西国街道とツヌの松原
そして西国街道の続きを歩きに行った。
西には広田神社まで歩いた西国街道。広田神社はつつじで有名なのだって。コツバミツバツツジというつつじで、見頃は3月末から4月前半頃かな?
ちょうど見頃らしき4月前半だった。もう一度広田神社に行って、そこから西国街道の続きを歩こう。
阪急神戸線夙川駅(西宮市)から歩くことにした。夙川駅は広田神社に近くはなかったけれど、この年は桜が遅く長く咲いたから、桜も見つつ広田神社に向かおうと思ったのだ。
夙川駅は南口から出た。
夙川から苦楽園にかけてはパン屋の激戦区なのだって。パン屋もなかなかないようなところを歩くときにはパン屋のある場所を調べたりもするけれど、激戦区なら出たとこ勝負で、見つけたパン屋に寄ることにした。
南口すぐの橋を渡って左折すると、夙川沿いの遊歩道だった。ここに上がって、北上していった。
桜がずっと続いていた。満開の時期は過ぎていたけれど、まだまだきれいだった。人も結構多かった。
夙川は六甲山地から南に流れて行く川で、その川沿いは住宅街の中の夙川公園になっているみたい。
小さな川との合流地点がときどきあり、その2つ目(中新田川)の手前で右手の車道に上っていく階段があった。
ここを上がっていくと、遊歩道の横の夙川さくら道なる公道。ここも桜がきれいだった。堤道で、その向こうの住宅地に下っていく道が左右にあった。
左手に下り、道なりに東に向かっていった。住宅地を名次町南交差点(県道82号大沢西宮線と交差)へ。
ここからは上り坂だった。
新興住宅地の感じの高台。ここが名次山なのだろうな。
このあたりも桜が多くて、きれいだった。おうちは大きかった。地名は南郷町。
それからすぐまた下り道になり、この辺りは少し古い感じ。古い時代の新興住宅地って感じだった。
ニテコ筋と交差して、左折。
右手にはニテコ池。左手には大きなお宅(松下さん)があった。池の一部もこのお宅の私有物だったことがあったんじゃないかって感じがした。池の周囲にいろんな樹木が植えられていて素敵で、個人の庭みたいな雰囲気だった。
このお宅のあるのは、光雲荘なる松下幸之助の邸宅だったところなのだそうだ。
猪飼野の自宅で商売を始め、大成し、ここに昭和12年から2年かけて自宅を建てたのだって。その後、迎賓館として使われていたそうだ。最高の建材で最高の技で建てられていたらしく、平成になって解体され、研修所(枚方)に移築されたのだって。
そして映画「火垂るの墓」の西宮の親戚のうちもこのあたりらしい。蛍を見ていたのもこのあたりだったのだって。そのとき、そばには光雲荘も建っていたんだな。
もう少し北上していくと前に行った名次神社で、そこに至るまでには松下幸之助の名次庵もあったらしかった。大邸宅の光雲荘に暮らしたのは少しの間で、あとはこちらで暮らしていたのだって。
知らなかったので寄らず、ニテコ池に現れた橋を渡って東へ。
また道は上りになった。ここも新興住宅地だった。光雲荘があった頃には山だったのだろうな。
地名は城山で、万葉苑筋と交差。南の西田公園に万葉植物苑があるみたいで、それで万葉苑筋なのかな?
上っていくとてっぺんくらいに賽神社があった。このあたりからは前回通ったところ。広田神社からここを通って帰途についた。
賽神社手前を左折する方角には、下り道にずっと続く桜が見えた。魅力的だったけれど、そちらに行くと、広い浄水場(越水浄水場)などがあって広田神社まではけっこう遠回りになりそうだったのでスルー。
賽神社の横を過ぎてから左折していった。この道はすぐ東に向きを変えて、道なりに進むと広田神社にたどり着けた。
広田神社は広くて、境内は広田公園になっている。
公園につつじの群生がある。つつじで有名とあって、シーズンのこの日、散策する人でいっぱいだった。
そしてつつじは見事だったなあ。桜も少し咲いていて、共演していた。里山の感じのつつじだった。
広田神社はスルーした。格調高いし、犬NGだし。
大きな看板の説明を見ると、このあたりは入江になっていて、広田神社はその海岸線付近にあった神社だったらしい。ラグーンにあったっていう住吉大社と同じね。
一時は六甲(元の読み方はムコ)山もみんな神域だったっていう広田神社。それも、天野山からみんな神域だったっていう住吉大社と同じね。
表参道を南下していった。
左手の高台に桜がきれいだった。前回休憩した池のほとり。
最初の信号でみたらし川(御手洗川・東川)方面(東)に左折した。前回このあたりの御手洗川まで西国街道を歩いていたから、その続きを歩くべく。
複雑な辻に出て、ここで前方2つに分かれる道の左側に進めばよかったようなのだけれど、方向が分からなくなっていて右に進み、少々迷子。西宮中央運動公園(の北西端)の手前で左折すると、東川にたどり着いた。
五段坂のところ。前回も歩いた「広田社」と書かれた常夜灯のあるところ。
御手洗川沿いに南下していくと、途中「西国街道」の道標があった。ここからが西国街道の続き。
そのまま御手洗川沿いを進んでいった。このあたりでは、横断歩道でも車は全然止まってくれなくて、印象が一気に悪くなった。
御手洗川橋交差点で国道171号線と交差して、このまま川沿いを進むと桜もきれいだったろうけれど、西国街道はもう少し西側みたい。
右折して西へ。すぐが川原町交差点で、その次の辻で左折。ここを南下していった。
その前に道沿いの西宮中央公園でしばし休憩。ここも桜がきれいで、賑わっていた。
南下して行くと何も面白いところのない住宅街で、御手洗川沿いを歩けばよかったと思った。なんでも、昔は御手洗川沿いを行くのが西国街道だったみたい。
阪急電車(神戸線)の高架下を通り、四辻でちょっと変化を求めて寄り道してみたりした。
西に中村公園があり、中市民館があって、少し北には観音寺。でも近代的な建物で、面白くはなかった。
須佐之男神社(創建などは不詳)もあり、そばには旧家も。地名は中須佐町だった。
けれど寄り道してみてもたいして面白くはなく、やっぱり御手洗川沿いを南下することにした。
川にたどり着くと、川の向こうには神社があった。神明八幡神社だった。
このあたりで今年初めての大きなこいのぼりや、妙な地蔵を見た。祠の中にほとんど石のような小さな地蔵(?)がいっぱいおさまっていて、そのうちの1つは輪っかのあるだんごみたいな形だった。2段になっただんごの境にわっかをはめたような感じの石造物。この日、2度目に目にする形だった。
八幡神社は説明もなく、そっけない神社だった。
地名は神明町で、少し東には芦之湯と芦之湯会館が案内されていた。
このあたりはかつては芝村といい、全国水平社運動の拠点の1つとして有名だったそうだ。御手洗川の西側の中村に付随する、かわた村だったんだそうだ。
少し南下すると公園(神明緑地)があって、周りは新興住宅地だった。
公園の裏には阪神大震災のモニュメントがあり、被災時の周辺の写真があった。がれきの山と化した郵便局周辺や、仮設住宅の群れになった芦原小学校跡地。
田畑からの新興住宅地ではなくて、地震で壊滅的被害を受けての新興住宅地だったんだな。
お寺(西福寺)が見えていて、お寺だけが古かった感じを残していた。前に知ったえた寺っていうやつだったのかな。
江戸時代、どこかのお寺に属してそこの名簿に載せてもらうことが、今で言う住民登録みたいなものだったらしく、ほとんどの人がどこかのお寺に属していた。被差別民の人たちはそれ以外の人たちのお寺には属せず、被差別の人用のお寺に属していた。それがえた寺。
大きな寺社(ここでは広田神社)のそばにはたいてい被差別部落があり、被差別部落にはえた寺があったということを、散歩していて知るようになった。
元はこのそばに神明八幡神社もあったそうだ。天保の時代の創建と伝わるらしい。
この少し東の芦原町交差点あたりが芦原小学校跡で、今は広場となっているようだった。
御手洗川沿いの東岸を南下していった。川は西寄りに流れていた。
五兵橋があって、義民五兵さんの名をもらったみたい。
亀尾橋では、ここを左手(南)に行くと西宮駅(JR)だった。大きな2匹の犬が店番(?)しているリーズナブルな果物屋さんがあり、ここには大黒橋。
川の向こうには親水公園があって、素敵な感じだった。町中の面白くなかった西国街道も、南下してきて親水公園に至るらしかった。
この東あたりが 神祇官町。神祇官って、朝廷の祭祀を行う役職のことだそうだ。
「神祇」の「神」は天津神(天神)のことで、「祇」は国津神(地祇)のこと。2つ合わせて「天神地祇」とか「神祇」とかいうのだって。
そして天津神はアマテラス系(アマテラスの子孫など)、国津神はオオクニヌシ系(オオクニヌシの子孫など)のことをいうそうだ。
神祇官には卜部とかがいて、卜部は亀の甲羅を焼いたときのヒビの入り方で吉凶を占う(亀卜)役職の人々なんだって。そんないろいろいる神祇官を束ねるトップが神祇伯。
神祇伯は平安時代の頃から、長く花山源氏の一族の世襲制だったそうだ。そして皇族のように「王」を名乗ることを許され、後には白川を名乗って、白川伯王家とか白川家とか呼ばれたのだって。
白川家と広田神社は深い関係をもっていたそうだ。広田神社だけでなく名次神社も。
神祇官町はそれに関係する町だったのかな。
津田橋があって、道がぐんと低くなり、JRをくぐった。左手には小さな市場(西宮市東地方卸売市場)が見えていた。
東川交差点で国道2号線に交差した。
まだパンをゲットしていなかったので、ここを左折して西宮駅のほうに行き、見つけた小さなパン屋(歩粉)でパンをゲット。パン激戦区と聞いて想像していたほどにはパン屋はなかったな・・・。
パン屋のそばに「松原神社」と書かれた大きな灯籠があった。
「つぬの松原」「管公御休泊之旧蹟」「漢織呉織の松」「染殿池」みたいなことも書かれていた。
行ってみると、その奥には神社が見えて、松原神社だった。少々荒れていて、整備に着手したので、賛同金をお願いしますみたいなことが書かれていた。これから変わるのかな。
ここも伊丹と同じく優しい神社で、「犬のふんは飼い主の手で」と書かれてあるだけだった。
南の表参道には「松原天満宮」とあった。
道を挟んで稲荷(北向稲荷神社)もあって、ここにも「管公旧蹟」とあった。
稲荷の小さな境内の荒れた奥には水のない小さな池があって、忘れられたような説明板には「染殿池」とあった。
池田には呉羽・穴織(クレハ・アヤハ)の伝説があったけれど、異国からやって来た二人が上陸したのがムコ(武庫・六甲)だといわれていた。それがこのあたりなのだって。
近くには津門呉羽町や染殿町なんかもあった。
「つぬ(角・都努)の松原」ともあったけれど、それは広田神社でも見た。
古代の想定地図が大きく掲示されていて、入江になった海岸に広田神社があり、入江の入り口あたり、入江に向かってせりだしたところに「つぬの松原」と書かれてあった。
入江の港(武庫水門)があって、その入り口あたりに「つぬの松原」が、奥に広田神社があったって感じかな。
「管公旧蹟」とあるのは、左遷されていく菅原道真がここで休泊したからだって。伊丹の臂岡、尼崎の長洲、ずいぶんゆっくりとした旅だな。
芝村の人々は元は「池田松原神社」のあたりに住んでいたらしく、このあたりのことなのかな?
東川(御手洗川)に戻るべく、池田公園前を通って川の方向へ。
池田さんのお宅があり、橋の名前も池田橋だった。
ここは池田市と深いつながりのあるところなのだろうな。アヤハ・クレハつながりでかなんでか。
和泉の池田(和泉中央駅あたり)で知ったことには、全国の池田さんの発祥地は、和泉の池田と言われているのだって。
池田さんは伝わることにはヤマトタケルの兄、オオウス(ヤマトタケルに手足をもがれて殺されたっていう兄?)の子孫なのだって。
その和泉のかつてのドンだったのがツヌコリ(つぬの王)だった。
海の民、オオワタツミの末裔である八木さんや掃守さんも和泉を本拠地としていて、わたしはみんなで船であちこち行ったのじゃないかと想像していた。
西宮なんて、和泉の海の民にとったら庭みたいなものだったろうな。北上して行ったらムコ水門。
ツヌコリ(波太神社に祀られている)の子孫には倭文氏もいて、クレハ・アヤハがやって来るよりもっと前から機を織っていたらしいのだけれど、その倭文氏の居住地というのが、船で移動したと考えるのが妥当な分布のしかたをしているのだって。
オオワタツミの末裔たちとご近所さんだったから血族にもなり、海の民でもある倭文(日本古来の織物をする人々)となって、近所の和泉の池田さんともまた結びつき、みんな仲間になっていったのかもしれない。
オオウスの子孫というのも、和泉の有力者の娘とヤマトが手を結ぼうとした結果だったのかもしれなかった。和泉の有力者の娘がオオウスの子を産んで、それが池田氏になった、とかで。
オオウスの弟のヤマトタケルが、神功皇后の夫、仲哀天皇の父親だから、そんな時代のこと。
オオウスの子孫の一部は西宮池田に移り住んだのかもしれなかった。
そこに神功皇后の息子、応神天皇崩御の頃、クレハ・アヤハが上陸。
その頃には、ムコの港はヤマトのものになっていたのだろうな。神功皇后がムコの港に広田神社などを祀っているくらいだから。
応神天皇の息子、仁徳天皇は、アチノオミにイナの地を与え、猪名津彦の名を賜った。そこにクレハ・アヤハは住んで、最新技術の織物の技術を伝えた。
西宮池田から池田氏や、クレハ・アヤハがイナに移っていったのかも。
そしてそこには倭文氏もいたのかもしれない。桑を育て、クレハ・アヤハの技術を受け継いだのは、池田氏とも関係の深い倭文氏だったかもしれない。
ただの想像だけれど。
もしかしたら池田にあった秦郷に住んでいたのは、秦氏ではなく、ツヌコリ一族だった・・・かも??




