僕なのだと思い知らされるのが怖くて、どうしても足は我が家には向かなかった。――かといって、こんな日に一人で当てもなくぶらついている惨めな自分を人目にさらしたくはなくて、人通りの少ないほうへとどうしても足が向いてしまう。頬が、凍りつきそうなほど冷たい。
繁華街を抜けて住宅街に入ると、一層人通りがなくなった。通り過ぎる窓にともる明かりは暖かそうな色にあふれている。目の前の家から漏れ聞こえてくる笑い声はすぐそこから聞こえてくるのに、ぼくとは遠く隔たってる気がしてさみしい。
あんな幸せなクリスマスが。――ふと思い出してみる。
あんな幸せなクリスマスを過ごしたのは、一体いつが最後だったろう。いや、そんな思い出があるような気がすること自体が気のせいかもしれない。覚えている限り父親と一緒に過ごした記憶はないし、だから母親もいつもどこか必死に生きていた。
女手一つで子どもを育てるのは辛かったろうと思う。決して楽ではなかっただろうと思う。だから疲れきって男に寄りかかることを覚えてしまったらもうそこからは抜け出せなかったんだろう。捨てられなかっただけましだと、こんな仕打ちも諦めと共に受け入れるしかない。
冷え切ったつま先が痛い。もう、歩けない――。
誰もいない路地で、それでも人目を避けるように電柱の陰に隠れるように立つ。見上げれば真っ暗な空から舞い散る綿毛のような雪と、その暗闇をところどころパンチで抜いたように家々の明かりが見える。
寒くて、寒くてたまらない。
途方に暮れてついたため息は、真っ白く凍りついて頬にかかった。
何かを諦めて座り込みそうになった時、視界を遮ったのは、ピンクのチェック柄だった。