西国街道を西宮神社まで
池田橋の少し北を、国道2号線が走っていた(東川交差点)。南には上天神橋交差点。
海岸から遠い北の方を西国街道はやってきたけれど、東側沿いに南下するここで一気に海側に近づいて行くんだな。
まだもう少し東川沿いを南下して行くのが西国街道だったけれど、ここでまたちょっと寄り道。近くの六湛寺公園に向かった。東川交差点を西に向かい、西宮市役所前交差点で左折。市役所前線を南下。このあたりは新しくて、庁舎が整然と並んでいた。
そんな中に六湛寺公園があった。
南北朝の時代、足利尊氏や後醍醐天皇の頃、このあたりに六湛寺なる大きなお寺があったのだって。それで地名も六湛寺町。
公園の東隣には海清寺があった。海清寺は足利義満の頃の開山だそうだ。無因宗因という高名な僧によって創建され、無因宗因はここで亡くなったのだって。
立派な楠が見えていた。
西宮って、桜と立派な楠が多かったな。門真みたいに。
かつてこのあたりは、西国街道からは少し離れ、寺と墓ばっかりの寂れたところだったのだって。けれど電車が走ることになり、市役所も、それまで中心地だったらしき久保町(もう少し南)から移転。
お墓は満池谷に移されたらしくて、それがニテコ池から東の名次山にのぼった北側の下り坂に見えていた桜の場所らしかった。
市役所移転にあたって巨額の寄付をしたのは辰馬さん。白鹿で有名な酒造りの財閥だったそうだ。
池田、伊丹だけじゃなく、西宮もお酒の名産地だったんだな。
西宮では西宮郷、今津郷に酒造りが多く、神戸の灘の三郷とともに灘五郷と呼ばれたのだって。このあたりはお米も水も風も豊富にあって、お酒造りに適しているらしい。
酒造りは池田、伊丹に始まったけれど、さらに運搬に便利な灘五郷に移ったらしい。港が近いから。
灘中学、灘高校をはじめ、このあたりでは酒造財閥が学校をつくったりもしているらしくて、辰馬さんのグループでも学校も設立しているそうだ(甲陽学院)。
享保の時代のものらしい海清寺の赤門の前を通って、東川に戻っていった。
そして上天神橋交差点からまた寄り道。今度は東へ向かっていった。
上を阪神電車が走っていて(すぐ西側が西宮駅)、阪神電車は右寄りに進んでいくけれど、そのまま直進。
左手に松原天満宮、右手に北向稲荷神社。その間を進み、道が2つに分かれると、左手の道へ。前方には神社らしき緑が見えていた。
新しそうな住宅地の中の新しそうな道を渡りつつ、つきあたりまで進んで右手に行くと、神社の裏口のようなところだった。
小さな門があって、ここに入っていった。高台になっている神社で、津門神社。もっと大きな神社だったけれど、周囲が住宅地になっていく中で、周辺をきり取られていったのだろうな。
このあたりはツヌとかツトとか呼ばれていたのだって。「ツヌの松原」に「ツト神社」ね。
津門はその名の通り、入江になった港の入口みたいなところのことなのかな。ツヌコリ(ツヌの王)の「ツヌ」って津門のことなのかも。
津門神社は、クレハ・アヤハがやって来た時、彼女たちの信心していた神を祀った神社なのだとか。・・・本当かな? 神は大日如来だったそうだ。
表参道は東側にあって、そちらから出ていくと坂上さんの旧家があった。
すぐそばには明星池や昌林寺があり、それぞれに説明文があったのだけれど、池には「首洗い」、寺には「頼光」が云々、とあって、少々おどろおどろしい感じがした。
「首洗い」というのは、美丈丸の代わりに首を切られた幸寿丸にまつわる伝説によるものらしかった。
美丈丸とか幸寿丸とか言われても分からなかったんだけれど、有名な話みたい。なんでも室町時代には能や謡曲になって人気を博していたらしい。だからいろんなバージョンの話があるようだった。
多田の源満仲は五人いる息子のうちの一人(美丈丸)を僧侶にしようとしたそうだ。
源満仲は清和源氏(2代目)で、住吉大社で神託を受け、多田(川西市)に行って土地を開拓し、武士団を結成して、多田源氏の祖となった人だ。息子には頼光(摂津源氏の祖)、頼親(大和源氏の祖)、頼信(河内源氏の祖)らがいる。
美丈丸は、けれどまったく修行もせずに乱れた生活を送っていたそうだ。
満仲の家来に藤原仲光って人がいて、怒った満仲は、仲光に美丈丸の首を切って、もってこいと命じた。
困っている父を見た仲光の一人息子、幸寿丸は、年のころも同じだし、姿かたちも似ているので、美丈丸の代わりに自分の首を切って満仲に届けるよう言った。
そして切腹。
後に満仲、そして美丈丸はそのことを知り、美丈丸は悔い改めて高僧となったんだそうだ。
どこかで聞いたような話・・・と思ったら、若江(東大阪市)あたりで見た「美女堂氏遺愛碑」だった。
若江に満仲の四男の美女丸が建てたという美女山薬師寺がかつてあったらしく、その子孫の美女堂さんがたてたという碑があった。
その美女丸が美丈丸ともいうみたい。
ここは、切腹した幸寿丸の首を洗った池の跡とかなのかな?
藤原仲光は今の池田市伏尾に住んだ人だそうだ。池田の北、川西市に隣接するところ。
けれどここも縁の地(多田に移るまではここにいたとか?)で、ここで息子の首を切ったのかな?
そして昌林寺は美丈丸が幸寿丸を弔うためにたてた寺(974年)と伝わるのだそうだ。
「頼光」云々とあるのは、頼光の供養塔があるからみたい。
頼光は源満仲の長男で、美丈丸のお兄さん。藤原道長に仕えた人。多田を相続して摂津源氏の祖となった。
前に行った茨木で知ったことには、茨木童子とその親分、酒呑童子を頼光四天王と呼ばれる腹心のつわものたちとともに倒したという伝説があった。
頼光四天王には渡辺綱、坂田金時らがいて、昌林寺には坂田金時手植えの木もあったそうだ。
津門神社にも頼光に関わる伝説があるらしく、津門神社と書かれた大きな石は大塚古墳にあった石棺の蓋で、大塚古墳は頼光が財宝を埋めたところ、といわれていたのだって。
古墳は今はもうないそうだけれど。
渡辺綱はあの光源氏のモデルとも言われる源融の子孫で、母の実家のある渡辺に住んで渡辺を名乗った人。
坂田金時は「まさかりかついで金太郎」の金太郎のモデルになった人。
津門神社の西側の道を南下して、つきあたりを右折。西に戻っていった。鳴尾御影線だって。
阪神電車の下をくぐり、東川を渡って、与古道公園前交差点(342号線)で左折。西国街道の横道で「与古道」だって。
すぐ六湛寺川を角之橋で渡り、正念寺を越えて右折。ここを西に向かっていった。すぐ左に阪神高速が走っていた。
札場筋線を渡ると、「蛭児大神御神輿屋伝説地」なるところがあった。
蛭児にもいろんな伝説ができていったみたいで、どこまでが本当かは分からないけれど、今までに知ったことをまとめるとこんな感じ。
イザナギとイザナミの最初の子がヒルコ。けれど2,3歳になっても歩けず、アメノトリフネ(葦舟とも)に乗せられて流され、石津に流れ着いた。
石津には、5代天皇(孝昭天皇)のとき、勅令で蛭子を祀る社殿が建てられた。
(ヒルコはオノコロ島(淡路島?)から流されて、最初に和田岬に流れ着いたという話もある。)
時は流れ、鳴尾の漁師が海から拾い上げた神像があり、祀っていた。神像はヒルコだと名乗り、西に祀るように言い、西宮神社に。
神輿で運ばれるその途中で留まって休んだところがここなのだとか。
西宮神社には芸能集団「傀儡師」がいて、全国をえびすの人形劇をして回っていたというから、その人形劇で和田岬に流れ着いたって話になったのかも、とも思う。
えべっさん筋を越えると西宮神社。何度目かだからスルー。
となりは成田山で、ここもクスノキが立派だった。
高速からちょっと離れて道なりに進んでいくと、香櫨園駅だった。
夙川が流れていて、堤は夙川公園になっていた。出発地点の夙川からつながっているところ。
最寄りのパン屋さん(遠かった)に行って、ゲットしたパンを食べつつ花見した。
それから香櫨園駅(阪神電車)から帰った。
甲子園の入場券は売り切れですとホームの電光掲示板(かな?)にも書かれてあるのが目立っていた。




