石津と百舌鳥古墳群
そして再び石津に行った。
広田神社近くまで歩いた西国街道は、広田神社はつつじがきれいらしいので、続きはつつじの季節までおいておくことにして、どこを歩こうかと思って、石津へ。
地図を見ていると、和泉あたりの道がみんな斜めに傾いているのが気になった。
海岸線が斜めになってるから、それと対角に作られたのだろう道もまた斜めになっている、それだけのことなのだろうけれど、その斜めの線がなにかを表しているようでもあった。
その線上を歩いてみようと思った。
仁徳天皇陵とかも同じような角度で傾いていて、この角度は古代からのものなのだろう。
石津からの斜めの線上にあるのは、だいたいのところだけれど、石津~土師町~萩原天神(日置)~菅生~喜志~太子町~竹ノ内~葛城~橿原。
諏訪ノ森駅(南海本線)からスタートすることにした。
諏訪ノ森駅は上りと下りの駅舎が離れていた。和歌山行きの改札を出ると、前方にけっこう遠く、なんば行きの駅舎が見えた。
和歌山行き改札を出て、すぐ左のパチンコ屋さんの横を東へ。すぐに紀州街道を過ぎ、阪堺線の線路を過ぎた。すぐ右手が船尾駅で、左手が諏訪神社。
浜寺小学校に至り、小学校の北側の道を東に向かっていった。
周辺には旧家がいくつかあった。それから諏訪神社と地蔵堂、船尾薬師堂。
もう少し行くと信号があって、ここを右折。この道は思いきり斜めの道で、南東に向かう。
このあたりは地方都市の感じだった。
26号線(第二阪和)を船尾町東2丁交差点で渡り、大きな温泉(祥福の湯)を過ぎて、神石市之町交差点(30号線)へ。ここには熊野街道も通っている。
市が開かれていたあたりで市之町なのかな? このあたりにも旧家も見えた。
更に進んで、石津川を橋で渡った。橋の名前が諏訪神橋。
このあたりの「神石」って地名は、戎神が石をにぎっていたって話があったから、それで「神石」、神は戎神のこと、と思っていたのだけれど、違ったのかな?
調べてみると、「神野」と「石津」が合体して「神石」になったのだって。
それなら神石の「神」、神野の「神」は、諏訪神なのかもしれなかった。
橋を渡ってすぐ左折。
川沿いに進むと、すぐ百済川との合流地点だった。
南方向からの石津川と東方向からの百済川の合流地点からさかのぼり、2つの川の間を、百済川沿いに東へ進んでいった。
大阪市の平野あたりの百済川と同じように、このあたりも百済と呼ばれていたから百済川なのだろうな。
右手にはグランドがあり、墓地(神石市之町墓地)があり、横は公園なのか、ピンクのぼんぼりや紅白の幕が見えた。花見準備かな。遠目に見ると墓地にぼんぼりが吊るされているようで、不思議な光景だった。
百済川にはフナがいっぱいいた。
左手は高台で、前回行った霞ヶ丘公園なんかのある丘。
高入橋を通り過ぎて、地名は津久野町になった。
JRの線路が見えてきて、宮本小橋を渡って川の反対側へ。JR(阪和線)の下をくぐって進んだ。左手に450mで上野芝駅だって。
地名は神野町になり、上神橋、上向橋、月見橋と川沿いを進んでいった。
このあたりでは右手(南)も高台になっていて、そこにも家がびっしり建っていた。
このあたりは、鎌倉時代、神野荘だったあたりなのだって。
上野芝も「神の芝」からきている地名らしく、元は「神」だったけれど、漢字が「上」に変化し、読み方も「うえ」に変わったのだって。
神が諏訪神なのだとしたら、オオクニヌシの子で、コトシロヌシの弟。
コトシロヌシは近くの石津神社に祀られていたし、タケミナカタは船尾の諏訪神社に祀られていた。石津は、コトシロヌシとタケミナカタの兄弟と縁のあるところだったのかな?
それとも諏訪神を祀っていた人々がここに移住してきたとかかな?
遣唐使の時代にも神野と呼ばれていたらしく、帰国した遣唐使がひばりを持ち帰り、踞尾村神野に放ったという話があるのだって。
次の橋を少し北に行ったところにパン屋さんがあって、ここでパンをゲット。
南に急な上り坂がまっすぐ伸びていて、そちらに向かっていった。
石津から斜めに進んだらもっと南を通るはずだったけれど、丘陵で新興住宅地になっているこのあたりでは斜めにつっきれる道とか無くて北寄りにやって来たので、ここで一気にちょっと南に。
途中、小さな向ヶ丘八幡があった。向ヶ丘八幡を越えてまだ上り道が続き、てっぺんあたりからは南にまた急な下り坂になっていた。
見晴らしはとっても良かっただろうと思われた。今は家だらけで、よく見えないけれど。
この丘のてっぺんあたりに、「史跡・文殊塚古墳」があった。5世紀頃(中期?)の前方後円墳だって。
前には同じように住宅地になった丘に「かぶと塚古墳」があったし、古墳が多いところだな。
なんでも他にもいっぱいあったらしい。けれど、○○天皇陵とされていない古墳は次々と壊されていったのだって。かぶと塚古墳の近くにあったという、百舌鳥古墳群で5番目の大きさだった百舌鳥大塚山古墳も跡
形もないくらいだし。
かぶと塚古墳はここから北西に百済川を越えたところだった。
古墳が多いのもそのはずで、ここは百舌鳥古墳群の中だった。
大塚山古墳跡から北東に履中天皇陵、仁徳天皇陵と巨大前方後円墳が続いている。
「百舌鳥古墳群=堺」と思っていたけれど、歩いてみると、「百舌鳥古墳群=石津川流域を中心とした大鳥郡」と思った方がしっくりくるように感じた。
16代仁徳天皇陵も5世紀中頃の築造だそうで、当時、このあたりにお墓がいっぱいつくられていたんだな。
11代垂仁天皇の頃、伝わることには野見宿禰が石津神社の神主になっている。土師氏の祖で、古墳に関わる任に当たっていたと思われる人。
その孫のひ孫(仁徳天皇)の時代になってその石津神社の近くに王家の(だろう)古墳がつくられるまでにはまだまだいろんなことがあったのだろうけれど、この地と天皇家を結び付けたのはその頃だったのかな?
垂仁天皇は長男の五十瓊敷命を、石津よりもう少し南ではあるけれど、高石に派遣して池を造らせている。そして茅渟にも。
イシニキさんは茅渟の菟砥川上宮(阪南市)に住み、刀を千もつくって、石上神社に奉納。
菟砥川上宮があったのは和泉鳥取あたりで、そこは鳥取氏の祖、天湯川田ナの出身地だった。天湯川田ナはおそらく製鉄や海運にも秀でていたツヌコリ一族の人で、この人もまた垂仁天皇に重用されている。
もしかしたら天皇家は稲作のための池の造成など潅漑工事を行うことで、和泉の大物、ツヌコリ一族と手を結んだのかも?
さかのぼって5代天皇のときには、石津太神社を勅願で建てたとされている。
5代天皇の妻は尾張氏のひと。アメノホアカリの一族。
おそらくは海運に堪能だった一族で、石津に近い七道に住んでいたその末裔が、神功皇后のとき創建された住吉大社の神主になっている。
石津は古くからの港で、アメノホアカリ一族が使っていたのかな? それで5代天皇は妻の実家の一族に石津太神社をプレゼントしたとか?
海のアメノホアカリ一族と天皇家、それから鉄のツヌコリ一族が茅渟の海の近くで仲間になっていったのかな?
文殊塚古墳の南側の道を東に向かっていった。こちらも急な下り道だった。
平地に降りると府道61号堺かつらぎ線に出て、少し左手の西大道橋で百済川を渡った。
このあたりは、少しだけ古さを残していて、西大道地蔵がいた。
右手の信号を北陵南橋で渡って、右折。渡った川は新百済川だった。この少し西で百済川に百舌鳥川が合流してくるのだけれど、新百済川はこの少し東で百済川から分かれ、百済川と平行に北側を流れて、すぐ百舌鳥川に注ぐみたい。治水のために新しく掘られたのかな。
次の信号(陵南橋のところ)で左手に分岐する道へ。東に向かっていった。上り道だったけれど、右手は更に高台だった。
地蔵堂があり、旧家がずらりと並んでいた。そしてその合間に新しい家なんかもあって、住宅密集地になっていた。それでもこの日歩いた中で、ここが一番古い一帯だったな(百舌鳥陵南町)。
道は右にカーブしていった。交差する狭い府道28号大阪高石線(旧道)に「太神宮」とある常夜灯があって、さらに進むと地蔵堂があって、つきあたった。
左折して東に進むと東野さんなどの旧家がいっぱいあって、古いレンガ塀の続く旧家の手前で右折。
少し高低差のある、細い路地に旧家が並んでいて、古くて面白いところだった。
古い集落の東に「東野さん」が固まって住んでいる、富木(高石市)でも感じた記憶があった。あと、千代田(河内長野)でも。
このあたりって○○野さんが多い気がする。そしてその「野」は時には「埜」の字が使われている。
それも、どこかでも感じたことがあったな・・・。
方角も、どこを歩いているのかも分からなくなるような路地道ばかりの古い集落だったけれど、少し南には28号線(新道)が走っていた。
サンマルクを左手に見ながら、28号線(新道)を東へ。次の信号を右折。次の信号で左折。
一本松公園があって、ここで休憩。パンもいただいた。かなり安かったので、まあこんなものだろうな・・・って感じ。
北に古墳が見えていて、古墳に向かって上り道を進んでいった。
土師ニサンザイ古墳だった。
「ミササギ」が「ニサンザイ」になったと推測されているみたい。
池の部分(内濠だったところで、国の史跡)もなかなかに広かった。全国7(8)位の大きさらしい。百舌鳥古墳群では仁徳天皇陵、履中天皇陵に次いで3位。
5世紀後半の前方後円墳であるらしい。百舌鳥古墳群の中では新しく、真の反正天皇陵か?とも言われているのだって。反正天皇は18代の天皇で、仁徳天皇の息子。丹比に都をおいていた。
天皇陵とされるところは方違神社近くにあるけれど、ちょっと規模が小さすぎるんじゃないかと疑問視されているのだって。ベスト3まではけっこうな大きさだけれど、百舌鳥古墳群で4位以下は小ぶりになるみたい。
公園の西側は公園(御陵山公園)になっていて、北側に遊歩道が続いていた。
古墳沿いに東に向かった。




