中国街道と尼崎城
中国街道に戻って南下していった。商店が多くて、街道だった名残なのかな。
左手には並行して遊歩道があって、ここも川だったところかな。遊歩道は大物公園に入り、稲川橋の下を通って南に続いていた。稲川って川だったのかな。
大物公園の西側のバス通りを南下するのが中国街道なのかな? わたしたちは公園の中を南下。坪和福祉会館のところで公園を出ると信号があって、上には阪神電車(本線)が走っていた。
高架下には三ノ坪福祉会館があり、信号を渡ったところが小田南公園だった。
大物公園も小田南公園もどちらかというと殺風景な公園だった。周辺には線路や幹線道路がいっぱいで、その中に取り残されたような。
阪神電車の高架沿いに西に向かうと、バス通りに戻った。
バス通りを南下すると、今度は阪神電車なんば線。小田南公園の北側を阪神本線(梅田発)が、南側をなんば線が走り、大物駅で一緒になって西の尼崎駅に向かうようだった。
右手には大物駅が見え、左手には大物川緑地が見えた。前に大物川緑地を通って大物駅にたどり着き、おうちに帰ったことがあったな。大和田街道を歩いたときだ。
今回はまだ帰らない。
広いバス通りを南下していった。
大物主神社前交差点があり、右手には大物主神社。「宗像東宮」と書かれていた。
こんなところにとつぜん、大物主神社?と驚いた。
でも平安時代には交通の要所だったあたりなのだし、不思議ではないのかな。ここもその頃にできたのかな?
詳細は不詳ながら、大物主(事代主)の子孫の大田田根子のさらに子孫(鴨部祝?)が関係して祀ったといわれ、後に平清盛が厳島神社から市杵島姫を合祀したと伝わるそうだ。
次の信号(大物橋北交差点)の高いところにスピーカーがあり、そこから放送が始まった。
「1.17は忘れない 地域防災訓練」を1時20分に行いますって。
この日は1月17日だった。阪神淡路大震災のあった日からちょうど23年後の日。
大物橋北交差点で大物川緑地と交差。「大物橋跡」の碑があった。
大物川の大物って、もしかして大物主の大物?と、ふと思った。でも大物川は大物と書いて「だいもつ」だしな・・・ところがかつては「おおもの」と呼んでいたのだって。
東本町交差点は大きな交差点で、横断歩道がなかった。交差するのは国道43号線。歩行者と自転車は上の歩道橋を通るシステムで、歩道橋の上には高速(阪神高速)も走っていた。
歩道橋を渡り、そのまま南下を続けると、雰囲気が変わって下町の感じ。
前方に川が現れた。庄下川だった。伊丹の方から南下してきて、この西側で旧左門殿川と分かれ、東に流れていって、左門殿川に合流。
左手には御茶屋橋交番が見えた。今では全くそんな感じはないけれど、街道沿いとあって茶屋もあったところなのだろうな。
ここを右折して、川沿いを西に向かっていった。
短い東町緑地があって、出口には「中国街道 大黒橋跡」とあった。参勤交代の大名行列も通ったと説明されていた。
そして江戸時代、ベトナムから象がやってきて、九州から江戸まで歩いたエピソードが語られていた。こういう、子どもでも興味をもてそうな内容が書かれているのって、いいな。
今ではウソみたいだった。川とは塀で隔てられた、静かな住宅密集地。
川はいったん右折していき、わたしたちは直進。歩道橋で川を渡って、さらに西に進んでいった。
住宅密集地だけれど、静かだった。ここは本町通だって。
右手に奇妙な建物群が現れた。中層ビルなんだけれど、1階2階部分の屋根が旧家みたいになっていた。築地本町住宅だって。左手には戎湯なる銭湯があった。
築地5丁目交差点で右折。川を戎橋で渡った。橋の左手には水門があって、閉ざされていた。ここが庄下川から旧左門殿川が分かれて西に流れていくところみたい。
「ただいまから訓練放送を行います」という声が西側からしてきた。そしてサイレン。
「大地震です大地震です」
「1.17は忘れない。地域防災訓練」だった。1時20分になったんだな。訓練と分かっていてもなんだか怖かった。2種類のサイレンの音を聞いた。
南海トラフ巨大地震(M9.1)が発生し、尼崎は震度6強、2時間弱で最高4mの津波の第一波が予想される、という想定での訓練だったらしい。
築地についての説明書きがあったけれど、サイレンを聞きながらで、いまいち頭に残らなかった。「大地震です」と言われながらだったもんな。
元は大小2つの島だったのが築地町になったのだって。
この北には尼崎城があり、城下町として栄え、寺内町もあったのだとか。ここはその南に造られた埋め立ての町、みたいなことが書かれていたような・・・。
戎橋を越えたところに「築地大神宮 南へ5丁」と石の道標があった。
南東にある初嶋大神宮のことかな?
東本町にあった初嶋恵比寿が移転してきて、享保の頃、初嶋大神宮と名を変えたのだって。それで橋の名も戎橋なのかな?
このあたりは阪神淡路大震災では液状化がひどかったそうだ。初嶋大神宮も被災。復興で風景もだいぶ変わってしまったのだって。
一帯で大規模な区画整理が行われたらしく、それで道は広くてきれいで、明るい雰囲気なんだな。元はかなり雰囲気は違い、ディープなくらいの面白いところだったみたい。
銭湯戎湯もきれいだった。震災前からあったそうだけれど、区画整理に伴ってボーリング(穴掘り)してみたら、温泉を掘りあてたのだって。
他にも震災後にほりあてた温泉銭湯がいくつかあるらしい。
上を高速(阪神高速)が走る西本町交差点を過ぎた。さっき通った東本町交差点の少し西側。
ここを左折して「西本町の貴布祢神社」方面に進むのが中国街道だった。
なんだろう、東本町交差点から西本町交差点まで国道43号線あたりを西に進めば近道なのに、わざわざ南にぐるっと回って進んだんだな。
川があった影響でなのか、北にあったという尼崎城を迂回するためだったのか。
ここで、久しぶりの散歩はこんなもので終わりにしようと、北の阪神尼崎駅へ向かうことにした。途中にある城跡公園でゆっくり休憩してから帰ろうっと。
北に向かっていると、右手に神社が見えた。
開明橋交差点まで北上して右折すると、開明橋で庄下川を越え、神社に入れるようになっていた。桜井神社だって。
下っていった低地にあった。ちょっと寄ってみることにしよう。
桜井神社があるのは、元は尼崎城の三の丸だったところらしい。
荒木村重がいて織田信長に攻められたという尼崎城はまた別で、尼崎古城(大物城)とか呼ばれるそうだ。
ここにあった尼崎城は江戸時代になり、尼崎藩主としてやって来た人が築いたお城。
庄下川と大物川の河口あたりにあり、城まで船で行くこともできたそうだ。
途中からは幕末まで桜井松平家が藩主を相続したのだって。桜井神社はその歴代の桜井(松平)さんを祀る神社だそうだ。
「日本赤十字発祥」と書かれてあった。最後の城主だった桜井忠興公は西南戦争の時、敵味方関係なく負傷者を看護したそうだ。桜井さん他、数人で熊本に世界赤十字をならって「博愛社」を設立。それが日本赤十字の元となったのだって。
桜井さんは明治になると尼崎藩知事になり、廃藩置県で免職になると、東京に移り住み、子爵となったそうだ。亡くなったのは48歳の時。
学問の神様として契沖も祀られていた。
神社の北側には契沖生誕比定地があったから、その関係でかな。
契沖は江戸時代のお坊さんで、国学の祖といわれる人。前に父鬼街道歩きで行った和泉市には、蔵書が豊富だったので契沖が滞在して読んでいたってところがあった。
父が尼崎藩士だったみたい(その後、浪人に)。
桜井神社の東の鳥居から出ると、「密輸ダイヤル○○」とかのポスターが貼られていた。尼崎税関支署だった。
休憩の前に、開明橋交差点に戻り、少し西に行ったところのパン屋でパンをゲット。
開明橋でまた庄下川を渡ると、南に桜井神社、北には図書館で、図書館はちょっとお城みたいないでたちだった。そしてその奥では工事が行われていて、なんとお城が建てられていた。
中には入れないようになっていたけれど、お城はほぼ姿ができあがり、濠もあって、鳥もすでに住み着いていた。
ここが城跡公園だったみたい。そして今、尼崎城を復活させるプロジェクトが行われているところなんだって。
休憩するつもりが工事中で立入禁止なのは残念だったけれど、尼崎市も歴史に力を入れているんだなあとうれしかった。
後で尼崎駅近くのポスターで見たことには、家電量販店(今はないミドリ電化)の元社長が城を建てて市に寄付すると申し出たらしく、個人の力で建てられていたみたい。総工費10億円だって。
駅の北側に公園を見つけて、そこで休憩してパンもいただいた。
公園から上がっていける階段があって、帰りはそこから駅に向かった。
階段の上は寒いけれど、ここにもベンチや東屋があって、暖かい日には素敵だろうなと思われた。
駅そばでたい焼きが70円で売られていたのも印象的だった。庶民的なところなんだろうな、尼崎って。