猫缶が救う世界平和
【1】17:30、恐怖の始まり
「くっ! 何でこんなことに!」
夏が終わり、秋の気配が漂う夕暮れどきのこと。
人もまばらになった大学の構内を、一人の青年が肩掛け鞄を押さえながら必死の形相で走っていた。
青年の名前は、三上優斗。今年大学に入学した一年生だ。
彼は足を必死で動かしながら、頭をフル回転させた。
(ええっと、ここから駅まで走って十分、電車で林田駅(自宅の最寄り駅)まで四十分、そこから頑張って走って十分……。くっ、どんなに頑張っても一時間はかかる!)
そして、走るスピードを緩めると、ポケットからスマホを取り出して現在時刻――五時三十分を確認し、再びスピードを上げながら大きく舌打ちをした。
(くそっ! ギリギリだ!)
走りながら彼が思い出すのは、ほんの十分ほど前の出来事だ。
十分ほど前、彼は大学構内にある同好会の活動室で、仲間たちとテレビゲームで遊んでいた。
彼の所属する同好会は『暇をつぶす会』だ。
暇な人間が集まって一緒に遊ぶというのがコンセプトで、のんびりした性格の生徒が集まっていた。
特に多いのは地方出身の一人暮らしの生徒で、家に帰るのも寂しいからと活動室に集まっては、一緒にゲームをしたり話をしたりと、夜遅くまで楽しむことが多かった。
そんな緩い空気に惹かれ、優斗もまた活動室に入り浸った。
放課後は必ず活動室に寄り、夜遅くまで居ることも珍しくなかった。
しかし、問題が起こった。
同居している優斗の母親が、彼が連日夜遅く帰って来るのを良しとしなかったのだ。
「あんた、いい加減にしなさい!」
「授業サボってる訳じゃないんだから、いいじゃないか!」
優斗にとって、友人たちとの楽しい時間は、母親にうるさく言われても守りたい何よりも大切なものだった。
しかし、一学期に単位を落として、状況が一変した。母の態度が一気に強硬になったのだ。
「家に住んでいる以上は、家のルールに従ってもらいます!」
そして、すったもんだした結果、双方が譲歩し合い、
『単位を絶対に落とさないこと』
『週に一回は、六時半までに帰ってきて、家族みんなで夕食を食べること』
の2つの約束を取り決めた。
しかし、この約束は度々破られた。
同好会室にいると、時間を忘れてしまうため、どうも約束の時間に間に合わないのだ。
そして、遂に先週、ブチ切れた母親に
「次に約束を破ったら、バイトか同好会、どちらかを辞めてもらいます!」
と宣言されてしまった。
という訳で、週一回の日の今日、優斗は細心の注意を払っていた。
サークル活動室内の壁にかかっている丸時計をしょっちゅうチェックして、五時になったら帰ろうと心に固く決めていた。
しかし、不幸が彼を襲う。
「ええ! あの時計、遅れているの?」
普段全く気にしていなかったから気が付かなかったが、何とサークル活動室の時計が三十分も遅れていたのだ。
気が付いて慌てて活動室を飛び出るものの、時は既に五時半。
家まで一時間はかかるので、本当にギリギリだ。
(くそっ! 考えている暇はない! 走れ! 走れ俺!)
校内に残っていた人たちが、疾走する優斗を不思議そうな目で見てくるが、そんなものは気にせずに必死で足を動かす。
大学構内を出て、歩道を疾走し、最寄りの小さな駅の改札を、自動改札ももどかしく早足で駆け抜け、ホームにちょうど来た電車に飛び乗った。
「はあ、はあ、はあ……」
血相を変えて車内に飛び込んできた優斗を、乗客たちが気持ちが悪そうな顔で見る。
そんなことは気にせず、優斗は肩で息を切りながら窓から外を見た。
スピードが上がり、建物や木々がどんどん流れていくが、今日はどこか遅いような気がする。
優斗は祈るような気持ちで沈みゆく夕日をながめた。
(頼む、間に合ってくれ……!)
【2】18:00、怒れる者
優斗が電車の中でやきもきしていた、ちょうどその頃。
彼の母親である智子が、自宅の台所で四人分の料理を作っていた。
ふと時計を見上げると、もうすぐ六時だ。
(……あの子、今日こそは帰って来るわよね)
息子の優斗は、とても優しい子だ。
重い荷物を運んでくれたり、体調の悪い自分に替わってご飯を作ってくれたり、いつも智子を気遣ってくれた。
幼稚園の頃にプレゼントしてくれた野花は、今でもしおりにして大切に保管している。
そんな可愛い息子が、自宅から通える距離の大学に決まった時、智子はホッと胸を撫でおろした。
優しくて可愛い息子だが、誘惑に弱いところがある。
家から通うのであれば、安心だ。
しかし、大学に入学してしばらくして、優斗は毎晩夜遅く帰ってくるようになった。土日もバイトに行くようになり、会話の時間が激減した。
(大丈夫かしら。悪い子と付き合っているんじゃないかしら)
もやもやとした気分で見守っていたのだが、ある日優斗が単位を一つ落としたことをきっかけに、彼女は思った。
(これは駄目だわ!)
優斗はまだ子供なのだ。親として、きちんと管理しなければならないのだ。
そのためには、最低でも週に一度は夕食を一緒に食べて、会話をして、状況を把握する必要がある。
これは束縛ではない。教育だ。
その後、彼女は優斗と話し合いを持ち、
週に一度は六時半までに帰って来て夕食を一緒に食べる約束をした。
さすがに約束すればちゃんと守るだろうと思いきや、毎週のように破られる。
そして、業を煮やして、遂に先週「サークルかバイトを辞めなさい」宣言をした、という次第だ。
智子は思った。
ここまで約束して守らないということは、きっと悪い友達ができたに違いない。
もしかすると、足を踏み外すようなことをしているのではないだろうか。
(今日帰って来なかったら、徹底的に追及する必要があるわね)
今回は絶対に容赦しない。
そう決意すると、彼女は、バンッと包丁で乱暴にネギを切った。
【3】18:10、運命共同体
一階から微かに聞こえてくる、包丁で乱暴に何かを切る音に、優斗の妹――美咲は、ふと我に返った。
参考書から顔を上げて時計を見ると、午後六時十分。夕食まであと二十分だ。
(お兄ちゃん、帰ってきたかな)
立ち上がって部屋を出て、隣の部屋をそっとのぞく。
そして、いつも兄が持ち歩いている鞄がないことを確認すると、美咲は眉間に皺を寄せた。
(うーん、今日はさすがにマズイよねえ)
美咲は優斗の二歳下、高校二年生だ。
夏休みが終わって二学期が始まり、学校で大学進学に向けた意識調査シートが配られたことをきかっけに、本格的に大学受験に向けた取り組みが始まった。
美咲はあまり勉強が好きではない。
ここから一年半、勉強漬けになると思うと気が滅入る。
しかし、大学に入れば待っているのは自由なキャンパス生活。彼女はテニスサークルに入ることに決めており、楽しいキャンパス生活を夢見ていた。
しかし、問題があった。過保護な母親である。
母親は異常な心配性で、子どもである彼女と兄の優斗を「心配だから」「あなたたちのため」という言葉で縛ってきた。
きっと大学に入っても色々言われるに違いない。
だから、美咲は、母親の言うことを無視してサークル活動とバイトに勤しむ兄を密かに応援していた。
経験上、兄が突破してくれた壁は乗り越えやすくなるからだ。
もともと四時だった門限が五時半になったのも、学校帰りにカフェに寄れるようになったのも、兄が戦ってきた戦果と言える。
漫画を買えるようになったことと、アニメがOKになったことは、完全に兄の功績と言ってもいいだろう。
ボンヤリとした兄だが、こういうところは実に頼りになる。
しかし、やりすぎると逆効果なこともある。
オンラインゲームが良い例で、兄が何度注意しても徹夜を止めなかったため、ゲーム自体が禁止になってしまった。
今回は、恐らくギリギリの線の上にいる。
(今日帰って来なかったら、多分締め付けが厳しくなって、私にも影響する)
そうなってしまったら凄く困る。
私は薔薇色のキャンパスライフを送るんだ。
彼女は部屋に戻ると、窓の外を見た。
外は夕暮れで、空には薔薇色の雲が浮かんでいる。
「……お兄ちゃん、早く帰ってきて」
下から聞こえてくる、機嫌の悪そうにお皿を置く音を聞きながら、彼女は祈るような気持ちでつぶやいた。
【4】18:15、とばっちりを受ける男
夕焼けが美しい住宅街を、革鞄を持ったスーツ姿の中年男性が急ぎ足で歩いていた。
彼の名前は健一。メーカーに勤めている優斗の父だ。
見えてきた他の家よりも少し大きい自宅をながめながら、彼はため息をついた。
(優斗のやつ、今日は早く帰って来るといいんだが)
妻である智子は完璧主義の心配性だ。
子どもたちにも完璧を求め、窮屈な思いをさせていた。
あまり教育に良くないだろうとは思いつつも、
忙しくて育児参加ができていない健一は、なかなか口が出せなかった。
だから、優斗が大学に入る際、これは良い機会だと、彼は妻にこう提案した。
「もう大学生だ。自立を促すためにも、見守る方向に切り替えないか」
妻は渋々同意した。
自分でも少し心配し過ぎかもしれない、という気持ちもあったのだと思う。
しかし、そんな裏の事情など知らない優斗は、あまり言われなくなったことをいいことに、色々とやらかしてくれた。
毎日遅く家に帰り、土日は朝早くから夜遅くまでバイトを入れる。ほとんど夕食を一緒に食べなくなった。
それだけでも妻はイライラしていたのに、今度は単位を落とすなんてことをやらかしてしまった。
お陰で妻の過保護が再発し、見守ろうと言った健一は
「あなたが言う通りにしたらこのざまじゃない!」
「そもそも育児にほとんど関わってこなかったあなたに、何が分かるのよ!」
と散々責められ、以前にも増して発言権がなくなってしまった。
その後、妻と優斗は「週に一回は夕食を一緒に食べる」という約束をしたわけだが、何も知らない息子は一向にその約束を守らない。
息子が帰って来ない状況で、少し遅れて三人で食べる夕食を思い出し、健一は身震いした。
それはまるでお通夜……いや、妻が怒り狂っていない分、お通夜の方がまだマシかもしれない。
しかも、妻はそこからしばらく機嫌の悪さを引きずるため、機嫌を取るため妻の好物である高級ケーキを買って帰るのだが、その額も相当で、手痛い出費になっている。
(まあ、でも、今日こそは早く帰って来るだろう)
夫の健一から見ても、前回の妻の怒り具合は凄かった。
さすがにアレを無視して帰ってこないはないだろう。
そう思いながら自宅に到着し、ドアを開けて、声を張り上げる。
「ただいま」
「……おかえり」
二階から美咲の声がするが、台所からは乱暴に何かを扱う音が聞こえてくるだけだ。
(……帰ってきてないのか)
彼は玄関に入ってドアを閉めると、時計を見上げた。約束の時間まで、あと十五分。
(さすがにマズイぞ、優斗)
彼は小さくため息をつくと、玄関に座って靴を脱ぎ始めた。
【4】18:25、影の支配者
彼女は、健一が靴を脱ぐのを何となくながめると、ゆったりと台所に歩いていった。
台所では、機嫌悪そうな智子が、音を立てて食事の準備をしている。
彼女はリビングのソファの上にゴロリと寝そべると、あくびをした。
(みんなは、もうすぐごはんだニャア)
グレーと白の毛並みが美しい彼女の名前は、マロン。
この家の猫である。
少し前にご飯を食べて、満腹でうとうとしている彼女の目の前に、家族たちが集まり始めた。
明らかに機嫌が悪そうに、ご飯をよそう智子と、
「それ運ぼうか」と気を遣う健一。
同じく気を遣うように「わあ、美味しそう」と大袈裟に言う美咲。
その様子を見て、マロンは察した。
これは最近の恒例行事である、「優斗が帰って来ない静かな夕食」だなと。
そして、この後こそこそと帰って来た優斗が大目玉を食らうのだ。
(ふうむ……)
マロンの動物の勘では、優斗が帰ってくるのは六時三十三分。
ほんの少しの遅刻だが、この様子だと智子はそれも許さないだろう。
(しかたないニャア……)
マロンはあくびをすると、ソファから飛び降りた。
優斗にはバイト代で高級猫缶を買ってもらった恩がある。
ここいらでちょっと恩を返して、また高級猫缶を買ってもらおう。
彼女は不機嫌そうな智子の足元にすり寄った。
「にゃあ」
「あら、マロンちゃん、どうしたの?」
「にゃあにゃあ」
マロンは智子の足を軽くぺしぺしと叩くと、奥の部屋に行こうと誘った。
奥の部屋には『ちゅーる』があるので、それが欲しいという意思表示だ。
智子が困った顔をした。
「マロンちゃん、もうすぐご飯なの。もうちょっと待ってくれる?」
「よし、パパがあげよう」
立ち上がる健一を、マロンは不機嫌そうに鳴きながら睨みつけた。
この男はどうも察しが悪い。
察しの良い美咲が「あっ」という顔をして、智子に言った。
「お母さんから『ちゅーる』がもらいたいんじゃない? マロン、お母さんのこと大好きだもの」
その通りだと、とマロンが機嫌が良さそうにニャアと鳴くと、つぶらな瞳で智子を見つめる。
そのあまりの可愛らしさに、智子が相好を崩した。
「まあまあ。マロンちゃんったら仕方ないわねえ。こっちにいらっしゃい」
「ニャア」
智子と一緒に奥の部屋に行き、優斗がこっそり玄関から中に入ってくる音を聞きながら、美味しい『ちゅーる』をゆっくりと時間をかけて食べる。
そして、智子に抱えられてリビングに戻ると、額の汗をぬぐいながら椅子に座る優斗の姿があった。
「あら、いつ帰って来たの?」
「ああ、ぴったりくらいに帰って来た」
「……本当?」
「お母さん、本当よ。ねえ、お父さん?」
「ああ、そうだな。本当にぴったりだった」
健一と美咲がこくこくと真面目な顔でうなずく。
智子は、まあいいか、という顔をすると、笑顔で椅子に座った。
「じゃあ、みんなで食べましょうか」
「いただきます」
優斗が、ホッとしたような顔で食事を始めた。
久々の家族四人の食事ともいうこともあり、話が弾む。
ソファの上に寝そべったマロンが眠そうな目でその様子をながめると、満足げに大きな欠伸をした。
そして、その翌々日。
美咲が一階に降りると、台所の隅で、優斗が何かを熱心に食べるマロンの前にしゃがみこんでいた。横に置いてあるのは、高級猫缶の空き缶だ。
「あれ、お兄ちゃん、また猫缶買ってあげたの?」
「ああ、バイト代が入ったからな」
「この前も買ってあげてたじゃない」
「そうなんだけど、何となく買わなきゃいけない気がしたんだよ」
ふうん、と美咲が訝しげな顔をする。
優斗が、「よく分からないけど、何となくありがとうな」と言うと、マロンが顔を上げて、満足げにニャアと鳴いた。




