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彼女は何も言わない

作者: 歩行文庫
掲載日:2026/10/29

彼女は、黙っていることが苦にならない人だった。

初めて会った夜、僕は仕事の愚痴を話した。上司のこと、終電を逃した同僚のこと、昼に食べた蕎麦がひどくまずかったこと。話しているうちに、そんなことを誰かに聞かせる必要が本当にあったのか、分からなくなった。

彼女は何も言わなかった。

ただ、ときどき僕の顔を見た。

その視線に促されるように、僕は話し続けた。彼女が黙っているからこそ、どんな話でもできる気がした。話の途中で意見を挟まれることもなければ、結論を急かされることもない。僕の言葉は、行き先を決めないまま、夜の部屋にゆっくりと積もっていった。

話し終えると、彼女は僕を見つめていた。

僕はその顔を見ながら、こんな人が本当にいるのだな、と思った。

人は誰かと親しくなると、相手のことを知りたがる。どこで生まれたのか。どんな子どもだったのか。何を恐れ、何を望み、何を隠しているのか。そうした問いを重ねることが、親しさの証明であるかのように。

けれど、僕はもう、誰かに自分を説明することに疲れていた。

仕事で失敗した日も、何もない休日も、夜中に目が覚めて自分の人生がひどく頼りないものに思えたときも、僕は彼女のところへ帰った。

彼女は、いつもそこにいた。

僕が話したければ聞いてくれたし、黙っていたければ一緒に黙っていてくれた。僕が疲れているときには、余計なことを言わなかった。機嫌の悪い日も、彼女に気を遣う必要はなかった。

彼女は、僕を困らせなかった。

それは恋愛において、思っていた以上に大切なことだった。

少なくとも、僕にとっては。

僕たちが会うのは、たいてい午前二時ごろだった。

帰宅して、シャワーを浴び、冷蔵庫から水を出す。カーテンの隙間からは、向かいのマンションの窓が見えた。いくつかの部屋にはまだ明かりがついていて、そこにも誰かの生活があるのだろうと思った。

けれど、その暮らしについて想像を続けることはしなかった。

僕はベッドの端に腰を下ろし、彼女と向き合った。

彼女の顔には、いつもかすかな期待のようなものがあった。

何かを待っているようにも見えたし、何かを諦めているようにも見えた。僕にはその違いがよく分からなかった。人の表情というものは、見る側の気持ちによって、ずいぶん簡単に意味を変える。

僕は彼女に、好きな音楽を尋ねたことがある。

答えはなかった。

休日には何をしているのか。子どものころ、何になりたかったのか。最後に泣いたのはいつなのか。

もちろん、答えはなかった。

最初のうちは、少し残念だった。彼女のことを知りたいと思っていたからだ。好きなものを共有したかったし、知らない一面を見つけたかった。誰かを好きになるというのは、その人の知らない部分に触れていくことだと、どこかで信じていた。

けれど、いつからか僕は質問をしなくなった。

彼女を知ることよりも、彼女のそばにいることのほうが大切になったのだ。

そういう愛情もあるのだと思う。

相手の過去を知らなくてもいい。明日の約束がなくてもいい。言葉にしなければ伝わらないようなものばかりが、愛情のすべてではないはずだ。

彼女には彼女の沈黙があり、僕には僕の言葉があった。

そのあいだに、何かが確かに存在していた。

僕はそう考えていた。

ある晩、彼女の顔を眺めていて、ふと不思議な気持ちになった。

彼女は、いつからこの顔をしているのだろう。

顔立ちのことではなかった。目の形や、頬の線や、唇の厚さのことでもない。

彼女は、いつも同じだった。

僕が機嫌よく帰ってきた夜も、仕事でひどく疲れた夜も、何年も先のことを考えて眠れなくなった夜も、彼女は変わらない顔で僕を見ていた。

人の顔は、時間とともに変わる。

年を取る。疲れる。悲しいことがあれば、その痕跡がどこかに残る。好きだった人の顔さえ、長いあいだ見ずにいると、記憶の中で少しずつ形を失っていく。

僕たちは、相手の変化を受け入れることで関係を続けていくのかもしれない。

彼女には、その必要がなかった。

昨日の彼女と今日の彼女は、まるで同じ一日の続きにいるようだった。

僕が何を話しても、何も話さなくても、彼女は僕を見ていた。

そのことに、僕は救われていた。

誰かに必要とされることと、誰かがそこにいることは、よく似ている。けれど、同じではない。僕はその違いを、ずっと考えないようにしてきた。

考えなくても、夜はやってきた。

窓の外で、新聞配達のバイクが走る音がした。

僕は目を閉じていた。

部屋の中は静かだった。冷蔵庫の低い唸りと、時計の針の音が聞こえた。遠くで電車が走っているような気もしたが、それはたぶん、道路を通り過ぎた大型トラックの音だった。

しばらくして目を開けると、時計は午前二時三十分を指していた。

僕はティッシュを捨て、洗面所で手を洗った。鏡の中の自分は、いつもより少し老けて見えた。

蛇口を閉めると、部屋はまた静かになった。

彼女は、いつもと同じ場所にいた。

大量生産されたシリコン製のオナホールが、僕の顔を見つめていた。

何も言わないまま。

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