中国街道と浄光寺
それからクリスマスが終わり、あっという間に大晦日、年が明けて2019年。
2019初めての散歩は加島へ。年末に加島まで歩いた中国街道の続きを歩きに行った。
JR加島駅は1番出口から出て、右へ。大阪市内といっても、駅を出てもそう人はいなかった。すぐの信号を左折。新幹線の高架が高い位置に見えている方へ向かっていった。
高架を過ぎて、左手に定秀寺。それから右手にパン屋のナカマ。
信号で十三筋を渡り、右手に古いレンガ塀の旧家なんかを見ながら北上していくと、右手に香具波志神社。
前は雨が強く降り出して、急ぎ足に通り過ぎただけだったから、改めて入って行った。わたしはおかあさんのバッグに入って。
なかなかに立派な神社だった。境内には「上田秋成寓居跡」「加島鋳銭所跡」とあった。
上田秋成は「雨月物語」の作者として有名な江戸時代の文人らしい。享保年間、曽根崎の生まれだって。商人のうちの養子になって、病気にかかったときには、養父が香具波志神社(当時は加島稲荷)に祈って助かったそうだ。その後ずっと加島稲荷と関係を続け、跡を継いで商人をしつつ制作活動を行っていたのだって。
けれどお店が火災で破産。加島稲荷に身を寄せていたそうだ。それから勉強して、加島で医者になったのだって。その後、加島を出て行ったようだけれど。
友人には木村蒹葭堂、与謝蕪村などがいたそうだ。
加島は難波八十島の1つ、假島からきたとか言い伝えられているみたい。
むかし、このあたりが大阪湾や広い淀川や、淀川の支流なんかで島だらけだったころ、「難波八十島」と呼ばれていたみたい。假島、御幣島、九条(九条島)、姫島、難波島、み~んな島だった。
そしていつの頃からか、このあたりには鍛冶屋が集まって暮らしていたそうだ。それで江戸時代には銭の製造所(銭座)もつくられていたのだって。
銭座は大阪には難波、高津、加島にあったそうだ。加島でつくられた銭は良質で、加島銭として名が通っていたのだって。
今では大阪市内にしてはちょっと辺鄙なところって感じだけれど、なかなかに賑わっていたのかな。かつては神崎川が主要な水運を担い、にぎわっていたというし。神崎川は神社のすぐ北を流れていた。
近くには被差別部落もあったらしくて、散歩していて分かってきたけれど、被差別部落があったところって賑わっていたあたりだ。
境内では白とピンクの梅が咲いていた。
岩木神社もあって、狛犬がかわいかった。拝殿の向こうには楠の短い幹。今は枯れて切られてしまったようだけれど、かなり大きかったろうと思われた。
この楠は楠木正成の三男、正儀が南北朝時代、馬をつないだ木と伝わるそうだ。父と二人の兄が戦死した後、この三男ががんばっていたそうだ。あちこちで戦い、神崎川をはさんで敵側と戦ったこともあり、その時、馬をここにつないだのだとか。
他にも北条時頼(鐘を寄進)、三好長慶なんかもやって来たことがあるらしい。
神社の西の参道から出ると右折して、つきあたりまで北上して、左折。
ここが中国街道で、西に向かっていった。右手には神崎川の堤が見えた。ここは東から流れてきた神崎川と北から流れてきた猪名川が合流するあたりみたい。
このあたりにも旧家があり、富光寺があった。「熱切不動明王」だって。
富光寺の創建は645年。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒し(乙巳の変)、年号が大化になり、新天皇になった孝徳天皇(中大兄皇子の叔父)が難波に都を移そうと建設を始めた年かな。
寺は法道仙人の開基と伝わるそうだ。富光寺と名づけたのは孝徳天皇なんだとか。
法道仙人は、堺は「ハーベストの丘」近くの鉢ヶ峰で知った人だった。インドからやって来たお坊さんで、鉢飛ばしの秘法を持ち、鉢を飛ばして托鉢を行った。インドからは中国を経て、牛頭天王とともにやって来たそうだ。その牛頭天王を祭ったのが、姫路の広峰神社。
孝徳天皇が病の時、法道仙人が治したとかで、孝徳天皇とは交流があったみたい。天皇から広大な領地を賜ったそうだ。
都(645年当時は飛鳥)から姫路への道中に法道仙人が加島に・・・というから、当時からここに中国街道(当時の山陽道かな)が通っていたのかな?
けれど、法道仙人云々はただの言い伝えかな。
後に楠木正成がここに本陣を置いたことがあるらしく、その時、熱病が流行ってしまったのだけれど、寺の不動明王に祈るとおさまったそうだ。
それで「熱切不動明王」と呼ばれるようになったのだって。
後には三好長慶も本陣を置いたことがあるらしい。織田信長の少し前、天下を取りかけていた人ね。
北条時頼もやって来たそうだ。
新幹線の高架下を通り、そのまま進んでいった。右手に石川ペイントの大きくて古い工場があった。
つきあたりには防潮堤が設置されていたけれど、その向こうには山が見えた。左手へ進んで、見えている神崎橋で神崎川を渡った。
ここは十三筋だった。神崎川には橋がいっぱいかかり、右手が新幹線、左手がJR東海道本線。
対岸にはビルが多くて、都会の感じがした。
橋では風が強かった。川の手すりが一部だけしか残っていなくて、他は撤去され、代わりにバリケードがはられていた。ここももしかしたら台風21号で被害があったのか?と思ったら、台風21号でトラックが2台、風に吹かれていとも簡単に横倒しになっていた映像を見たけれど、あれがここだったらしい。
台風の日でなくても、風が強く吹くところだった。
川を越えると尼崎(兵庫県)。
神崎橋西詰交差点で信号を渡ると、左手に下っていく道があった。
ここを下っていくと、「神崎一心の戦い由緒碑」があった。
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえし、新田軍や楠木正成と戦い、ついに(一度は)九州に逃げ延びた、これを一心の戦いというとか説明されていた。
神崎橋は南北朝の頃には既にかかっていたのだって。
南北朝時代って、室町時代の初め頃かな。
鎌倉時代が終わったのは、足利尊氏ら武士の力を借りて、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したからだった。後醍醐天皇は武士が政治の実権を握っているのが不満で、昔みたいに天皇である自分が政治を行おうと幕府を倒した感じかな。
念願かなって政治を行うようになった(建武の新政)けれど、これが大不評。鎌倉幕府を倒すために世話になった武士を全く顧みず、武士の不満が噴出。
足利尊氏が立ち上がり、後醍醐天皇を幽閉。新しく天皇をたて、政治を行うようになった(室町幕府)。
けれど後醍醐天皇は京を脱出。吉野に行き、我こそは天皇なりと宣言した。天皇になるためには「三種の神器」ってものが必要で、それを用いて儀式を行うのだって。足利尊氏は新しく天皇をたてるにあたり、三種の神器を手に入れたはずだった。けれど「あれは偽物だ。本物は、これだ」と後醍醐天皇が言ったわけだった。
後醍醐天皇は京の幕府(室町幕府)や、新しい朝廷を倒そうとした。京の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)とに分かれて戦ったこの時代を南北朝時代と言い、後醍醐天皇のために戦った有名人が新田義貞や、楠木正成とその息子たち。
南北朝時代は後醍醐天皇が亡くなっても何代かに渡って続き、室町幕府の3代目のトップ(征夷大将軍)、足利義満(足利尊氏の孫)が仲介して、1つの朝廷に戻った。
すぐ南には高いところを高架道路が走り、その脚柱の向こうにはポンプ場が見えていた。
ここを西に少し進むと右手に鳥居が見えて、西川八幡神社だった。
天満宮には菅原道真が祀られているように、八幡神社には八幡神こと誉田別命が祀られている。誉田別命は15代応神天皇(仁徳天皇の父)のことだとされている。
創建などについて詳細は不明。一時は他の神社に合祀されていたけれど、ここに戻ってきたそうだ。
これは散歩してあるあるだ。焼失したり、洪水が起きたり、古すぎる話だったり、諸々あって詳細は分からなくなっていることが多い。
おまけに明治時代、多くの神社が整理されてしまった。それまでは八幡神社や稲荷神社、大歳神社などが、あちこちで祀られていたそうだ。それに仏も神も区別なく、みんなごっちゃになって祀られていることが多かった。今でも時々、寺に神社があったり、神社に寺跡があったりする。
けれど明治天皇はこのままではいけないと、仏と神は分けて祀ること(神仏分離)、多すぎる神社は整理すること(神社合祀)を決定。神社か寺かをはっきりさせ、神社に決定すると境内の寺や地蔵は壊されたり、神社から離されたり、10ある神社が1つにまとめられてしまったり。
南方熊楠などの反対で中止されるまで、真面目な藩ほど神社も寺も失われていったそうだ。
ここも他に合祀され、けれど住民たちによって再び返り咲いたわけだな。けれどそうしているうちにますます詳細は分からなくなったりする。
ここ「神崎の浜」は平安時代、京への宿場だったと神社の説明に書かれていた。
奈良時代末、桓武天皇が長岡京に遷都。都と西国を直結させるためもあって、淀川と神崎川を結ぶ工事が行われた。それ以降、神崎川筋が大いに栄えた。神崎や江口は、天下一の遊里と呼ばれるようになったくらい。
長岡京の次には平安京に遷都。平安時代になった。その頃、京から西国への山陽道の宿場だったってことかな。
ポンプ場沿いに東に進んでいくと、神崎川の堤道に上がっていった。ここを南下。
堤道にはトラックなどがいっぱい駐車して休憩していて、見通しが悪く、ちょっと危なっかしかった。
道は線路に向かっていくけれど、右手の下り道に降りていった。冠水時は通れませんと書かれてあった。
右手に県営尼崎西川高層住宅があって、レトロだった。高層といっても8階建て。
左手にマネケンの工場があった。右手のグランドだったのかなってところが閉鎖されていた。
西川一丁目交差点で極楽湯につきあたって、左折。
この道は園田橋線だって。JR(東海道線)の高架下を通って、南下していった。この少し西が尼崎駅だった。
高架を過ぎると常光寺1丁目交差点で、「路面冠水注意」と書かれてあった。次の交差点を左折するのが中国街道のようだったけれど、もう少し南下していった。
左手(東)には王子製紙の大きな工場が神崎川沿いにあるようだった。
すぐに左に浄光寺、右に皇大神社が現れた。
浄光寺は新しい感じのするお寺だった。
空海が開いたと伝えられ、常光寺の地名もこの浄光寺からきているといわれるのだって。
神崎川の向こう岸の加島の香具波志神社には楠木正成の三男が南北朝の戦いで馬をつないだという楠があったけれど、浄光寺は北朝側が本陣としたところだそうだ。
そんなわけで戦いで被災。
平安時代には栄えていたというだけあって寺も建てられ、交通の要所とあって南北朝時代には戦いの舞台になったのかな?
後に戦国時代には浄光寺城となり、この時も燃えてしまったそうだ。荒木村重を織田信長が追い詰めたときに。
荒木村重は織田信長の重臣だった人。下剋上の時代、のしあがって信長から摂津を任されるほどになった。けれど突如として反旗を翻し、信長はこの裏切りを決して許さなかった。伊丹の有岡城、それから尼崎城にと逃れた荒木村重を攻め続けた。
城にいた女房や、妻子や、重臣たちが大勢処刑されていったけれど荒木村重は逃げおせ、姿を消した。
そして本能寺の変が起き、信長がいなくなり、荒木村重は堺で茶人として再び姿を現したのだって。
皇大神社は空海が寺の鎮守として一緒に祀ったものだそうだ。今では広い通りで阻まれて、それぞれ小さく囲われて別個のものになっている。「神仏分離」ね。
あちこちの神社や寺でよくあるように、保育園が併設されていた。
このあたりは不思議な雰囲気のところだった。
神社の南には奥ノ防公園があって、ここも寺や城の一部だったところなのだろうな。昔を偲んでいるような不思議な感じだった。
中国街道に戻って西に進んだ。