104.別世界に生まれ変わるような
遊牧民の朝は早い。夜が明ける前から家畜の世話をし、その後に朝食を食べた。移動式ゲルで一緒に生活する以上、夜型生活の染みついたウルリヒも早朝に起きる。目を擦りながら家畜に水を与え、放牧を開始した。
戻って朝食後に少し昼寝をする。その間も働き者の一家は、一仕事を終えるのだ。昼は軽く済ませ、放牧した家畜の見回りに、小屋の修理や掃除があった。もそもそと手伝い、日暮前に家畜を回収する。
毎日同じ生活に見えるが、中身は全く違った。昨夜は狼に襲撃され、飼っている犬と一緒に追い払った。今夜はゆっくり眠りたかったのに、山羊の出産に立ち会う。カミルは寝ていていいぞと笑うが、手伝う気で参加した。
結果、まったく役に立たなかった。経験がないのだから当然だが、あんなに出産が命懸けだと思わなくて。出血するし、産道が広がる様は恐ろしかった。生まれた子がすぐに鳴かなかったので、引っ叩いて目覚めさせる。テキパキとこなすカミルを、心から尊敬した。
傭兵として戦いに出るが、あくまでも出稼ぎだ。本業は遊牧民としての生活であり、家畜の管理や世話だった。言葉や書類上で理解していても、実感したのは今回が初めてだ。
毎日裸馬に跨り、荒れた大地を走る。その姿は、人の逞しさを語っていた。都で洗練された衣装を纏い、微笑む王侯貴族と違いすぎる。嘲笑されても彼らが気にしなかった理由が、ようやく理解できた。
別の世界に迷い込んだ気分だったのだろう。馬鹿にされても鼻で笑われても、響かないほど距離が遠い。ルードルフは根っからの戦闘バカだが、根は驚くほどまっすぐだった。この一族の特徴なのだと納得し、ウルリヒは可能な限り寄り添った生活を心掛ける。
彼らと同化した十日ほどの期間は、生まれ変わったような気分だった。戻る日が来たと知り、まさか残りたいと思うなんて。過去の自分では想像できなかった。またおいでと笑うカミルの母に頷き、鞍のついた馬に跨る。
カミルと並んで馬を走らせ、ぽつりと呟いた。
「母君のあの言葉、真に受けていいのでしょうか」
「母さんは嘘はつかない。平気で来るな、って言える人っすよ」
肯定されて、何となく泣きたい気分で空を仰いだ。晴天ではなく、やや曇った空はどんよりと重い。今の中途半端な気持ちのようだと苦笑いし、感情を整理した。
戻った屋敷の執務室で、ウルリヒは頭を抱えた。長期休みを取ったら仕事が溜まった話は聞くが、休暇明けに仕事が減った事例は珍しい。自分の席が片付けられた貴族のぼやきを思い出すが、それとも違っていた。綺麗に整頓され、仕事環境はむしろ快適である。
ただ、届く仕事の書類が少なすぎた。何があったのか、文官に尋ねたところ「女王陛下のご命令です」と返ってくる。昼食をご一緒したい旨を連絡し、食堂へ向かうと……にやにやと笑う親友の隣で、これまた楽しそうな女王陛下。
「計りましたね」
「嫌だわ、悪意にとらないでよ。私はあなたの負担を軽くしただけ」
「そうだ、ここは礼を言われる場面だ」
一緒になって追撃するルードルフは、本音が隠しきれていない。してやったと言わんばかりの顔だった。まあ、これも悪くない。たまには罠に嵌るのも、いいでしょう。ウルリヒは降参だと両手を広げ、二人に白旗を上げた。