100.堤を崩す一穴を穿つ
「ホントだって! 王都じゃ誰もが知ってて、皆が話してるんだぜ」
地方都市の酒場で、やや薄汚れた男が噂を振り撒く。華やかな王都から来た話は、眉唾と思われた。だが信憑性のある噂は、吟遊詩人が歌う内容と一致している。その上、彼は王都から逃げ出したと付け加えた。
特徴のない髪色の男はまだ若い。太い腕を持ち、腰に立派な短剣をぶら下げていた。革のブーツと肩当てを装着し、金を入れた革袋は重そうだ。金回りが良さそうなのに、薄汚れている。そのアンバランスさが、話に信憑性を持たせた。
鍛治が生業だという男は、よく見れば整った顔をしている。金を持った顔のいい男、少し汚れているが洗えば落ちる。そう判断した酒場の女は彼にしなだれかかった。
「だが、王都は盤石だときいたが」
「そりゃ、危ないなんて誰が教えてくれるもんか。勘のいい奴から、こそこそ逃げ出すんだよ」
俺のように、な。そう笑って豪快に酒を飲み干した。ずっしりたわむ革袋から金貨を取り出し、店主に投げる。慣れた店主は片手でキャッチし、眉尻を片方だけ持ち上げた。
「全員に麦酒を奢るくらいは足りそうか?」
「ああ、釣りは?」
「取っといてくれ。俺は明日、もっと田舎に逃げるからさ」
餞別……いや、それは俺が貰う側か。少量の酒で酔ったのか、げらげら笑いながら男は酒場を出る。奢りの酒を逃すまいと、男達は店主のいるカウンターに群がった。女達の誘いをあしらい、男はそのまま姿を消す。
翌朝、早朝から開門を待つ商人も、彼の姿を見なかった。だが街で見かけることはなく、気前のいい色男は徐々に人々の記憶から消える。着替えてこざっぱりとした格好で、別人のように風体を変えたカミルは馬に揺られて王都へ向かった。
途中で分岐して別の街道に入り、別の街で同じ騒動を繰り返す。王都が危ない、王侯貴族は国を守れない。その話がじわじわと民の心を侵食した。大きな水瓶を崩壊させるのは、蟻の小さな一穴だ。
人々の不安や不満が圧力となり、決壊するまで。カミルは金貨の入った重い革袋片手に、あちこちで浪費し続ける。
子爵の話が吟遊詩人の歌で広まると、なぜかアメシス王国内に盗賊が増えた。真っ当な仕事をしても報われない。そう考える者もいるが、大半は国の上層部への反逆だった。小さな反乱かもしれない。だが顔を隠し、貴族や商人を襲う者は増え続けた。
衛兵も本気で取り締まろうとしない。賄賂を渡す必要もなかった。衛兵の一部が、盗賊に扮しているからだ。真面目に働く民や、生活に密着した商人は襲わない。その分別だけ守れば、周辺住民から文句は出なかった。
危険を感じた貴族が外出を控え、王都に逃げ込むのと比例して、まともな商人や国民は地方へ逃げ出す。入れ替わる人口比率に気付かぬまま、王都は空洞化が進んでいった。
「へぇ、王都には貴族ばっかなんか」
カミルは地方都市で酒場に立ち寄り、仕掛けの結果を回収する。同様に各地へ散ったスマラグドスの傭兵達が、似たような結果を持ち帰るだろう。
「これでご満足いただけるかね」
そろそろ休暇が欲しいとぼやきながら、カミルは一族の領地を目指して愛馬を飛ばした。