能勢街道と多田神社
国道173号線の西側を猪名川が流れ、その向こうにはブラウンの列車が2両で走っていた。
山の間を走り、小さなトンネルが並んでいるのも見えて、かわいかった。能勢電鉄妙見線だって。
明治の時代、妙見山への参拝や物資輸送を目論んで計画された路線らしい。物資は三白三黒と呼ばれたのだって。三白が酒、米、寒天。三黒が炭、黒牛、栗。
今では阪急電鉄の子会社で、車両も阪急のものらしい。宝塚線の川西能勢口から妙見口へ。途中の山下駅から分かれる短い日生線もあるらしかった。日本生命主体でつくられた日生ニュータウン(伏見台、松尾台、美山台、丸山台)に行けるのだって。
途中で173号線に歩道がなくなり、かわりに独立した歩道が分岐。その横に上りの車道があり、ここを上っていくと古江古墳があるらしかった。えっさほっさと上っていってみた。けれどよく分からなかった。
ここもよくあるように、個人宅になっているとかなのかな。
さらに上は新興住宅地になっているようだった。見える猪名川の向こうも新興住宅地だった。
173号線に戻り、横の独立した歩道を行くと上り坂になり、それから下りになった。横山峠を越えた感じかな?
本当の横山峠はさっきの古江古墳をめざして上った道をそのまま道なりにつきあたりまで行ったあたりらしかった。能勢街道はそこで横山峠を越えて北上。けれどもう旧道はほぼなくなっているみたい。
このあたりで大阪府池田市から兵庫県川西市に入ったようだった。池田市伏尾はこの北東のあたり。
信号(多田桜木1丁目交差点)の手前で右に分岐する道に入っていった。道なりに進むと能勢電の鼓滝駅だった。
駅の南側は山で、その上はニュータウンらしかった。
けれどかつては滝もある山で、そこに横山峠もあったのだろうな。鼓を打つように音をたてて落ち、鼓滝と呼ばれたのだって。
こんな辺鄙なところには住む人も少ないと勝手に思っていた。「辺鄙なところ」と勝手に決めていた。ところが新しい大きな集落ができあがっていた。びっくりした。中心地から遠いというだけで、電車のドアを出たら都会の続きだ。
駅の北側の信号で右折して踏切(吉田街道踏切)を渡り、駅前の商店街に寄り道をしてみた。
細い車道の両脇に店がある商店街で、ちょっと危なっかしかった。こんなに人が住み、車の通りも多くなるとは思わずに、細い旧道をそのまま車道にしちゃったんだろうな。
すぐのパン屋「つづみ」を見つけて、パンをゲット。
4月半ばのその日、源氏祭の文字が目立っていた。突然だな、源氏って・・・と一瞬思ったのだけれど、そういえばこれから向かう多田は多田源氏のいたところなのだった。
来た道に戻り、線路沿い(西側)に歩いていった。
桜がきれいで、踏切の音がなつかしかった。
けっこうすぐに次の多田駅が現れた。ただ、多田駅って、長い。改札口までが遠かった。
川西市源氏まつりののぼりがホームにも立てられていた。改札口から西に1.2キロで多田神社だって。
ここからは能勢街道を離れて多田神社に向かい、その後は多田街道を南下していくつもり。
左折して、多田駅前交差点で173号線を越え、西に向かっていった。
このあたりで名産品のいちじくワインを売る酒屋があった。桃やいちじくが特産品で、いちじくワインも手がけているみたい。
街路樹が桜で、きれいだった。桜の季節にやって来てよかった。多田は桜の多いところだった。
途中、桜並木の土手みたいな細道と交差して、休憩できるところがあるんじゃないかと右折して、歩いていってみた。けれど桜並木が続くだけで、川も休憩所もなかった。
西側では何やら工事をしていた。
元の道に戻って少し行くと、大規模工事中のところがあって、迂回して通らないといけなかった。「塩川橋撤去工事」と書かれてあった。
西からやって来て、このあたりで南に向きを変える猪名川に、北からやってきて合流するのが塩川らしかった。桜並木は元は塩川の堤にあったものなのかな? けれど塩川のこのあたりは暗渠にして、道を拡張していっているのかもしれなかった。
ここからはずっと住宅地が続いていた。
桜なんかがあちこちにあってとてもきれいなのだけれど、休憩できる公共の場所が見つからなかった。早く休憩したいなあ(というかパンを食べたいなあ)と思いながら歩く住宅街は面白くなかった。
パン屋ブーメランがあった。人気のようだったけれど、もうパンは買っちゃったしなあ・・・とスルー。
帰りの駅(川西能勢口駅)のそばにあったスーパーマーケットに常設の物産展があって、そこにブーメランのパンも売られていた。せっかくだから買って帰った。個人的にはつづみのほうが好きかな。小さいお店ながらがんばっている感があった。
ずっと行くと地名が多田院になった。
元は多田神社は多田院なるお寺だったらしい。清和源氏の祖、源満仲が、自分の息子、源賢を僧にして開いた天台宗の寺院だったのだって。
この源賢が美女丸。津門神社近くのお寺では美丈丸と呼ばれていた人。
満仲が僧にしようとしたけれど、修行中にも非行に走り、満仲は怒って首をはねてしまえと家臣に命じた。その家臣の息子が身代わりになり、そのことを知った美女丸は改心して高僧になり、源賢となったそうだ。そして44歳で亡くなったのだって。
左手に大きな川が低い位置に流れていた。これが西から流れてくる猪名川。なんだけれど、ごつごつしている感じだった。伊丹あたりの猪名川とは全く違っていた。
また田舎めいてきて、右手に神社が現れた。多田神社だった。
川と鳥居の間にベンチが並んでいて、やっと休憩。パンをいただいた。
川はずいぶん下の方を流れていた。それでもごうごうと水音が聞こえてきていた。
川床はなんというか、噴火流がそのまま固まったみたいな岩で、ごつごつしていた。荒々しい。
源氏の人たちも見ていたのだろう川床、聞いていたのだろう川音だった。
多田神社は猪名川そばの高台にあり、参道は猪名川にかかる赤い橋のようだった。その向こうには鳥居が見えた。
橋にはピンクのぼんぼりがかかっていた。
4月14日、懐古行列のため、多田駅からここまで車両の通行規制を行いますと告知がしてあった。
源氏まつりの名物が懐古行列らしい。源氏の歴代武将に扮した人々が馬に乗って、行列になって行進するそうだ。有名人が特別参加することもあるらしい。
主役は若武者(八幡太郎義家)と3人の御前のようだった。御前は巴御前、静御前、常盤御前。
巴御前は女武者で、満仲に仕えていた人。静御前は白拍子で、義経の愛人だった人。常盤御前は源義朝の妻で、義経の母になった人。
先着順で参加料3万円で武将役ができたりするのだって。他、ゆかりの武者たちや姫たち、稚児たちも募集で集められるみたい。牛若丸&弁慶は親子のペアで募集。美女丸役の子どもも募集。
表参道らしき赤い橋からの階段を上っていった。
拝殿があり、拝殿の奥もずっと続いていたようだったけれど、扉があって、申し入れないと中には入れないようだった。
その中には鬼首洗池もあったようだった。頼光(満仲の長男で、多田を相続した)が四天王とともに成敗した酒呑童子の首を洗ったと伝わる池なのだって。
花がきれいな神社だった。桜をはじめいろんな花の咲いている季節で、椿もまた盛りだった。
ちょっと変わった椿がきれいだった。キャプテンロー(唐椿)と書かれた大きな椿は、日本で最大のキャプテンローなのだって。島津家から贈られたものなのだそうだ。
東門と西門、どちらもそれぞれに風情があった。西門、東門、あと本殿も徳川家綱の再建らしかった。
ベンチなどが置かれた休憩所があり、そこに「九頭竜伝説」「鷹狩り伝説」が絵入りで説明されていた。けれどその前のベンチにおじさんがずっと座っていて、その頭越しに読むのも気がひけてスルー。
どうやらここには「三ツ矢」にまつわるお話などが書かれていたみたい。
昔、清和天皇のひ孫の源満仲は、住吉大社に参ったとき、どこを居城とすべきか問うた。
北に向かって矢を射、その矢の落ちたところになさいと神託があって、やってみると矢(三ツ矢羽根の矢)は多田で九頭竜の体を貫いていた。村人を苦しめていた九頭竜は死に、満仲は多田に館を構えることになった。
これが九頭竜伝説ね。
そして満仲が鷹狩に出かけていた時、平野ってところで、湧き水で足の傷を治した鷹を見たのだって。天然鉱泉だったらしい。
その水は平野水と呼ばれ、後に三ツ矢サイダーとなったのだって。
これが鷹狩り伝説ね。
休憩所そばには自動販売機があって、そこには「さかのぼること平安時代 三ツ矢サイダーは川西市が発祥地です」と書かれてあった。
他にも境内には、水戸黄門手植えの銀杏などがあった。
徳川家も源氏の子孫なので、徳川家からも大勢が参拝にやって来た・・・ってことかな? 徳川家から大事にされ、西日光とも呼ばれていたそうだ。家綱が門や本殿を再建するほどだものな。
明治時代、神仏分離政策で、多田院は多田神社に。多田権現こと源満仲らを祀る神社になったそうだ。
他にも祭神には源氏の面々が並んでいた。満仲の息子で河内源氏の祖、源頼信もその一人。前に羽曳野でお墓があった頼信さんも、ここで子ども時代を過ごしたりもしていたのかな。
西門から出ていった。旧家もあって、このあたりも桜がきれいだった。




