能勢街道と池田
中国街道は歩き終わって、これも途中までになっている能勢街道の続きを歩きに行くことにした。
能勢街道は能勢や池田の物資を運んだり、妙見詣りによく利用された道だって。
中津から中国街道は西に向かって行ったけれど、能勢街道は中国街道から分かれ、北に向かって行く。北に進んで、能勢街道は前に石橋駅(阪急宝塚線)まで歩いていた。中国街道あたりに阪神本線が走っているように、能勢街道あたりには阪急宝塚線が走っていて、稲津、服部、桜塚、石橋と歩いた。
石橋駅から続きを歩いてもよかったのだけれど、もっと南の豊中駅からスタートすることにした。
前回、蛍池駅のそばの能勢街道を通って石橋駅まで歩いたのだけれど、それは明治時代になってつくられた新道らしく、元々は東の刀根山を行く道だったのだって。
その元々の山道で歩きなおしてみたかった。
というわけで阪急豊中駅(宝塚線)へ。
「都会の駅を降りたところ」が一番道に迷いやすい、というのはわたしの持論だけれど、その通り、さっそく道を間違って、大池小学校の方に迷いこんでいた。今や都会のただ中だけれど、元は大きな池でもあったのかな。
豊中本町北交差点からやり直して、豊中一番街を北上。なかなか賑わっている感じの商店街だった。
古くからの商店街なのだろうけれど、ちゃんと時代とともにあり、さびれてはいなかった。パン屋カランを見つけたけれど、定休日なのか閉まっていた。
すっかり住宅密集地になっていたけれど、右手に古くて面白そうな道があったりもした。高台に向かっていく道。けれどスルーして、どんどん北に向かっていった。
右手に小さな空地があって、「破堤防禦義死山中石松之碑」があった。
明治時代、大雨で千里川の堤が決壊。なんとか水をくい止めようとしていた村人の一人が亡くなり、その働きをたたえた碑だそうだ。
そこには多くの他の村人がいたんだな、と思った。碑を建てるのは、なにか特別なことが起こった時で、残るのはその碑だけだけれど、周りには碑をたてた、名もなき幾多の人々がいたんだな。
残った碑だけを見ていてもだめなんだな。同じように、残った神社や古墳だけを見ていてもだめなんだろうな。
そこからすぐが千里川だった。渡った橋は千里川橋。
渡った先では道がすごく狭かった。行きかう車が譲り合って、少しずつでないと進んでいけないようなところだった。歩きの人もそれを待ってでなければ通れない。
そんな住宅と人と車の密集地で、川だけが昔の風情だった。地名は千里園だった。
道なりに進み、道が2つに分かれると左手に。上りの道を進み、つきあたりを左へ。またつきあたって、右へ。ここを北上。
住宅だらけの中、スーパーの帰りらしい老夫婦が坂道を上っていた。
大池さんのお宅などがあった。地名は刀根山。
まさに山だった。この道が物品を運ぶのに不都合だったので、平たん地に新しく道がつくられたそうだけれど、そりゃあこれでは不都合だったろう。
峠を過ぎたあたりで、すぐ右側の細い上り道を上がると市軸稲荷神社だった。そのまま進んでも右手に参道が現れたけど。
けっこう広くて、刀根山のてっぺんあたりの神社のようだった。大正時代、稲荷を勧請し、刀根山の神である市軸大神も一緒に祀ったそうだ。
「お多福社」と案内されていた。木枠にお多福の大きな絵をつけて、そのお多福の鼻の下をくぐるみたいな「お多福門」のある社らしかった。
けれど見当たらず、神社の人かなと思われる数人が木を切ったりと作業していたから、新しく作っているところだったのかな。
周りは、新興住宅地に変わっていた。下り坂の向こうには、下にモノレールも見えていた。新・能勢街道はモノレールの横の道だった。高い位置を走っていたモノレールが、ここからは下に見えた。
元の道を進んでいった。下りの道との分岐では下らずに行くと、つきあたり。
そこには旧能勢街道の道標と、刀根山御坊への道標があり、頭上に道が続いていて、そこには左右から迂回して上っていけた。
刀根山御坊は、最初存覚が石橋に建て、刀根山に移って常楽寺という名になったお寺のことらしい。この北の方にあるお寺。
散歩していて、「〇〇御坊」って各地にあって、浄土真宗のお寺の初期の呼び名だった。
浄土真宗をひらいたのは親鸞で、親鸞の墓所が、親鸞のひ孫の覚如(3代目)が建てた本願寺。本願寺は覚如の子孫たちに代々引き継がれた。一時はかなり衰退していたらしいのだけれど、蓮如(8代目)の頃から盛り返していった。各地に御坊をたてていて、それが寺として残っている。
刀根山御坊は、もっと初期の頃の創建で、存覚さんは覚如の息子らしい。
道を上っていくと、刀根山公園があった。
その前には地蔵がいっぱい並べられた地蔵堂。あたりがすっかり開発されて、ここに集められたのだろうな。
せっかく刀根山バージョンで歩いてみた能勢街道だったけれど、旧能勢街道はあまり面白くなかった。あまりにも開発されて、住宅密集地になっていた。
公園横を通って、北に下っていった。このあたりは山里が住宅地になったって感じを少しは残していた。
阪大前南交差点に出て、長めの橋を渡った。
橋の下は何車線かの道路で、下には料金所だったようなところがあった。中国自動車道らしかった。
そして上にはモノレール。
架道橋を渡ると阪大前北交差点で、その向こうが大阪大学だった。
こんな車ばかりのところに学生はどうやって来るんだろうと思ったけれど、右方向にはモノレール柴原駅(今は「柴原阪大前駅」に改名)が案内されていたし、左に下っていけば普通の市街地らしかった。モノレールのほか、阪急(宝塚線)の蛍池駅もある。
学生っぽい人たちが左手の坂道を上ってきていた。
阪大前北交差点の、その先にマチカネワニの碑があるようだった。
けれどそこは大学の構内で、間には守衛さんのいるゲートもあって、なんだか場違いで残念ながらスルー。
大学は、すごく立派できれいだった。
高台にあって、マチカネワニにふさわしいダイナミックなところに思えた。他、刀根山では大きな象の牙も見つかっているのだって。
左折して、坂を下っていった。
池(金坂池)を過ぎて、6丁目バス停のところで右手の道へ。「清風かつら通り」とあった。住宅地で、地名は清風荘。
車道と歩道が途中で分かれて、歩道を進んでいった。清風荘1丁目交差点で国道176号線を渡り、道なりに北上。「能勢街道」の碑があった。
それから線路に近づいていった。阪急宝塚線で、踏切は「西国街道踏切」。
このあたりで豊中市から池田市に入ったようだった。
踏切の手前には「西国街道」の碑があった。説明によると、能勢街道は江戸時代には大坂道、池田道と呼ばれていて、ここは西国街道との辻。高札場だったところだそうだ。
西国街道はまだ茨木市より西には歩いていないのだけれど、ここを通って西宮神社方面に向かうんだな。
ここ石橋村は麻田藩青木家の領地で、住んでいたのは20数軒200人前後だったそうだ。街道の辻で高札場があったところでもそんなものなんだな。マンション1つにそれくらいは住んでいる現代とは全く違ってたんだなあ。
踏切を渡ると、ここからは前の能勢街道歩きでも通った道だった。北上していくと「ショッピングストリートいしばし」。
また前回と同じTAROでパンをゲット。そのいでたちから新しい店だと思っていたのだけれど、もうすぐ90周年だって(当時)。1929年開業らしい。
平和温泉なる銭湯、地蔵、昭和な駅前のパチスロ店、低い暗い、なんだか素敵な高架下。
アーケードの下に商店街が続き、途中に石橋駅(ここも後に「石橋阪大前駅」に改名)もあって、全体が昭和な感じだった。
商店街の終わりあたりにはパン屋ムギがあった。ここで買えばよかったなあ。
商店街の奥には川が流れていて、赤い橋がかかっていた。川は箕面川で、橋は箕面川橋。川の名前がそのまま橋の名前になっている道って、街道だったところが多いな、と思う。
つきあたって右折。
すぐに井口堂交差点に出たのだけれど、ここでも迷ってしまった。
上にも道路が走り、車道がいくつか交差して、「井口堂」と書かれた交差点がいくつかあって、なにがなんだか・・・。
左手にある古そうな三菓亭(「本あられ・とよす本店」とあって、ほぼ満席だった)の裏側、阪急バスの敷地内みたいなところを進んでいけばよかったみたい。
少し道が上りになり、右手には山が見え、前方に古墳が現れた。二子塚古墳だって。
突然の古墳に思えるけれど、ここまでの能勢街道歩きで通った桜塚には桜塚古墳群もあり、銅鐸も見つかっているようなところだった。服部は弥生時代からの集落跡の見つかったところだし。
二子塚古墳は小さな古墳だった。上にも上っていけて、上ると稲荷と石室があった。
6世紀前半のもので、猪名川流域最後の古墳と思われるのだって。秦野台地からの丘陵の南端に位置するってことだった。前方後円墳で、長さは45m。
猪名川はもっと西の方を流れる川で、さっき越した箕面川の注ぐ川だった。
このあたりから能勢街道の説明がところどころにあって、周辺を説明してくれる地図によると、かつての地名はハタケナカ。
「秦野」とか「ハタケナカ」とか、秦氏の匂いのするところだな。
そのまま北上すると右手に大きな地蔵があり、つきあたりには「井口堂の道標」。つきあたった道は有馬街道らしかった。ここで左折。
すっかり田舎めいてきていた。
「井口堂」は取水堰みたいな意味合いなんだって。笹部さんの旧家が多かった。前に行った武庫川駅近くにも多かった気がする。
地蔵と道標(「ニシンジョの道標」)があって、道が分かれた。
まっすぐ進むのが有馬への道。ずっと行けば有馬に行けて、すぐそばには一里塚もあったのだって。
ここは右折して北上。道は西に方向を変えて、サビ川を越えた。
信号も越えると、右手に水月公園が現れた。
公園の奥の方には、高い場所から人工の滝が流れていて、上に上っていけるようになっていた。上ってみると、見晴らしがよくて、気持ちのいいところだった。特に南西方面がよく見はらせた。
地名は鉢塚だった。
公園に沿って北(北西)に進んだ。右手に地蔵がいっぱい集められているところがあった。道は下りになっていった。
この、今は住宅密集地だけれど、古そうな道沿いにはいろいろあった。
まず右手に愛宕大権現。愛宕は防火の神様として、集落の高い位置に祀られることが多かったそうだ。
ここもかなり急な階段を上っていった先にあった。ところが高い位置でも、周りは住宅で取り囲まれていた。こんな急坂のところにさえも家を建ててしまう努力と、そうしないと住めない人口の多さに改めてびっくりした。
次は鉢多羅山若王寺釈迦院。こんな住宅密集地の中だったけれど、存在感のある山寺の風格だった。
そして面白いことが書かれていた。神功皇后が新羅国王より釈迦にまつわる鉄鉢(仏舎利を納めた宝鉢かな?)を進呈されたのだって。三韓征伐の時かな。
けれど日本ではまだ仏教は知られていなくて、神功皇后は鉢をここに埋蔵。
後に行基が夢に見て、それを発掘。その地に、聖武天皇の勅願で寺を建てたそうだ。
けれど織田信長の兵火にかかり、全焼。その後、再建。鉄鉢は今もあるみたい。
この話が本当なら、神功皇后がここ(猪名の里)に鉢を埋蔵したのには、それだけの理由があったのだろうな。信用できる一族がいたとか、渡来してきた仏教徒がいたとか。
行基も夢に見たんじゃなくて、その一族に、神功皇后に託された鉢があると告げられたのかも。
それから旧道の感じのする道と交差して、信号に出た。右には上り、左には下り。
左手にはずっと緑が見えていて、気になったので行ってみた。
小さな公園と五社神社だった。公園で少し休憩。
五社神社は南向きの神社で、南には大きな鳥居があった。狛犬は立派で可愛かった。経塚もあるらしかった。
横に長い拝殿があり、その中央から奥に入っていけるようになっていた。割拝殿ってやつね。
行基が若王寺を創建した時に、その鎮守として祀った神社だそうだ。
拝殿の横に「子授け地蔵」と案内があって、進んでいってみると、地蔵がいた。
さらに奥にはドアがあり、「鉢塚古墳入口」と書かれていた。ドアノブを回してみるとドアは開き、そこには細い通路があった。
進んでいってみると、左手の低い位置に横穴式石室があった。けっこう大きくて、中にはなにかが祀られていた。
石の(十三重)塔もあって、これは室町時代のもので、国の重要文化財らしい。他にお地蔵さん(かな?)などもいた。
石室の上が神社になっているらしかった。
またドアから出ていった。一瞬だったけれど、不思議なところにトリップに行っていたみたいな感じがした。
このあたりは秦郷だったところで、秦氏の有力者の墓かと思われるそうだ。池田は5世紀頃に秦氏がやって来て、住んだところらしい。
ここに神功皇后の信頼する勢力があって、宝鉢を託された。5世紀ごろ、秦氏がやって来た。7世紀に入るか入らないかの頃、古墳をここに造成。後に(724年)行基を呼んで、寺と神社も建ててもらった・・・って感じ?
行基は聖武天皇が奈良の大仏をつくるのに一役買って有名な人だ。大きな仏像造りは何度も失敗し、行基に力を借りてやっと成功した。
散歩を始めた頃、わたしは行基なんて聞いたこともなかった。けれど行く先々で行基の名前が出てくる。父は渡来してきた人らしく、他にも渡来系の人々が多く住み暮らす堺で行基は育った。
当時、仏教は金ぴかの仏像や仏具を伴うハイソサエティーのための宗教だった。そんな中、貧しい民衆の中にも入っていって布教し、彼らのために生きる行基を、施政者だった長屋王は忌み嫌ったそうだ。
けれど行基は布教を続け、池を造ったり、橋を架けたり。
そのうち「行基集団」と呼ばれる建設のプロみたいな人々が集まり、かなりの大工事も短期間で施工するようになったみたい。高度な建設のノウハウを持ち、渡来系の技術者たちも関わっていたと言われ、それが秦氏だったとされているみたい。
大きな仏像を建造するノウハウもその延長だったのかな。
もしかしたらここ池田で、行基と秦氏は手を結んだのかも・・・とか勝手に想像した。
能勢街道まで戻り、続きを北西に進んでいった。
高低差のある、雰囲気のある静かな町で、右手に学校があり、大阪教育大付属池田小学校だった。
左手に向かって流れていくせせらぎ水路を越え、今度は右手に大きな産業技術総合研究所の施設が続いた。
茨城県つくばに本部を置く国立研究開発法人で、ここは大阪センターだって。巨大で、新しくて、きれいだった。
左には八王寺川(江原川?)が、細い水路を下っていた。地名は左は城南、右は上池田。
道は公園にいきついた。辻ヶ池公園だって。
能勢街道の説明があって、東には「池田茶臼山古墳」「五月ケ丘古墳」「庚申さん」「呉服神社」「穴織神社」が案内されていた。気になったけれど、公園の北側を西に能勢街道を進んでいった。
ここからは道は狭くなっていた。昔からの道で、拡張できなかったのかな。やや上り坂になったこの道にもいろんなものがあった。
まずは「木造薬師如来立像」。
10世紀後半(平安時代)の体長145cmの像だそうだ。小さなお堂の中にいて、中を覗いてみたけれど、暗くてほぼ何も見えなかった。
お堂の前には小さな五輪塔なんかがまとめられてあった。
池田さんのお宅があり、「星の宮」があった。穴織宮伊居太神社の旅所だって。「明星太神宮」と書かれていた。そばには建石町会館。
クレハ・アヤハという二人の織姫のことはまだ知らずにいたけれど、ここは彼女たちが星の明かりで織物を織ったと言われているところだった。
右手は上りになっていて、五月山に向かうらしかった。山の方には池田文庫や小林一三記念館や逸翁美術館の案内が出ていた。
星の宮あたりから道は下りになって、和菓子屋さんなんかが並んでいた。元は石階段だったらしい。
池田職安前交差点を過ぎて、左手にサカエマチ2番街なる商店街が見えた。
ここを右折して北に向かうのが能勢街道だった。けれど左折して池田駅(阪急宝塚線)へ。もう帰る時間。
池田駅周辺はなかなかに都会だった。