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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
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中国街道と西宮神社

武庫川を越えると西宮市だった。琴浦通りは「旧国道」と名前を変えた。

旧街道は元は海辺の砂洲だったところなのだって。紀州街道と同じで、松林と海を見ながら進んでいく道だったのかな。

左手に小松商店街あまりにぎわいはないがあり、岡太神社が現れた。式内社の岡太神社の論社(候補地)だそうだ。それで岡太神社を名乗っているんだな。

平安時代にこの地を開拓した岡某さんが広田明神を祀った社だそうだ。

西宮には廣田神社があって、神功皇后がアマテラスの荒魂を祀った神社ということだった。その広田神社からここに勧請したってことかな。

式内社(平安時代に編纂された神社目録に記載された神社)にしては歴史がない感じがする。

祭神は天之御中主神。なかなかに高い段の上に拝殿があって、ちょっと弥生時代の神殿みたいだった。

狛犬の代わりに猪がいた。最近おかれたものみたい。


それからずっと旧国道を西に進んでいった。

途中「リトルインディアン」というパン屋があって、パンをゲット。注文の食パンがいっぱい並んでいて、地元で愛されているパン屋さんのようだった。

小曽根線を過ぎると、一瞬都会になった。少し南には鳴尾駅(阪神本線)があったみたい(今は「鳴尾・武庫川女子大前駅」に改名)。

最近行った豊中市に小曽根おぞねってところがあった。服部天神の近く。このあたりには小曽根町こそねちょうがあるみたい。

本郷学文筋を過ぎ、左手に緑が見えていて、気になったので行ってみた。

鳴尾八幡神社だった。近くには水路も流れていて、治水や配水の役目もしていたのかな、という感じがした。鎌倉時代の創建と伝わるそうだ。

広い神社だったけれど人の姿は皆無だった。中は黄色いバリケードがはられたところがあり、割れたガラスが落ちていたりもして、工事中なのか、荒れているのかよく分からなかった。木もいっぱい切り倒されて、そのままだった。

なにか不思議な感じのするところだった。古い土地柄で、その中心が鳴尾八幡神社だったけれど、変わっていく中で大きな姿のまま忘れられようとしている、みたいな。単に台風21号で被害がひどくて、一時こんな感じになっていただけかもしれないけれど。


旧国道をまた西へ。このあたりからマンションなんかに甲子園の文字がちらほら見えるようになった。

旧国道の南にある甲子園は埋立地だそうだ。

佃煮清左衛門とかあって、おいしそうだった。ベーカリーウエダは閉まっていた。このあたりは洋菓子店も多かった。

甲子園五番町交差点にもパン屋さん(パン・ド・カンパーニュ)があって、ここでもパンをゲット。

この少し南が甲子園駅(阪神本線)で、その少し南が甲子園球場のようだった。

中津浜線を過ぎ、新川しんかわを新川橋で渡った。

少し南に見える駅は久寿川駅(阪神本線)だった。阪神本線は四国街道のあたりを走る電車なんだな。

蓬川、武庫川、久寿川と、川の多いところだった。海辺の砂洲に北の山から幾多の川が注いでいたのだろうな。久寿川は気づかなかったけれど、新川の次に渡っていたみたい。

右手に小さな灯籠があって、小さな石塔なんかが並べられていた。その奥に神社があって、上野神社だった。詳細は不詳だって。

すぐに高速(名神高速)の下を通った。

右手に大きな、廃屋かと思った寺の塀が続いていた。浄願寺だったのかな?

鳴尾八幡神社にしても、浄願寺にしても、お店だったら、閉店したんだろうなと思うような有様だった。

地名は津門呉羽町だった。


その北には津門綾羽町。

津門は。ムコ水門(港)があった、古代都市だったところなのだって。ムコは武庫とか務古とか書いたみたい。

日本書記とかにも記載があり、神功皇后が三韓征伐の後、帰ってきたところ。

神功皇后は応神天皇のお母さん。夫である14代仲哀天皇が亡くなった後、朝鮮半島に渡って同盟を結んだ、のかな(三韓征伐)。それから船で帰国すると筑紫で誉田別(後の応神天皇)を出産。実は仲哀天皇の子にしては遅すぎる出産だったのだけれど、石を巻いて出産を遅らせたとか言われている。

近畿にも船で戻ってきた。けれどそこには仲哀天皇の皇子たち(神功皇后とは別の妻が出産した男子たち)がいて、戦いに。

神功皇后は広田神社や、住吉大社などを創建しつつ戦い、ついには勝利した。そして応神天皇が即位するまでの間、摂政として政治を行ったのだって。

神功皇后の時代、朝鮮半島や中国は乱世で、国力も弱まっていたみたい。応神天皇の時代には、大量に移民の人たちがやって来ている。

津門呉羽くれは町の呉羽と津門綾羽あやは町の綾羽は、この後行った池田市ではおなじみ、呉羽くれは穴織あなは(あやは)の姉妹のことにちがいなかった。応神天皇の頃、日本にやって来て、進んだ技術の機織りを伝えた2人の工女。


阪神本線の、今度は今津駅の前を通った。それから高架下を通って、ここまで阪神電車の北側を並行していたけれど、ここからは南側を進んだ。

津門つと川を津門川橋で渡った。福祉センター筋を過ぎると前方2つに道が分かれ、左手へ。

このあたりの地名は染殿町だった。

北は松原町で、喜多向稲荷神社や「染殿池」があるのだって。海外から船でやって来たクレハとアヤハの姉妹は、まずムコにたどり着いたそうだ。そして織った布を染めたというのが染殿池。その後に池田に向かったんだな。

本町橋で東川を越え、またすぐに六堪寺川を越えた。

南北朝時代、六湛寺なる寺があったそうだ。戦国時代などに荒廃していったそうだけれど。


用海筋を越え、街路樹のきれいな市役所前線を越えた。

このあたりはすっかり市街地で、街道らしさは一切なかった。札場筋を右折すると西宮駅(阪神本線)で、今回の散歩はここまでとして帰るつもりだった。このあたりで中国街道は西国街道に合流して終わるようだったし。

けれど前方に神社らしきものが見えて、行ってみると大きな神社だった。西宮神社とあった。

もしかして、これは毎年年男を走って決めるっていう、えびす神社かな?

知らずに行ったから、思いがけなくてうれしかった。

最初、鳴尾の漁師が海から拾い上げて祀っていた神像をここに移し、祀ったのが西宮神社なのだって。その神はえびすさん(ヒルコ)。

えびすさんって、コトシロヌシを祀るところも多い。でも散歩していて、大阪湾岸に祀られるエビスは蛭子ひるこであることが多かった。

むかしむかし、イザナギとイザナミがいた。オノゴロ島に住むふたりの子がアマテラスオオミカミやスサノオ。

けれど本当は最初の子はヒルコだった。ただ、ヒルコは3歳になっても立てなかったので、舟に乗せられ、流されたのだって。そのヒルコが流れ着いたところというのが前に行った石津(堺市)だった。


実のところは、西宮神社の創建については不詳なのだって。元は広田神社にあった神社だった、とかとも言われているそうだ。

中国街道に西国街道も通っていたからたいへん賑わって市もでき、やがて商売の神様に。

神社の元に芸能集団「傀儡くぐつ師」がいて、全国をえびすの人形劇をしながら回り、そのことからえびす信仰が全国に広まっていったのだって。

戦国時代には兵火で焼失し、豊臣秀頼が再建。空襲では国宝だった本殿などを焼失。

ずっと休憩場所を探しつつ歩いていたけれど、よさげなところがなかったから、やっとこの近くの小さな公園で休憩をした。リトルインディアンのチーズクリームパンがおいしかった。

阪神本線西宮駅からおうちに帰った。

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