長洲
左手に緑道風のところが現れて、ここで左折。
歩道橋のある信号に向かっていったのだけれど、この右手には古い長屋が連なり、独特で面白かった。
道は複雑に分かれていたし、このあたりで川が分岐していたとか、池があったとかかな。地名は長洲東通だった。常光寺の西隣。
信号を右折。尼崎工業高校前交差点で長洲線(県道74号尼崎停車場線)と交差。そのまま進むと右手が高校で、「全国大会出場」と、いろんな部活が書かれていた。
そして「海抜0.1m」とあってびっくりした。このあたり一帯も、川や池の湿地帯だったのだろうな。それで複雑な道もあって、地名も「尼崎」「長洲」とかなのかな。JR尼崎駅の北側には「浜」とか「塩江」とかの地名があるし、「難波」も。
高校を過ぎたところで左折すると右手に小さな公園があって、この手前を右折。道なりに進んでいった。
すぐの四辻で左折。
直進の道も古そうでちょっと進んでいってみたら、古いおんぼろの家々とかがあって、独特な感じのところだった。
左折の道を行くとすぐ大門厳島神社が現れた。詳細は不明。
周囲は古そうで、貧しい小さな古くからの村だった感じがしていた。今は新しい家もいっぱい建っているけれど。その名の通り低湿地で、長い「洲(河口部などにできた島の部分かな)」だったところかなって感じがした。
元々長洲浜と呼ばれたあたりなのかな。大阪湾に面し、猪名川と神崎川が合流してすぐ海に注いでいたあたり・・・かな。後にその南が陸地化していって「大門浜」となり、さらに南に陸地化していって「尼崎浜」となったらしい。
「大阪湾や広い淀川や、淀川の支流なんかで島だらけだった難波八十島の時代」というのはこのあたりも同じで、そこに土砂が堆積してどんどん陸地化していったんだな。
尼崎は平安時代も終わるころになって新たにできた土地らしい。「あま」は今でも「海女さん」というように、海の民、漁民のことをいったんだって。
もう少し南下するとすぐ公園みたいになった緑道(大門川緑地)に出た。緑道は東西に続いていて、ここを大門川が流れていたのを埋め立てたのだろうな。
近くには長洲川緑地もあるようだった。もう少し南に。
ここを右折。左手に長洲連合福祉会館があって、小さな公園になっていて、「尼崎」と入った古い道標があった。「犬の散歩はみんなの迷惑です。やめましょう」と書かれてあった。
会館を過ぎてすぐの四辻で左折して、南下していくのが中国街道のようだったけれど、寄り道。
このまま西に進むと吉備彦神社なんかがあって気になったので、そのまま直進していった。南の一帯が面白そうなところだった。長洲って、長い道が多いように思った。カーブした面白そうな旧道があって、そこに長屋などがずっと続いていた。
長洲本通2丁目交差点でバス通りに出て、左手に神社が見えた。
長洲天満宮だった。創建については不詳。玉垣には鴻池さんなんかの名前も連なっていた。
神社の隅には「菅公足洗之池」があった。水はほぼなかったけれど。近年、改修したらしい。
菅公は菅原道真公。天満宮に祀られる人ね。大宰府に左遷されて行く途中、大物が浦で潮待ちで下船し、長洲の里に散策にやってきたのだって。大物浜の向こうが大阪湾だった時代ね。
菅公の足が砂で汚れてしまい、里の老女が見かねて足を洗ったのが、ここだったのだとか。
神社の東側が面白い一帯だった。きれいな旧家がきれいに並んでいた。すぐ横のおうちは登録文化財になっているようだった。
西のバス通りを渡ったところにも鳥居が見えていた。
横断歩道があったけれど、車は全く止まってくれなくて、車の流れが切れるのを待って渡るしかなかった。
この日歩いた尼崎のあたりは、神社には「賽銭をもっていかないで」「煙草を捨てないで」、通りには「ひったくり多発」とかいろいろな文言が目について、車は止まってくれない・・・というところだった。
やっと渡った先の鳥居のある一角には、小さな五輪塔なんかがずらりと並べられていた。
ずらりと並んだその1つ1つにきれいな花が供えられていた。
開発でここに集められたか、長洲天満宮にあったのを神仏分離でここに集められたか、その両方かな。
鳥居の左側の道をそのまま西に向かっていくと、このあたりでは珍しく高台になったところがあり、そこに神社があった。吉備彦神社だった。
地名は金楽寺で、金楽寺貝塚の説明があった。平安時代前期から中期の貝塚が見つかったのだって。「長洲御厨以前の長洲浜の発展が分かる遺跡」と説明されていた。
「御厨」というのは、伊勢や賀茂の神に供える食べ物を用意するところ。長洲一帯は奈良の東大寺や京都の鴨社(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)の荘園(長洲荘)だったそうだ。鴨社(賀茂の神)に供える魚も用意していたことから長洲御厨とも呼ばれていたのだって。
吉備彦神社の祭神は吉備真備。奈良時代、遣唐使として唐に渡ったこともあり、橘諸兄とかに重用された人だな。遣唐使から帰ってきたとき、この地に錦楽寺を建て、唐から持ち帰った土を埋めたのだって。
金楽寺の地名もそこからきているのだろうな。そしてその跡地に吉備真備が祀られたのかな?
吉備真備は吉備氏で、岡山の吉備津彦(7代天皇の息子)の子孫とされているそうだ。更に子孫に加茂氏がいて、安倍晴明の師匠なのだって。
吉備真備もまた陰陽師だったそうだ(というか、日本での陰陽道の開祖とも呼ばれているんだって)。子孫に加茂氏がいる云々の話はよく分かっていないことのようなのだけれど、吉備にもかつて加茂郡があって、加茂氏も多かったらしい。
もう少し続きを歩き、西に進んでいった。右手に長安寺。
左手に八幡公園が現れて、その奥が神社だった。
西長洲八幡神社だって。ここは仁徳天皇のときの創建と伝わり、三男の履中天皇がここで禊を行ったのだって。いやはや、いろんなことのあったところだな。法道仙人、吉備真備、空海、菅原道真もやって来て、南北朝の戦いや戦国時代には戦場に。そして古墳時代にも・・・って話だ。
けれどここは空襲で燃えてしまったそうだ。
吉備彦神社から西側は、東側に比べて古さが感じられなかった。道も区画整理されたようできちんとしていた。空襲で燃えてしまい、新しくつくり直されたあたりなのかな。
西への寄り道はここまでにして道を戻っていった。長洲連合福祉会館の道標(右 尼崎 大阪)を右折。このまま南下していくのが中国街道だけれど、あともう一か所、ここで寄り道。
右手の称佛寺を過ぎて左折。ここには長洲貴布祢神社があった。
長洲御厨(京の鴨社の社領)と関係の深い貴船社の分社で、西本町の貴布弥神社の元宮と思われるってことだった。
寄り道した西長洲八幡神社、吉備彦神社、長洲天満宮、貴布祢神社と、ほぼ一直線上に東西に並んでいた。
「長い洲」だったところに並んだのかも?とか思った。