悪魔
「先輩……、はぁ、あ、あの……ゴホッ」
普段走らない人間というのは、たったこれだけの距離でこんなにも息が上がるのか──だいぶ、悲しい……。
「ん ?なに?」全く息の乱れていないその人は、僕の手を軽く引きながら暗くなった通学路を行く。凄く不思議な気分だ。レンズ越しでしか、あの窓先でしか話したことの無い先輩と、僕は今日……言葉を掛け合い、走り、触れている。
「先輩、あの……手」
「なんか今日はごめんね。沢山驚かせちゃって。」
「あ……いや、別に。」
心臓がバクバクして会話に集中出来ない……。いやしかしこれは、その、筋肉の無いもやし高校2年生が、全速力で疾走してしまったからであって、生理現象と言うやつで、決して先輩と……その、先輩と手を繋いでしまったから、では無くて……。
──暗闇に響く二人分の靴の音、まだ少し肌寒く感じる4月の風、不格好に繋がれた僕と先輩の指。
聞きたいことは沢山あるはずなのに、彼女と2人きりで存在しているこの空間に、僕は身動きが取れず思考は停止しかけていた。
”ピロリン~♪ ビロリロリン~♪”
電話?……わ!やっばい忘れてた!「ちょ、ちょっと先輩すみません、」僕は慌ててスマホを取り出し、弟からの着信を確認する。
「もしもし?お兄ちゃん、今どこ?」
「ごめん碧生!僕今日ご飯当番だったのに……」
電波の繋いでくれた音からは、隠しきれない不安が溢れ出ていた。碧生との約束はほんの些細なものでも、破ったことはない。そんな兄が約束の時間に帰らない上に、連絡もなく家にも戻らない。とても不安だったのだろう。
「大丈夫だよ!少し自分で作って食べたから!それより今どこ?何かあったの?」
「いや、何も無いよ。今帰ってるところだから心配しないで。」
「う、ん。……分かった!気を付けてねー!」
ご飯は1人で作って食べれたのか。高一にもなれば簡単な料理ぐらいは出来るよな。
だいぶ過保護が過ぎる兄であるのは自分でも承知の上だが、きっと……もう少し碧生に頼ることがあっても良いのかと、ふと悟る。
やんわりと感慨に浸っていると、二歩先をゆっくり歩く先輩は、「弟くん?」と振り返りながらそう僕に問いかけた。「はい。大事な弟です。」携帯を握り締めながらそう返すと、彼女は進路方向へ向き直り、俯き気味に吐き捨てた。
「いいね、一緒に居れて」
──また、だ。
「春が嫌い」と話してくれた時と、同じような曇った声。こういう時の先輩には、何故かいつものような返しが出来ない。
「ねぇ!柳君!」
「……っ!は、はい……」
急に明るい声で話しかけて来た先輩に驚いていると「自己紹介するね!」そう言いながら、彼女はくるりと僕に向かい合い立ち止まった──
「私、こうやって君とお話するの、初めましてに近いから。」
風に揺れる髪、微かに流れてくる桜の甘い香り、少し影った綺麗な目──存在そのものがどこか虚ろで、出会った当初は本気で何かの妖精かと思った自分を思い出していた。
「3年3組、美術部の南桜子です。初めまして、柳桃矢君。」
「さくらこ……桜子!?って、さっき鈴さんの言ってた、」
「うん、それ私の名前。気付いてると思った。」
「いや、僕……あの時の出来事、何一つ理解追いついてませんよ?」
あの時鈴さん「桜子ガ好キナノカ?」ってやたら聞いてきてたけど、とんでもねぇこと仰られていた訳なんですね!?僕の初恋バラされるところだった。
「さ...、先輩。家何処ですか?送ります。」
「ありがとう、でも大丈夫。ここ曲がってもうすぐなの。」
「そう、ですか。分かりました。僕ちょっと弟が心配なので、ここで失礼します。取り敢えず聞きたいことは山ほどあるので……。明日の放課後、美術室寄ってもいいですか?」
「分かった。待ってるね。でも写真部はいいの?」
「あー。なんかうちの顧問、七不思議がどうこう、春のサンタがどうこうって、うるさくて。ちょっと放って置きたかったので丁度いいです。」
「…………、そう。」
「じゃあまた!学校で!」
「うん、ばいばい。」
すっかり暗くなった見慣れた道を、桜の木の下で出会った生意気な後輩が駆けていく。
「窓から見る分だと、もう少し背が低いと思ってたけど。」
さっきまで繋がれていた指を眺めながら、彼の背丈や言動を思い返していた。
私に残された時間は、あと一年。正直、ここ最近は殆ど手掛かりも途絶えて、どうにもならなくなっていた。鈴に聞いても、分からなかった。一番目に聞いても四番目に聞いても、分からなかった。
柳君なら、探せるかもしれない。鈴の事が視えた柳君ならきっと。
──それにしてもあいつ、ふざけた名前よね。
「”春のサンタ”なんて。悪魔のくせに。」