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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
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西国街道を大石まで

そして5月のある日、西国街道の続きを歩きに行った。

西国街道は西に、住吉駅あたりまで歩いていたから、続きは住吉駅からでもよかったけれど、阪急電車神戸線の岡本駅から出発することにした。

もうすっかりおなじみになった阪急電車。途中停車する十三駅も、もう何度目だろう。

そして丘に建つ岡本駅の改札を出ると、すぐ右折して西に。日当たりのいい丘に石畳の道、そこにおしゃれな建物と樹木。ちょっと古いくらいの建物が味があっていい。合間にかわいいお店なんかがあり、2階を見ると、こてこての昭和の家だったりするのだけれど、改装で岡本らしさを演出していた。駅近でも「イノシシ注意 餌付け禁止」の張り紙があった。

中島橋で小さな川(天上川)を渡った。

駅でおおぜいの学生たちが降り、一緒に歩いてきたけれど、このあたりで別れた。そういえば近くに甲南大学があった。

道は上りになり、途中で阪急電車の北側に移動して、西に向かった。線路の北側にあるオオヒルメ尊神社に行きたかったから。

阪急の高架の横でスズメが死んでいた。カラスノエンドウが実をつけていた。

そして大日女尊オオヒルメ神社が現れた。

オオヒルメって一般的にはアマテラスのことと言われているらしいのだけれど、どうなのだろうと思っていて、ここに来たいのもあって岡本駅で降りたのだった。

来てみれば、ここの大日女尊神社は、元は大日堂だったそうだ。大日如来を本尊としていたのだって。

明治時代、神社には神を、寺には仏をと分けて祀りなさいとなるまでは、神社も寺も曖昧だったのだろうな。けれどはっきりさせないといけなくなって、ここには大日女尊を祀っていますってことにした。「大日」つながりでかな。

江戸時代、キリスト教が伝わった時、人々は、語られる神を大日如来と勘違いして信心していたとかって話をきいたことがある。伝道師の語るGODは多く「大日」と訳されていたのだって。

ここでは「アマテラス←オオヒルメ(大日女)←大日如来」。元は大日如来を祀っていたってことだったけれど、もしかしたらその元はGODだったりして、なんて思った。

津門神社(ツト、ツヌと呼ばれたところ)は、元はクレハ・アヤハが信じていた大日如来を祀っていたってことだったけれど、それも実はGODだったってことも・・・ありえなくはないのかも。

二人が日本にやって来たのはたぶん5世紀の頃。キリストが生まれて500年が経とうとする頃で、世界中に信者がいたかもしれない。

クレハ・アヤハが信者だったなら、近く(二人が住んだ池田市の秦郷)で養蚕や機織りを行っていたのかもしれない秦氏の間でもまた、信者が増えていったのかも・・・。

たとえば、和泉のツヌコリの末裔と渡来人が一緒になって、秦氏として広がり、一部の人々はクレハ・アヤハの大日を信じたのだったりして・・・。


水神宮の碑があった。近くの弓弦羽神社でも見た。水車仲間のいた頃の名残りなのだって。

昭和13年、山津波でここも被害を受けたってことだった。山津波って、大雨による土石流のことだろうな。

ものすごい大雨で、河川は氾濫、いろいろなものがズタズタに切れ、一帯が泥沼と化したのだって。神戸大水害と呼ばれ、死者も500人以上。神戸って、神戸大水害、空襲、阪神淡路大震災と経て、そのたびに復興してきたところなのだって。

神社の西側の道を南下して、阪急の下をくぐって下り道を行くと野寄公園。「有備無患」と書かれた大きな碑があった。山津波の教訓を村長の名で彫ったものだった。

消防車のサイレンが聞こえてきた。坂の上と下とで。

公園の南側は墓地だった。おしゃれなイメージの岡本だけれど、ここも元は普通の村落だったのだろうな。

すぐの広い道(山手幹線)まで南下して西へ。住吉川を水道橋で渡った。前回は、このもっと北側の高台の川沿いを歩いた。下流のこのあたりでは、大きな川だった。


住吉川東緑地があり、室ノ内交差点へ。ここを左折して下り道を南下。前回も通った商店街だったけれど、この日は定休日なのかほとんどのお店が閉まっていた。そして商店街の名が「ありまみち商店街」なのに気がついた。だんじり祭ののぼりがあがっていた。

そのまま進むとすぐJR住吉駅(の西側)で、西国街道の続きを住吉駅の東側から歩くつもりだったから、駅の北側を通って東に進んだ。

駅ビルには大きなスーパーが入っているようで、その向かいには駐車場があった。この間の道を歩いていったのだけれど、駐車場は大きなおうちかなにかが建っていたところだと思われた。

駅の東側の古そうな地下道で駅の南側に。コープの建物があった。このあたりではコープをよく見た。なんでも神戸はコープの発祥地であるらしい。

大正7年、米騒動勃発。戦争特需などで好景気で、ものの値段がどんどん上がる中、お米の値段はまあまあ安定していたんだって。けれどお米でも大儲けしようとする人々がいて、買い占めなどが起きた。まだ○○禁止法とかもなくて、お金持ちがやりたい放題だったのね。全国の市民は怒り、騒動勃発。悪徳とされたお店の焼き討ちなどが行われたのだって。

翌年、神戸では川崎造船所の工員たちにより、適正価格で生活必需品が買える組合の計画がたてられたそうだ。元実業家の富豪や大物社会運動家、賀川さんの助けもあって、スタート。

賀川さんは、かつては世界でガンジーやシュヴァイツァーと並んで聖人と称された人だったらしい。その若き日に、コープ創成期を手助けしたんだな。実業家のお妾さんの子で、幼い時に両親を亡くし、自らも結核になるなど苦労した。キリスト教信者になり、神戸新川のスラムに住み、貧民救済に尽くしたのだって。

アメリカ留学の後、コープ立ち上げに協力。

牧師でもあり、政治家でもあり、作家でもあって、有名な人だったらしい。けれど時代が時代だけに古い考え方、ものの捉え方もあって、忘れられていったのかな。わたしが知らないだけかもしれないけれど。

神戸にもかつてはスラムが多くあったのだって。

番町(長田)や、湾港では新川(葺合)。今の南本町通あたりだそうだ。湾港ができ、あちこちから貧民層が流れ込んできたのだって。そして「東洋一のスラム」とまで呼ばれていたらしい。


2号線(住吉東町5丁目交差点)を過ぎ、次の信号を右折して西へ。ここ(パークロード)が西国街道。下り道で、左手には前回寄った住吉神社が見えていた。

パークロードというだけあって、住吉宮町公園、次には住吉公園が現れた。うはら祭の案内があった。

前方にはタワーマンションが1つそびえていた。ケルンの会社があって、御影中町に。

左手に御影駅(阪神本線)のある辻にはパン屋ケルン。北への上り坂は御影坂。

神戸にはケルンが多くて、地元の人もけっこうケルンの袋を持っていて、わたしたちもここでパンをゲット。

御影駅の南側に「沢の井」があるらしくて、ここで左折して、高架をくぐっていった。すぐに右折して、高架下を西に少し進んでいった。

高架下にもお店があって、JR環状線の下みたいな雰囲気だった。御影っておしゃれで高級なところというイメージだったけれど、駅周辺は思いきり庶民的だった。

山の手には、大阪のお金持ちたちが邸宅を構えるのが流行ったから豪邸が建ち、高級なイメージがある。高級なイメージが先行して、高級感を意識した人々が移ってくる。

けれど元は湾港の労働者なども多く住む、普通に貧しい村だったんだな。

すぐが沢の井だった。神功皇后が芦屋の浜辺より○○(削られていて読めなかった)の御船を出し、ここ「沢の井」に姿(御影)を映した。そこから「御影」の地名がおこったと説明されていた。

「沢の井」はかつては自然の形であったものの、第二次世界大戦で防火用水として整備され、平成7年、阪神大震災で決壊。今あるのは再現したものだそうだ。


西国街道に戻って続きを西に向かった。駅の北側は阪神百貨店などもあって、南のこてこて感は薄かった。

御影公園があり、富玉稲荷があって、ここで右折。中学校の校門前に「旧西国街道」の新しい碑があって、ここを左折して西へ。

小さな天神川を一里塚橋で渡った。一里塚橋というからには、このあたりに一里塚があったのだろうな。住宅密集地だけれど幼稚園などがあり、緑が多かった。

それから石屋川にかかる西国橋を渡った。

川の両岸は公園になっていて、ここで休憩。5月だったけれど寒いくらいのありがたい日で、西側の日当たりのいい公園のベンチでパンをいただいた。

ケルンのパンはおいしいのだけれど、わたしにはふわふわしすぎで、食べた気がしなかったな。


公園を少し歩いてみると、「火垂るの墓」の碑があった。

前に西宮のニテコ池あたりを歩いて、火垂るの墓にでてくる親戚の家あたりだというのを知った。ここも映画に出てくる何かかな?と思って調べてみた。

兄弟は神戸(御影本町)で幸せに暮らしていたのだけれど、神戸空襲でその生活が終わる。御影本町って、御影駅の南のほうみたい。

親とはぐれた二人は石屋川の横を歩いて御影公会堂へ。火垂るの墓の碑のあるところをもう少し北に行くと御影公会堂前交差点で、そこに御影公会堂があったようだった。

二人が御影公会堂の残った焼け野原を歩くシーンがあって、それがここだったみたい。その後、二人は西宮の親戚の家へ。冷遇されるようになった親戚の家を出て二人で暮らしていたのが、近くのニテコ池あたりだった。

神戸空襲のことも調べてみた。

飛行機による空爆が始まったのは第一次世界大戦から。第二次世界大戦では日本も何度も攻撃された。

最初は軍事施設を爆破する空爆だったけれど、無差別に焼夷弾メインで空襲するようになり、その実験的な空爆は神戸に対して行われたそうだ。

神戸への大空襲は3度。その他にも何度も繰り返し空襲を受け、神戸は壊滅的被害を被ったのだって。


西国橋から西国街道の続きを行く前に寄り道。橋を渡らずに、石屋川沿いを南に向かっていった。

石屋川の名は、かつて上流で御影石が採れたので石屋さんが川沿いに並んでいたことからつけられたのだって。

石屋川駅(阪神本線)すぐの高架の下をくぐると、酒倉マップがあった。ここは東灘区で、酒処だった。

これまでにも、酒造で栄えたとかいうところをいくつか歩いた。天野山の金剛寺、摂津富田、伊丹、池田。

お寺でつくる僧坊酒が人気を博したのは室町時代。猪名川や武庫川などの流域でも酒造りが行われた。摂津富田の紅屋、池田、伊丹など。江戸時代、その中でも人気になったのが池田と伊丹。けれど灘五郷に追いつかれ、追い越されてしまったそうだ。

近くの御影の「沢の井」には、この水でつくったお酒を仁徳天皇に上納して、たいへん喜ばれたって話もあった。

灘五郷のうちここは御影郷。他は神戸の魚崎郷、西郷(沢の鶴など)、西宮の西宮郷(日本盛など)、今津郷だって。

御影が中心地で江戸時代に栄え、西宮郷と今津郷は、灘に入った方がお酒が売れるというので、明治時代になって灘に加盟(?)したんだそうだ。

御影郷の酒蔵は有名どころでは、菊正宗、剣菱、白鶴など。

最初の信号で右折。前方には住宅地の中、左手に緑が見えていた。行ってみると、東明八幡だった。竹内宿禰の創建と伝わるんだとか。

三韓征伐に向かう神功皇后の勝利を願って、竹内宿禰がここに松を植えたのだって。そして後に応神天皇を祀る祠を建てたのだそうだ。松は明治時代の頃まであったのだって。

このあたりは「遠目の里」と呼ばれていて、そこから「東明とうみょう」になったと伝わるそうだ。

高良宮こうらぐう厄除」とか書かれていた。境内の高良宮に祀られるのは竹内宿禰で、竹内宿禰は古くから厄除けの神様の扱いなのだって。八幡神社が厄除けの神さまになっていることがあるけれど、それも本来は一緒に厄除けの竹内宿禰が祀られていたかららしい。

石仏もいくつか祀られていて、大日如来もいた。


地名は御影塚町で、そばには処女おとめ塚交差点があった。処女塚古墳が交差点に面してあり、ほぼ四角に切り取られて、公園になっていた。

全長70mの前方後方墳で、4世紀前半のものと思われるのだって。古墳全体が公園のようになっていたけれど、他には誰もいなかった。横の車道を車がごうごう走っていたけれど、なんだか静かだった。

上に上がっていってみた。上に立つと、山が近かった。山に抱かれている感じがした。

近くには西求女もとめ塚古墳、東求女塚古墳もあるのだって。

ひとまず寄り道はこれで終わり。

西国橋まで戻って西国街道の続きを歩いてもよかったのだけれど、一帯は住宅街になりすぎていて、歩いていてそう楽しいところでもなく思えた。

処女塚交差点を北上して、阪神本線を越えて、最初の信号を左折。ここから西国街道の続きを歩いていった。

地名は記田町、それから友田町に。住宅が続いて、散歩には面白くない道だった。左手に新在家駅(阪神本線)が現れた。

烏帽子公園、烏帽子中学を過ぎて右折。中学校の校門前には烏帽子地蔵がいて、ここを左折。旧道は全く残っていなくて、だいたいこのあたりだろうって道を歩いていくしかないのだろうな。地名は烏帽子町から鹿ノ下通になった。

どちらも由来の気になる地名だったけれど、どちらも地形によるものだろうということみたい。

このあたりは住宅密集地だったけれど、花好きな人が多いのか、緑が多くて、なかなか素敵だった。

下河原橋で川を越えた。水遊びもできる川だった。

川沿いには都賀とが川公園があって、すぐ南には大石駅(阪神本線)。

川は、都賀川とか大石川とか呼ばれているのだって。一帯はかつて「都賀野」と呼ばれていたそうだ。漢字は違うけれどトガってよくある地名だな。兎我野とか栂とか。

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