クレハとアヤハ
そして再び池田へ向かった。少ししか姿を見ていない気のする池田にもう一度行ってみようと思った。
池田をぐるっと回って、それから呉服街道とかいう道で箕面まで行って、帰ろうかな。池田と箕面はそれほど離れていないのだ。
・・・けれどまあ、時間が足りなくて、結局は箕面には行かなかったんだけれど。
池田市の中心部を、南から北へ、それから東へ、再び南へという、なかなか面白そうなルートを考えて行った。
まずは池田駅(もうずいぶん慣れてきた阪急宝塚線)をダイエー方面に出て、線路沿いを梅田方面へ。
右手にカップヌードルミュージアム(安藤百福発明記念館)への案内が現れた。
有名な話でわざわざ述べるまでもないだろうけれど、安藤百福さんは日清食品の創業者で、世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」や「カップヌードル」を作り出した人。
台湾からの帰化人(といっても当時は台湾も日本国内で、百福さんは戦前から大阪あたりに住んでいた)。
戦後、自宅に小屋を建ててラーメンをつくる研究をしていたそうで、それが池田なのだそうだ。
カップヌードルミュージアムへの案内を通り過ぎ、信号も過ぎ、道が上りにさしかかったあたりで右折。
すっかり住宅密集地だけれど、中には重厚な感じの旧家も見えた。屋根が2段になった(?)おうちが多かった。
道が2つに分かれて、左へ。くねくね道なりに南へ進み、つきあたると少し右手の道で南下。
道はやや上り坂で、左手の少し高くなった位置に小さな公園があり、そこに神社と宇保町自治会館が同居していた。
南向きの神社で、宇保と東の八王子地区の神社らしく、名は猪名津彦神社。
吉備津彦と同じような命名だな。地名+津+彦。
吉備津彦は、それまで強大な力を持っていた吉備を大和朝廷配下におくために、大和から派遣された人(天皇の息子)だって聞いた。
猪名津彦もそうだったのかな? それまで強大な力を持っていた猪名に派遣された大和側の人だったのかな。
ヤマトタケルが倒したクマソタケル(別名、取石カヤ)の名をもらってタケルになったみたいに、元いた猪名の頭もまた猪名津彦で、大和側の人がその名を引き継いだのかもしれない。名というより〇代目〇〇津彦という引き継がれた呼び方だったのかも。
「津」は港のことか、「中つ道」「近つ飛鳥」なんかに使うのと同じ古い接続語「つ」に「津」の漢字をあてたか、どちらかなのだろうな。
神社には呉服と穴織のことが書かれていた。
この後も行く先々で説明されていた。その説明を全部まとめるとこうだ。
応神天皇20年秋、後漢の霊帝の末裔である阿知使主とその息子、ツカノオミが部下である17県の人たちを連れて日本にやって来て、帰化した
いろいろアジア情勢が不安で、いろんな国から人々が渡来してきたという時代ね。
アチノオミたちは大和の檜前に住んでいた。
そして17年後、応神37年、使いとして呉へ。高麗から呉への道が分からず、高麗のクレハ・クレシに道案内をしてもらった。呉を「クレ」と読むのは、この道案内の二人の名をとってのこと。
アチノオミは呉から4人の工女を連れて帰った。
兄媛、弟媛、呉服(呉織・くれはとり)、穴織(綾織・漢織・あなはとり・あやはとり・あやは)の4人。
帰る途中、筑紫でムナカタさんに求められ、兄媛を残してきた。
残りの3人と応神天皇の元に向かうけれど、武庫で応神天皇の崩御を知り、天皇には引き渡せなかった。
工女たちは豊島の猪名野に居館をもち、日々織物をして暮らした。それまでも麻や蚕の糸で布を織ってはいたけれど、錦などはなかった日本に新しい技術をもたらし、人々は季節に合った服を着られるようになった。
それで次の仁徳天皇は猪名野を「呉服」と名付けた。
そしてその息子の反正天皇のとき、アチノオミに猪名津彦の名を与えた。倭漢(東漢)直の祖である。
そして次の允恭天皇のとき、子孫に坂上などの名を与えた。
それから時代が下って後醍醐天皇の時には、絹布をすべて呉服と呼ぶようになった。
桓武天皇の時の征夷大将軍、坂上田村麻呂は東漢氏で、アチノオミの後裔を名乗っていたそうだ。允恭天皇のとき坂上の名をもらった人の子孫なんだな。
どこまで本当か分からなかったけれど、前に行った交野が「七夕のまち」を前面に出していたみたいに、池田は「クレハとアヤハのまち」というのを前面に出しているようで、古いものの多くがクレハ・アヤハと関連付けて語られていた。
かつて猪名野といったという猪名野の「イナ」って、イナ部が住んだところだそうだ。
イナ部は新羅から送られてきた、舟や宮殿などをつくる木工集団で、イナ地方に住んだので「イナ部」と呼ばれたそうだ(それかイナ部が住んだので、その土地がイナと呼ばれた)。
送られたのは応神31年。クレハ・アヤハ姉妹がやって来るより前ね。
東大寺大仏殿、法隆寺、興福寺、飛鳥寺なんかの建築にもイナ部が携わっているそうだ。猪名や伊丹にも古い時代のお寺があったそうで、それら(猪名廃寺や伊丹廃寺)もそうだったのかな。どちらも法隆寺に似た形式のお寺だったそうだ。
イナは猪名川流域から箕面あたりにまで及ぶ広い一帯だったそうだ。そこを流れるから猪名川ね。イナの支配者がイナツヒコ。
県が置かれてからも、その子孫が県主となったと考えられるのだって。ただ何も記録は残っていなくて、よく分からないらしい。
県は「国」や「郡」の制度より前、古墳時代とかに成立していた地方の分け方で、そのトップが県主。地方の有力者がその地位についたそうだ。大王(天皇かな?)が大和(応神天皇からしばらくは河内)にいて、地方にその下についた小国(県)の王たち(県主)がいたって感じだったのかな?
イナには式内社に為那都比古神社があったそうなのだけれど、それがどこなのかもよく分からないのだって。
ここ猪名津彦神社かもしれないし、箕面にある為那都比古神社かもしれないそうだ。
アチノオミより古くからイナの地はあり、イナツヒコもいたのだろうな。
けれど反正天皇の頃までに勢力を失ったか、他に移ったかして、代わりにアチノオミがイナツヒコとされたのかな。
古くからのイナツヒコが箕面の為那都比古で、後のイナツヒコであるアチノオミが、ここに祀られる猪名津彦、とかだろうか。
イナ部をまとめていたのがイナ氏で、「猪名」または「為奈」と書いて、物部系なのだって。
物部系というのは、ニギハヤヒとその息子ウマシマジの子孫たち。
初代天皇(神武天皇)になる人が、住んでいた九州から近畿に進出してきたとき、それを阻んだラスボスがトミヒコ(ナガスネヒコ)だった。トミヒコにはトミヒメ(トミヤヒメ)という妹がいて、その夫がニギハヤヒ。ニギハヤヒとトミヒメとの間の息子がウマシマジ。
ニギハヤヒとウマシマジが神武天皇側についたことで、神武天皇は勝利。大和に入り、即位したのだって。
その子孫には物部の他、穂積、弓削などなどがいて、「物部系」とかいわれる。有名なのは物部守屋。
イナツヒコの下にイナ氏がいて、その下にイナ部がいたのかな。
前回、池田を歩いて、神功皇后に信頼されていた一族がいたのかな、と思った。
それが古いイナ一族だったのかな?
それとも応神天皇の異母兄たちを倒した神功皇后はその支配下にあった(ただの想像だけど)古いイナ一族を排除し、そこに自分の信頼する一族をおいたのかな?
イナツヒコは、イナ(イナ地方)ツ(の)ヒコ(男)ってことで、世襲制じゃなく、天皇から任じられるものだったのかも。
神社の鎮座するところが小高くなっているのは、円墳だったからなのだって。けれど古墳は盗掘され、わずかに残っていた物は伊居太神社に埋葬されたそうだ。
神社の北の道を西に向かっていった。つきあたるので、ちょっと左手の道を西へ。地名は満寿美町。
右手の「メルシーますみ」なる施設を過ぎたところで左折すると、「伝・染殿井」があった。呉服さんたちが布を染めたと言われているところ。
新しい住宅に囲まれた中に、そこだけ古いまま、四角く切り取ったように残されていた。
少し北にある「パン カズ」に寄ってパンをゲット。知らなければ絶対気がつかなかっただろう、普通のおうちがパン屋さんになったお店だった。ペット用にリードをかけるポールが設置されていた。
ところどころで犬の糞を放置すると2000円と明記されていた。池田市の条例でそう決まっているみたいだった。
西に向かい、呉服小学校手前で右折。北に向かうと、阪急電車(宝塚線)が見えてきた。
線路の近くには大きな家が多かった。地名は室町で、日本で初めての郊外型田園都市としてつくられた町なのだって。手がけたのは、阪急の生みの親、小林十三。明治時代のこと。
室町は室町時代の室町じゃなく、室のある町ってことみたい。「姫室」なる室があるんだそうだ。
線路沿いまで北上すると、右手には大きな鳥居が見えた。一の鳥居かな? 左手に進むとここにも鳥居が見え、呉服神社だった。
隣にはここにも幼稚園。拝殿にはステンドグラス(風?)で鳥が描かれていて、きれいだった。
ここはクレハ、アヤハ姉妹の姉、呉服を祀る神社だった。わたしはバッグに入っていたけれど、どうどうと境内を歩いて、人間と一緒に参拝している犬がいた。
クレハ・アヤハ姉妹がやって来た後、四季に合った服が着られるようになったらしく、それまでの布は単純な平織りで、目が粗くて風通しのいいものだったのかな。そこに重厚に織れる技術者がやってきて、冬も暖かく過ごせる布が織られるようになったのかな。
そこには蚕を育てる人、糸をつむぐ人、教えてもらって後世に技術を伝える人、幾多の工女たちがいたのだろうな。
それには和泉発祥の倭文氏たちも関わっていたのだろうなあと勝手に想像した。日本古来の織物を行っていたという倭文氏。
その祖は和泉のドン、ツヌコリ(角凝命・ツノコリ)で、ツヌコリは和泉の波太神社に祀られている。
機織りだけじゃなく、製鉄・海運などにも堪能だったらしき一族。
二上山でとれるサヌカイトは、縄文時代、このあたりにも交易されていたそうだ。
ましてや弥生時代や古墳時代には、倭文の機織りや製鉄の技術は各地に広まっていただろうな。
そこにやって来たのが、進んだ機織り技術を持つ工女たちだったのかな。
クレハが亡くなると、遺体を上の宮(伊居太神社)の梅室に、形見の品を下の宮(呉服神社)の姫室におさめたそうだ。けれどいろんなふうに伝わっているようで、詳細は不明。
二人の塚が梅室と姫室で、この付近にあったのだけれど壊されたともいわれているみたい。
呉服神社には池田えびすや天満宮も合祀されていた。天満宮の裏が姫室だった。
入れないようになっていたけれど、「伝・染殿井」と同じように、古いままで残されている感じだった。
参道を戻っていき、阪急電車の下を通って、その先の国道176号線へ。槻木南交差点を過ぎて北上していった。




