第三話 夜道にはお気を付けを。
――――――一人の男が、その冷たい音を背に静かに目の前の球体を見つめていた。
彼の指先が触れているのは、鈍く光る金細工が施された古びた地球儀。それは、男の意志に呼応するかのように、クルクルと静かに、そして不自然なほど自然に回っている。男の瞳は、濃紺のローブの奥で夜空のように深く、底知れない野心が鈍く光っていた。
男の目の前の重厚な木製デスクの上には、王家の紋章が刻印された封蝋が剥がされた、数枚の羊皮紙が広げられていた。
それは、王都の重鎮が暗殺された事件に関する極秘の報告書であり、その末尾には『調査責任者:セリオン・エストレア』のという名が流れるような美しい字で記されていた。
「——チッ。あの小賢しい出しゃばり小僧め。」
男は誰もいない書庫の中で苛立ちを隠さずに吐き捨てる。その声は、錆びた鎖を引きずるような、冷たく、そして粘着質な響きだった。
しばらく苛立ちとともに地球儀へと目を凝らしていると、ピタリと動きが止まった。
「ん?」
男が注視するその一点には——『時の風通り』と小さく書かれた文字が、わずかに薄く青白い光をはなっている。
「・・・何を企んでおるのか。ふんっなにをしたとしても無駄なことよ。」
男は不敵な笑みを浮かべた。
その笑みはまるで、獲物の上を這い回り、その命を弄ぶ毒蛇のそれのようだった。———————
時を同じくして、
カチ、カチ、カチと時計の秒針が心地よく時を刻む音だけが響いている店内で、クリスタ・ローズウェルトは 細いピンセットを握りしめ、 作業台の上で懐中時計の極小の歯車を組み込んでいた。
手のひらに乗るほどの小さな世界。
そこでは、 すべてが正確で、 論理的で、 予測可能だ。
彼女は、 この心地よい 「日常」 に、無理矢理意識を集中させていた。
だが、組み上げた時計の針が動き出すたび、昨日の非現実的で理不尽極まりない出来事が脳裏を突き刺してくる。
――――――「まあ、私も悪魔ではないので。嫌がる人間に強要するつもりはありません。すこし考えておいて欲しい、それだけ伝えておきましょう。」
また後日伺います。と青年セリウスは優雅な仕草で胸元に手を当て、軽く頭を下げた。まるで、舞踏会の終わりを告げるかのようなその立ち居振る舞いは、先程までのまるで獲物を狙う肉食獣のような印象とのギャップで、クリスタをさらに混乱させた。
彼は身を翻すと、一度も振り返ることなく店の扉へ向かう。その背後、従者だけは鋭い眼光をクリスタに向け、無言の圧力をかけてから音もなく主人の後を追っていった。
クリスタは、まるで嵐が去った後のように、その場に立ち尽くしていた。
(悪魔ではないって・・・?
いやまんま悪魔じゃん!)
クリスタはピンセットを無造作に作業台に置いた。
怒りと混乱で頭はぐちゃぐちゃ。全く集中出来そうにない。
「よし。今日はお休みにしよう。」
深呼吸をしてそう決意すると、とりあえず腹ごしらえだ、と昼食をとることにした。
まあ、腹が減っては何々というし。善は急げとクリスタは店の看板をオープンからクローズへと差し替えると、ガチャリと重い音を立てて扉にカギをかけ、キッチンへと向かった。
「―――――食材が・・・ない。」
キッチンに入り、備え付けの戸棚を開けてみると、スープのベースになる乾燥肉も、焼きたてパンに塗るバターも、保存用のチーズさえも、すっかり底を尽いていた。
そういえば、前回買い物にいったのはいつだっただろうか・・・。
基本時計オタクなクリスタである。一度仕事の作業を始めてしまうと、どうにも時間感覚や生活のルーティンさえも忘れてしまうきらいがあり、そんな彼女のことを注意するような身近な人間もいない。
そのせいか、度々こうして食材や生活必需品がいつの間にか底を尽いている現象はクリスタにとっては珍しいことではなかった。
このタイミングで買い物に出かけなければならないのか・・・とちょっと億劫に感じつつも、逆に気分転換になるかもしれないし、と自分に言い聞かせながら財布の入ったポーチをもって出かけることにした。
工房の薄暗い石畳が続く『時の風通り』を抜けると、色とりどりの草木が生い茂り自然が作り出したアーチのような道が見えてくる。クリスタがそのアーチの下をくぐり、外の世界に足を出すと、急に陽の光が強くなった。
静寂に慣れた五感を、賑やかな声のざわめきと、焼き菓子の甘く香ばしい匂いが一気に叩く。
視線の先には、町のシンボルである時計塔の尖塔が空を刺す、それなりに賑わいをみえる商いの街――――ロンドステラ街のいつもと変わらない光景が広がっていた。
石畳の大通りには買い物客や行商人たちが活発に行き交い、店先からは威勢の良い呼び声が響いている。広場の噴水の前では、エプロン姿の主婦たちが井戸端会議に興じ、大きな笑い声が飛び交っていた。その足元では、子どもたちが鬼ごっこでもしているのか、楽しそうな歓声を上げながら石畳を走り回っている。
「おや、クリスタちゃんじゃないか。」
カランカラン、と音を立てて扉を開けて中に入るとパン屋の店主がちょうど焼きたてのフランスパンを店頭に並べているところだった。こちらに気づいた店主の男は、クリスタに気づくと控えめな笑みで声をかけてくれた。
「こんにちは。」
「ああ、こんにちは。」
マルコは笑顔を保ちつつも、その目の下にはうっすらとクマができており、どこか疲れが見える表情だった。その大きな声は店の外まで響き渡るほどなのだが、今日はまるで冷めたパンのように、話し声に覇気が欠けているように感じ、クリスタは自然と首を傾げた。
「いつものでいいのかな?」
「あ、はい。フランスパンとライ麦パンを。一つづつお願いします。」
「ちょっと待っていてね。」
注文を聞いたマルコが自ら店舗内から商品をピックアップし、袋詰めまでしてくれた。
普段、繊細なパンを袋に入れるのは、手先の器用な彼の妻エリサの役割だった。エリサは、パンを押し潰さないよう、まるで宝石を扱うかのように丁寧に包んでくれるのだが――今日は休みだろうか。
「・・・あの、奥様は?」
クリスタの問いに、マルコは一瞬、言葉に詰まったような顔をした。
が、客前だということもあるのかすぐに笑みを取り繕って返答を返してくれる。
「え?あ、ああ・・・ちょっと今は体調を崩していてね。」
「・・・・そうでしたか。」
マルコの言葉の端には、ほんの微かな動揺と言い訳を探すような濁りが含まれていたが、クリスタはそれ以上詮索せず、静かに答えた。
あまり深く聞かれなかったことに少し安堵した様子で、マルコは不器用な手つきでパンを包みながら、申し訳なさそうに頭をかいた。
「いつもみたいに丁寧な包装でなくてすまないね。こういう細かい作業は俺は苦手で・・・」
「いえ、問題ありません。奥様の体調がはやくよくなることを願っております。」
マルコは深く頷き「ありがとう、クリスタちゃん」とだけ言い、
パンの入った袋をクリスタに手渡した。
「気を付けて帰るんだよ、クリスタちゃん。」
「はい。」
クリスタはお代をカウンターに置き店を出ると、マルコの普段とは違う様子と彼のいうエリサの不調がなんとなく気になりつつも、次の目的地である精肉店へと足を向けた。
賑わいを見せるロンドステラ街の大通りを数分歩いた場所にある精肉店がある。
クリスタが店舗のショーケースの前に立つと、奥で伝票に書き込みをしていた、中年女性がこちらに気づき大きな声で声をかけてきた。
店主のリタだ。彼女はいつも通りの元気な様子でこちらに駆け寄り、ショーケースから身を乗り出してクリスタを迎えてくれる。
「クリスタちゃんじゃない!珍しい顔だねぇ!いつもの乾燥肉かい?」
「はい。量もいつも通りでお願いします。」
クリスタが頷きながらそう告げると、リタは嬉しそうにいつも頼んでいる乾燥肉を切り分け、厚手の油紙で手早く包装をしながらクリスタのほうに何気なしに視線を向けた。
その時、持っているフランスパンが目に入ったとたん少し驚いたような表情をする。
「あら、マルコのところにはもう行ったのね?」
「え?はい。先ほど・・・」
「そうかい。・・・ほんと、マルコも大変よねぇ・・・」
「奥さんが体調不良だと聞きましたが。」
「・・・。」
クリスタの言葉に、少しリタは少し言いづらそうに一度口を噤んだ。
「クリスタちゃん・・・ここのところ街でおかしいことが起こっているのを知っているかい?」
「え?・・・おかしいこと・・・ですか?」
「クリスタちゃんはあまり家から出ないから、なんとなく知らないかな、とは思ったんだけどね・・・」
「???」
少しあきれたような顔でそう告げるリタの姿に、クリスタはまったく呆れられるようなことをした覚えはない・・・時計職人としての仕事に没頭していただけなのに、と思いつつ、リタの意図がわからず首を傾げた。
リタは周囲をちらりと見渡した。誰もこちらの会話に注意を払っていないことを確認すると、さらに身を乗り出して、声を潜めた。
「エリサがね・・・原因不明で眠ったまま起きないんだよ。ただの風邪や病気じゃない。まるで時間だけが止まってしまったみたいに静かに眠り続けているんだ。花屋のユリアの息子まで同じ状態になっていてね、医者も原因がわからなくてお手上げ状態さ。」
先ほどのマルコの様子を思い出した。
仕事が忙しいにしては、あまりにもやつれたような様子が脳裏に浮かんでくる。
リタのその情報で、なんとなく先ほど気になった疑問がつながった。
彼の目の下のクマも、妻エリサのことを想い眠れぬ夜を過ごし続けている結果なのだろう。
「かわいそうにね。街の噂じゃ何かの呪いや魔術の類なんじゃないか、なんていわれてるくらいさ。」
リタは、クリスタから代金を受け取りながら真剣な表情に戻った。
「あんたも気をつけな。クリスタちゃん。市長が王都に原因究明の派遣を依頼しているそうなんだけれど、・・・ここだけの話、王都でも同じような症状の事件が多発しているらしくてね。派遣には相当時間がかかるかも、と昨日聞いたところなんだよ。明日は我が身、そう思うと怖い話だよ。」
リタはそう言って、油紙に包まれた商品を手渡した。
その肉の重みがまるで、今回の事件とこの国の危機を象徴しているかのようで、クリスタはゴクリとつばを飲み込んだ。
思ったよりも、事態は深刻なのだとリタの表情や話し方から見て取れた。
そして、原因不明の昏睡状態が広がっている事実が、
なんとなく今回のこの事態に、関わらずにはいられない。
そんな予感がよぎった。
(まるで・・・、魔法みたい・・・・、)
何とも言えない不安が、全身を駆け巡る感覚がした。




