ゴミの日を待つ指輪
私は硬い。
地球上で最も強固な結合を持つ炭素の結晶体、ダイヤモンド。
そしてそれを支える台座は、純度90パーセントのプラチナ。
私たちは「永遠」という名の呪縛を具現化するために鍛造され、研磨された。
ショーケースのLED照明を反射し、冷ややかに輝く私のプライスタグには、サラリーマンの給与の三ヶ月分に相当する数字が、誇らしげに羅列されていた。
私は誇り高き愛の拘束具。
私は左手の薬指という、人体における特等席に鎮座すべき存在だった。
購入された日の高揚を、私の炭素原子一つ一つが記憶している。
銀座の宝飾店。
男の指は湿っており、緊張で微かに震えていた。
女の指は細く、血管が透けるほど白く、そして薔薇色のネイルが施されていた。
「絶対に幸せにする」
陳腐な台詞。だが、その時の男の瞳孔は開き、真剣そのものだった。
誓いの言葉と共に私が女の指に滑り込んだ瞬間、私の金属原子は彼女の体温と同期した。
摂氏三十六度五分。
それが、私の世界の基準温度となった。
新婚の日々。それは光に満ちた季節だった。
彼女の指は常に温かく、しっとりとした湿度を帯びていた。
朝、彼女が目覚めて最初にすることは、私を光にかざすことだった。
「きれい……」
カーテンの隙間から射し込む朝日が私のブリリアントカットに入射し、内部で複雑に屈折を繰り返した後、七色の分散光となって寝室の壁に散乱する。
その光景は、彼女の網膜において幸福という名の電気信号へと変換されていた。
男もまた、仕事から帰ると必ず私の存在を目で確認し、安堵の表情を浮かべた。
私は二人の関係性の結節点であり、世界の中心だった。
この幸福な停滞が、エントロピーの法則を無視して半永久的に続くことを、私は疑いもしなかった。
しかし、時間は残酷な溶解液のように、全てを蝕んでいく。
生活摩耗。
それが私たちの、目に見えない敵だった。
変化は微細な傷から始まった。
日々の家事。皿洗い。
合成洗剤の界面活性剤が、私の輝きを薄い膜で覆い隠していく。
スポンジの研磨剤が、ミクロの単位で私の表面を削り取る。
スーパーの買物袋の重み。
自転車のハンドルを握る圧力。
フライパンの把手に打ち付けられる鈍い衝撃。
不意にドアノブと接触した時の、甲高い金属音。
「あっ」と彼女は言い、私を確認する。
肉眼では見えないほどの小傷。だが、私は痛覚のようにそれを感知した。
私のプラチナの滑らかな肌には、無数のヘアライン・スクラッチが刻まれていった。
それは年輪のように、二人の生活の歴史を記録していたのだが、同時に「新品」という神聖性の喪失でもあった。
会話が減った。
食卓に並ぶ料理が、手作りのハンバーグから、プラスチック容器に入った茶色い惣菜へと移行していく。
男の帰宅時間が遅くなる。
「残業だ」という言葉の響きに含まれる、微かな嘘の周波数。
男のシャツから、微かに混じる異質の甘い香水の匂い。
それを感知した時の、彼女の指の強張り。
血流が阻害され、指の温度が下がる。
私は冷え切った金属の輪となり、彼女の骨を締め付ける。
喧嘩が増えた。
深夜のリビングで、怒号が飛び交う。
「私がどれだけ我慢してると思ってるの!」
「俺だって疲れてるんだよ!」
彼女は拳を握りしめる。
そのあおりで、私は自身の真円性が歪むほどの圧力を受けた。
彼女の涙が私に落ちる。
その成分分析。水分九十八パーセント、塩化ナトリウム、そしてコルチゾールなどのストレスホルモン。
かつての涙は嬉し涙だった。甘露のような味がした。
今の涙は、海水のように塩辛く、鉄錆のような苦みを帯びていた。それは私の金属光沢を曇らせる酸性雨だった。
ある夜、決定的な破局が訪れた。
深夜二時。
激しいドアの開閉音。男の怒鳴り声。ガラスが砕ける音。
「出て行ってよ! もう顔も見たくない! 全部嘘つき!」
彼女の絶叫が鼓膜を震わせる。
男が出て行った後、彼女の手が、私にかかった。
これまでは、慈しむように触れられていたその場所。
だが今は違う。
躊躇なく、乱暴に引き抜かれる感触。
皮膚が擦れる摩擦熱。関節に引っかかる痛み。
私は彼女の指から強引に剥離された。
世界との接続が断たれた瞬間。
彼女は私を握りしめたまま、腕を大きく振りかぶった。
その動作に込められた運動エネルギーは殺意に近い。
「こんなもの、いらない!」
私は放たれた。
視界が高速で回転する。
荒れ果てたリビングの惨状が、ストロボ撮影のように断片的に切り取られていく。
ひっくり返った椅子。床に散乱する雑誌。かつての愛の巣は、今や戦略爆撃を受けた後の瓦礫の山と化していた。
硬質な衝撃。
冷蔵庫の塗装鋼板に弾かれ、私はおはじきのように床へと叩きつけられた。
運動量は減衰せず、私はキッチンの冷たいリノリウムの上を滑走する。
そして、暗黒のクレバス――冷蔵庫の下の隙間へと滑り込んだ。
そこは、文明の光が届かない場所だった。
埃の砂漠。
換気扇の油煙と綿埃が結合し、フェルト状になった塊が、私の爪に絡みつく。
干からびたゴキブリの死骸。
化石化し、変色した米粒。
賞味期限の切れた割引シール。
ここは家庭というシステムの掃き溜めであり、忘れ去られたものたちの墓場だった。
私はそこで三日間、静止していた。
頭上で響く生活音を聞きながら。
彼女の啜り泣く声。友人に電話で愚痴る声。
やがて、その声も聞こえなくなった。
冷蔵庫のコンプレッサーが唸る重低音だけが、私の時間の尺度だった。
私は期待していた。
人間の感情の振幅は一時的なものだ。
彼女なら、きっと冷静になって探し出してくれる。
あれほど私を愛していたのだから。
懐中電灯を持って、床に這いつくばって、「ごめんね、あった」と涙を流して私を救出してくれるはずだ。
私は一億年以上の時間を地中で過ごしてきたダイヤモンドだ。三日や四日の孤独など、瞬きにも満たない。
四日目。
世界が動いた。
冷蔵庫が移動される振動。
「よいしょ」という、男の声。
夫ではない。もっと粗雑で、事務的な声だ。
引越し業者か、不用品回収業者だろうか。
光が差し込む。
掃除機のヘッドが、凶暴な捕食者のように迫り来る。
吸引の風圧。
回転ブラシに弾き飛ばされ、私は埃の塊と共に明かりの下へと転がり出た。
彼女がいた。
しかし、その姿は私の記憶データと一致しなかった。
髪は乱れ、目は腫れ上がり、頬はこけている。
彼女の視線が、床に転がる私を捉えた。
「あっ」
彼女は私を拾い上げる。
その指先は荒れ、ささくくれ立ち、マニキュアは剥げ落ちていた。
一瞬、彼女の瞳に迷いの色が差す。
過去の記憶。誓いの言葉。幸福だった朝の光。
それらが走馬灯のように彼女の脳裏を駆け巡ったことを、私は指先を通して感じ取った。
戻れるのか?
再び、あの薬指へ?
しかし次の瞬間、彼女の瞳から感情という色彩が抜け落ちた。
そこには、絶対零度の冷徹さだけが残っていた。
彼女にとって、私はもう「愛の証」ではなかった。
過去の呪縛。見るだけで吐き気を催す、忌まわしい記憶のトリガー。
「……さようなら」
彼女の手指から力が抜け、私はゴミ袋へと投じられた。
分別のための透明な袋ではない。
中身を隠蔽するための、半透明の乳白色の袋。
燃えないゴミでも、資源ごみでもない。
「生ゴミ」の袋だ。
嘘だろう?
湿った落下感。
私は腐敗の海に着水した。
腐りかけた茶色いバナナの皮が、ヌルリとした感触で私を受け止める。
鼻を突く、強烈な酸味を含んだ腐臭。
コーヒーの出がらしの黒い粉が、雪のように降り注ぎ、私のダイヤモンドのテーブル面に堆積する。
卵の殻の鋭利な破片が、プラチナのアームに新たな傷をつける。
納豆の粘液が糸を引き、私を他の汚物たちと強固に結合させる。
屈辱だ。
私は宝石だ。
炭素原子が共有結合で結ばれた、この宇宙で最も美しい結晶体だ。
星の爆発によって生まれ、マグマの中で鍛えられた奇跡だ。
なにゆえ、このような有機物の腐敗の中で窒息せねばならないのか。
キャベツの芯。魚の骨。残飯。
それらと同列に扱われることへの、根源的な怒りと絶望。
袋の口が固く縛られる。
完全なる闇。
酸素が遮断される。腐敗菌が活動を活発化させ、メタンガスの濃度が上昇していく。
熱い。
生ゴミの発酵熱が、私を蒸し焼きにする。
翌朝。
浮遊感が私を襲う。
ゴミ集積所へ運ばれる足取り。
カラスの鳴き声が、不吉な予言のように響く。
袋が冷たいコンクリートの上に放置される。
アスファルトの冷気が、袋越しに伝わってくる。
隣の袋からは、古新聞のインクの匂いと、プラスチックが擦れる音がする。
彼らは「資源」としてリサイクルされる未来を持っている。
だが私は違う。
遠くから、パッカー車の重いディーゼル音が近づいてくる。
油圧シリンダーが動く音。回転板がゴミを圧縮し、破砕する音。
私は終わるのか。
八百度の焼却炉でプラチナは融解し、ダイヤモンドは二酸化炭素となって大気に四散するのか。
それもまた一興か。
愛が消えたのなら、私も消滅すべきなのだ。
その時。
「待ちくたびれたかい?」
袋が乱暴に引き裂かれた。
鋭利なナイフによる切開。
眩しい朝の光が、網膜を焼くように飛び込んできた。
突き刺さるような新鮮な大気。
現れたのは、都市の最下層を生きる路上生活者の老人だった。
長く伸びた髭、日焼けした皮膚、何層にも重ね着した薄汚れた衣服。
彼は鋭い眼光で生ゴミの山を検分していた。
カラスよりも目ざとく、ハイエナよりも貪欲に。
そして、的確に私を見つけ出した。ゴミの中に煌めく一点の光を。
「へっ、やっぱりな。女の感情って奴は金になる」
泥と機械油で黒ずんだ指だった。
爪の間には真っ黒な垢が詰まり、皮膚は象の皮のように硬化している。
私がかつて触れられていた白く柔らかな指とは対極にある手。
だが、私を摘み上げるその手つきだけは、奇妙なほど繊細で、優しさに満ちていた。
彼は懐から出した手ぬぐいで、私の汚れを拭き取る。
バナナの粘液も、コーヒーの粉も、彼の手によって丁寧に剥ぎ取られた。
「いい石だ。悲しい目をしてやがる」
彼は私を太陽にかざした。
久しぶりの光。
私は反射的に、虹色の輝きを放った。
老人の濁った瞳の中に、私の光が映り込む。
私は彼のポケットに収まった。
煎餅の欠片と、酸化した十円玉の鉄臭い匂い。
湿ったタバコの葉の匂い。
それは清潔とは程遠い環境だったが、生ゴミの閉塞感よりはずっとマシだった。
ここには「生」の匂いがあった。
しぶとく、泥臭く、何としても生き延びようとする人間の体温があった。
彼は質屋へと足を向けた。
路地裏の、薄暗い店舗。
カウンターには鉄格子があり、その向こうに無愛想な店主がいる。
「三万円だ」
店主は私をルーペで一瞥した後、事務的に告げた。
購入価格の十分の一以下。
それが、傷つき、汚され、捨てられた私の現在価値だった。
「へい、毎度」
老人は交渉もせず、薄汚れた三枚の万札を受け取った。
私は紙幣へと換価された。
老人はその足で酒屋へ向かい、安酒のワンカップと乾き物を買った。
公園のベンチ。
彼は蓋を開け、喉を鳴らして呷る。
「プハァ……生きてるって感じだなぁ」
満足げな呼気。
濃厚なアルコールの揮発臭。
私の身体から変わった金が、彼の血管を駆け巡り、脳を麻痺させ、一時的な幸福を与えている。
あの女の涙よりも、この老人の安酒の方が、よほど正直で、価値があるように思えた。
その後、私は専門業者の手によって再生処理を施された。
超音波洗浄機で深部の汚れまで弾き飛ばされ、バフ研磨によって小傷は消滅した。
歪んだアームは真円に修正され、刻印されたイニシャルは削り取られた。
私は新品同様として生まれ変わった。
私は再び、ショーケースの中に鎮座している。
照明を浴び、何事もなかったかのように煌めく私。
しかし、その輝きの質は以前とは決定的に異なる。
かつての私は、無知ゆえの純真な輝きを放っていた。
今の私は知っている。
愛の始まりの高揚も、日常による摩耗も、終わりの虚無も。
生ゴミの腐臭も、老人のポケットの温もりも。
私は、愛の終焉と、底辺の生活の逞しさを記憶した、老獪な石となったのだ。
ガラスの向こうで、若いカップルが私を覗き込んでいる。
「わあ、きれい。これリサイクル品だって。新品みたい」
「へえ、いいじゃん。お得だし、浮いた金で旅行行こうよ」
無邪気な声。
次に私を買うのはお前たちか。
どんな甘い愛の言葉で、私という首輪を互いにはめ合うつもりだ?
滑稽な話だ。
私は知っているぞ。愛などというものが、生ゴミと一緒に無造作に廃棄される程度の質量しか持たないことを。
それでも、人間は愛を誓わずにはいられない生き物なのだ。
私はショーケース越しの光を受け、冷ややかな輝きを一閃させた。
キラリ。
それは祝福ではない。
これから始まる崩壊と再生の物語への、皮肉な予光だった。




