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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
39/42

西国街道を元住吉まで

そしてまた西国街道の続きを歩きに行った。

西に向かって西国街道は、前回は阪神電車の香櫨園駅まで歩いていた。その続き。

阪神電車で香櫨園駅に向かった。やっと少しずつ分かってきていた。大阪から西に向かってJR、阪急(神戸線)、阪神(神戸線)が三ノ宮に向かって走っていて、一番北の高台を走るのが阪急電車、一番南の低地を走るのが阪神電車、その間を走るのがJR。

阪神電車が走るのは、昔は海岸線だったあたりなのだろうな。

香櫨園駅の改札を出ると、すぐ前方には「園櫨香」と書かれたレトロなプレートのようなものがあって、香櫨園について説明されていた。

明治40年、大阪の香野さんと櫨山さんによって遊園地がつくられ、二人の名をとって香櫨園と名づけられたのだって。合わせて鉄道駅もつくられた。かつて遊園地は、今みたいに子どものためのものじゃなく、大人のための映えスポットだったみたいで、そんな時代の遊園地かな。

香櫨園は大正2年に廃業したけれど地名は残り、駅舎も平成5年までは当時のものが使われていたそうだ。

駅舎を左(北)に出ると、前回休憩した夙川公園だった。夙川沿いの公園は前回は桜もきれいで、人でにぎわっていたけれど、もうほぼ散ったこの日は、ほとんど人の姿はなかった。

前回、ここからてくてくけっこう遠くまでパンを買いに行った。ところが改札横の売店で、ケルンのパンを売っていた。ここで買えばよかったんだな・・・。

駅舎を右(南)に出て、すぐ右折。西に向かっていった。線路沿いの道で全然面白くない道だった。すぐ南には阪神高速も走っていた。川西アンダーパスとあるトンネルを過ぎたところで踏切を渡って、信号を左折。

踏切の向こうに寺が見えていた。親王寺だって。地名は春日町で、春日神社があったんだろうか?

旧家もあって、天王寺谷さんのおうちをいくつか見た。天王寺谷さんの「天王寺」は大阪の四天王寺に由来するそうだ。

大きな家々が並ぶ住宅地だなあと思ったら、芦屋市だった。北側は上りになっていた。

ゆるい上り道を西に進み、バス通りも越えると、次の信号のところに大きな古そうな石碑があった。行ってみると「阿保親王廟」と書かれていた。

このすぐ南が打出駅だったみたい。そして北にずっと行くと親王塚町。阿保親王のお墓があるのかな? けれど道はきれいに区画整理されて家々が建ち並び、バスが走り、「親王塚」なんて名がそぐわなかった。

少し東に引き返して、寄り道。小さな階段のある細道を北上していった。

細い坂道の両脇にも住宅が建ち並ぶ中、右手に金津山古墳が現れた。フェンスで囲われ、鍵がされ、住宅に囲まれてよく見えなかったけれど、前方後円墳だって。

阿保親王が飢餓に備え、財宝を埋めたという伝説があるらしかった。松原市の阿保もそうだったけれど、ここも阿保親王に縁があるところらしい。そして敬愛されているのだろうな。


こんな都会になったきれいな町だけれど、元は古墳があり、昔には阿保親王がいて、池も多かったところなのだろう。

上りの細道がとぎれ、左手の道でもう少し北上すると、打出天神社だった。丘になったてっぺんあたり。

そばにはかわいい小さな雑貨屋や、つたのからまる建物なんかがあって、その後方には山々が見え、雰囲気のあるところだった。

神社の境内には「打出にふさわしい打出の小槌」云々の文言があった。地名が打出だから、「打出の小槌」をもってきたかな?と思った。

神社について詳細は不詳らしい。天神社とあって、祭神は菅原道真。

西国街道に戻り、西に向かっていった。すぐに打出公園があった。公園には檻があった。空っぽだったけれど。かつては小動物がいて、「おさる公園」と呼ばれていたのだって。

地名は打出小槌町だった。そんな地名だったのか・・・。

一帯は神功皇后の頃から「打出」と呼ばれていたんだとか(一説には)。古くには兎原郡打出だったあたりらしい。一寸法師のお話にある「打出の小槌」の「打出」は地名だったんだな。「柏原のワイン」みたいな。その打出がこのあたりだというので、「打出小槌町」となったらしかった。

浦島太郎のお話には「玉手箱」がでてくるけれど、それも「玉手」の箱だったなら、おもしろいな、と思った。地元の帝塚山古墳は浦島太郎の墓なんて言われていて、近くには玉手(玉出)があった。

このあたりはすっかり区画整理されて市街化し、旧道は全く残っていないようだった。古い屋敷なども元はあったのだって。けれど阪神大震災で倒壊し、姿を消したらしかった。

芦屋市だけあってなんだかお上品な町だった。「空き巣お断り!!」だって。


川を西国橋で渡った。川の手前に白露地蔵がいた。江戸時代からのもの。川は宮川。下流に金毘羅が祀られていたとかで。古くは呉川などとも呼ばれていたらしい。

地蔵の新しい石に「タルア・・・」と、カタカナで彫られているのがちょっと珍しかった。

そのまま西に向かうのが西国街道だったけれど、その前にまたちょっと寄り道。右折して北上していった。

国道2号線(上宮川交差点)を過ぎて、宮川文化センター前で左折。

照善寺があり、その奥に阿保天神社。照善寺は新しく見えたけれど、江戸時代の創建だそうだ。元は辻本道場なる道場(説法をするところ)だったらしい。

阿保天神社も新しかった。周囲をコンクリート塀で囲まれ、唯一の出入り口から入ると、町の駐車場のようになっていた。

奥に拝殿があるのだけれど、人の姿はなく、けれどその割に広い駐車場には車がいっぱいで、車の間を抜けて拝殿に行く感じ。阿保親王を敬愛・・・というのも昔の話なのかな。

ここも、先に行った打出天神社と同じく、詳細は不詳だそうだ。祭神は阿保親王と在原業平、菅原道真。

在原業平は柏原市でおなじみになった人。阿保親王の息子で、祖父は平城天皇という、やんごとなき殿方。けれど祖父は天皇を引退した後で再び天皇に返り咲こうと画策したから、その息子も孫も、変に目をつけられないよう、政治とは距離をおいて生きたのかな。在原業平は、変わりに風流に生き、いろいろと浮名を流した人。

阿保親王は打出(芦屋浜)に住み、842年10月22日、芦屋の里で51歳で亡くなったのだって。その館の跡が親王寺といわれているそうだ。

そして阿保親王の墓と伝わるのは、親王塚町の東、翠ヶ丘町にある古墳。宮川を少し遡ったあたりにあるみたい。けれど実のところはこの古墳は、4世紀後半の古墳なのだって。

「詳細は不明」が多くて、ミステリアスなところだった。そして被差別部落だったあたりのようだった。


西国橋あたりに戻り、西国街道の続きを西に向かった。

芦屋って、ベンチの置かれたちょっとした公園が多かった。緑もあって、いい雰囲気を醸していた。

宮塚町から茶屋之町に入ったあたりで右手に分岐する道へ移っていった。この短い部分だけ、旧街道の感じの道が残っていた。今では民家が建ち並んでいたけれど、かつては茶屋が並んでいたのかな。

車道を過ぎてもまだもう少しだけ旧道が続いた。

それから小さな階段があって、ここでこの道も終わり。2号線に合流した。少し北にはJR芦屋駅があるという地点だった。右手(北)は山手で、上り坂の向こうは素敵な感じだった。

ここからは広い2号線を歩いていった。

左手にはクラーク高校。各地にあるみたい。

それから右手に「ビゴの店」。ちょっとここに寄ってみた。わたしは外で待っていた。おかあさんは、お高くてびっくりしたって。芦屋価格なのかな? ちょっと買っても500円をすぐオーバー。家に持ち帰ったフランスパンに分厚いモッツァレラチーズをはさんで食べたらおいしかった。

ビゴさんはこの前年に亡くなったということだった。ドイツ占領下のフランスで生まれた人らしい。お父さんもパン職人で、子どもの時から手伝っていたそうだ。戦後日本にやって来てパンを焼き、そのおいしさでフランスパンを日本に広めたのだって。

すぐの芦屋川を渡った。橋の名は業平橋で、川沿いの公園は業平公園。在原業平が芦屋に住んでいたという言い伝えによるものだそうだ。

このあたりは大きな住宅が多かった。ご飯やさんは、昼のおまかせコース1万円だって。芦屋だ・・・。

2号線の左手で工事をしていた。大きなマンションが建つのかな。施工者が銭高組だった。高石あたりで表札を見たことのある銭高。

業平橋を渡ってからも2号線をてくてく歩き、前田町、清水町と過ぎた。このあたりはおしゃれな感じと昭和な感じが一緒くたになっていた。

元は庶民的なところだったのだけれど、芦屋って名前で箔がつき、だんだん高級化していっている、という感じ。若いお母さんたちはおしゃれな感じをかもし、「よかれと思って言ったのにね~。困っちゃうわ」みたいな話をしていた。

左手に津知公園があって、パンをここでいただこうかと向かっていった。ところが犬はNG。

小さな公園なら時々あるけれど、この規模の公園で?とがっかりだった。子どもが遊ぶから犬は入れないでほしいわ、とか、よかれと思って言った人がいたのかな。

芦屋ってそういうイメージになった。


公園の少し西側には日吉神社があった。寄ってみると、狛犬じゃなく、サルの石の像がいた。弁才天も祀られていて、周囲はちょっとした池だったようなのだけれど、水は一滴もなかった。

ここの「金石文(石や剣などに刻まれた文章)」は1520年のもので、市内最古のものなのだって。

神社の西側には地蔵がいた。このあたりも大震災で被害が甚大だったらしかった。それでリニューアルされたのだろうな。津知緑地なる短い緑道を北上して2号線に戻っていった。

2号線(西国街道)を西に向かうと、道は下っていき、帝塚山から粉浜に下りていく感じに似ていた。

芦屋市から神戸市へ。いっきに庶民的になっていった。お高い芦屋から、坂を下るにつれ庶民的になっていくのが面白かった。

右手に大きな鳥居があって、交差点の名前も赤鳥居前。鳥居の向こうには山と住宅しか見えなかったけれど、森稲荷神社なる神社があるようだった。

次は籾取交差点。面白い名だったけれど、まったくおもしろくない道だった。ただの市街地の幹線道路。小さな川を要玄寺川橋で渡った。この川を山側に行くと要玄寺や小路八幡宮があるみたい。

このあたりでは、山側の阪急沿線のほうが面白そうだった。

阪神・淡路大震災では、JRより南側の被害が特にひどかったのだって。震災で壊滅的被害を受け、復興でリニューアルされていて、そこを西国街道は歩くから、散歩には面白くないところになっているのかな。面白いとか面白くないとか、まったく勝手な言い草だけれど。

小路西交差点には国道地蔵なる大きな地蔵がいた。ここも震災で倒壊。それまで交通事故の犠牲者のための地蔵だったけれど、震災犠牲者のためにも新しくなって立っているそうだ。

三宮まで10kmとあった。少し北側にはJR摂津本山駅があるようだった。

小さな天井川を渡った。すぐの田中東交差点には三王神社があった。横には田中地車庫。震災前にはもっと古さがあったのだろうな・・・。このあたりにも地車庫があるんだな、と少し驚いた。神戸も、特に東灘区はだんじりが盛んなのだそうだ。

もう少し先で右折して、すぐ左折。しばらく2号線でなく、この一本北側の道を西に歩いていった。また2号線に戻っていくのだけれど、その少し前に「くび地蔵」がいた。

「お参りすると首に効くお地蔵さん」かと思いきや、そのものずばり「くび地蔵」。顔だけが祀られてあった。祠の中にお地蔵さんが首上だけの姿でいて、しかも大きめで、でんと迫力がある。ちょっと忘れられない感じ。

道は2号線に合流し、川を越えた。橋は住吉橋、川は住吉川。

上を走る小さな電車の下を通った。六甲ライナーだって。

近くの消防署から救急車が出動するところで、サイレンの音が大阪と違っていた。

東灘区役所があって、左手にはうはらの湯。このあたりも元は兎原郷だったのだろうな。右手にはJR住吉駅があったみたい。

東灘区も、震災で甚大な被害を受けたところのようだった。神社や地蔵もいて、だんじりも盛んな東灘のかつての姿はどんなだったんだろう。


もう少し行くと住吉交差点で、ここにもと住吉神社があった。

神功皇后が住吉三神を祀ったのは住吉大社、今の大阪市住吉だとされているけれど、本当はここだとも言われていて、神社も「本住吉」を名乗っているらしい。

神功皇后と一緒に三韓征伐に出た住吉三神。帰って来ると、その荒魂は穴門(長門)に、和魂は大津渟中倉長峡に祀られたのだって。その「大津渟中倉長峡」がここ住吉か、大阪の住吉かであるらしい。

広田神社に行って知ったことには、神功皇后によってアマテラスの荒魂が広田神社に祀られ、同じくして住吉神社、生田神社、長田神社が祀られたらしい。

住吉神社が今の住吉大社なら、1つだけちょっと離れているなあ、神戸の住吉神社ならわかるけど・・・とも思った。けれどちょっと離れていても、別に不思議ではないようにも思う。みんな大阪湾岸だし。

どちらにしろ、住吉大社(大阪)にも住吉神社(神戸)にも、海に関わる同じ一族がいたのじゃないかな。

それとも、元々大阪湾にいた一族に、神功皇后が倒した忍熊王が港としていた大阪の地を、与えたとかかもしれないな。

それが、七道にいた、後の津守氏(住吉大社の社家)だったのかも。

今回知ったことには、三韓征伐に向かうとき、住吉神を祀って同行したのはヨサミさん(天皇の子孫)だったのだって。

前に行った庭井(大阪市住吉区)には大ヨサミ神社があって、ヨサミ氏が住んでいたとされていた。そこは住吉大社にもほど近いところ。

たとえばだけれど、住吉神を祀る海の民をヨサミさんが味方に引き入れ、神功皇后の船団に同行させた。帰り、忍熊王の反乱があって、住吉神を祀る海の民は、反乱を抑えるのにも活躍。神戸の住吉神社あたり、大阪の住吉大社あたりももらい受けた、とかってことはないかな。


住吉神社にはずらり並ぶ○○地区と書かれた地車庫があった。元は田中地車庫みたいに各地にあったものが、諸事情で集められたとかかな? 全体的に新しい感じのする神社で、それも大震災の影響なのかもしれなかった。

西国街道を歩くのは、この日はここまでと決めていた。

後は寄り道しつつバックして、阪急岡本駅から帰る予定にしていた。

神社そばの住吉交差点から北上していった。もっと山の方、阪急電車沿線あたりを東に、岡本駅まで戻るつもり。

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