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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
28/42

上町台地と戦争

毎日電車で遠出するわけにも行かなくて、合間には近所を歩いている。

久しぶりに住吉東界隈を歩き、すごく変わってきていて、びっくりした。

古い家、袋小路なんかがいっぱいの古いところだったけれど、大きな空き地が増えていた。どんどん取り壊されていっているみたいで、知らない間にいくつも新しい家も建っていた。

袋小路だったところも道が広くなり、通り抜けできるようになっていたりする。

代わりに、新興住宅地が固まってできたところは通り抜けできないようになっている。

こうやってどんどん変わっていくんだな。

新興住宅地の横に、壁もはがれたボロボロの家なんかがあり、少しだけ以前を物語っていたりはする。

けれどそれもつかの間なのだろうなあ。

わたしが散歩に遠出していっている町も、ほんの1年前まではもっと古かった、なんてところがごまんとあるのだろうな。

住吉大社あたりも、粉浜も、帝塚山も、どんどん古い家が取り壊され、あっという間に新しい家が建っていっている。


そして3月の初め、再び大阪城の梅園に行った。

その日は久しぶりの快晴で、けれど時間はたっぷりとはなかったから、梅園くらいのコースがちょうどいいかってことで。

また大阪ビジネスパーク駅からスタート。

駅からは今回は新鴫野橋とは反対方向に進み、素敵な川沿いを歩いていった。

空は広くて、ビルは大きくてきれい。小さな遊覧船が浮かんでいて、人も車もそう多くない。

ここから見ると、大阪は、素敵な水都って感じがした。

大阪城新橋で大阪城公園へ。昭和58年に大阪城築城400年祭(大阪城博覧会)が開かれて、それに合わせてJR大阪城公園駅や大阪城新橋がつくられたのだって。

大阪城新橋の手前にはytvがあって、その前には数人の子どもたちの像があった。誰かと思えば名探偵コナン君とその仲間たち。

こちらのコースは、梅園まではちょっと遠回り。

大阪城公園には、ふるさと納税の呼びかけのポスターがはられていた。

今の大阪城は秀吉が建てた大阪城を埋めて、その上に徳川が建てたものだけれど、地下に豊臣時代の石垣がそのまま残っているのが見つかって、それを公開できるように今、工事中らしい。

そのために一万円の募金(ふるさと納税)を募っていて、寄付した人は工事後に無料招待されるそうだ。

大阪城公園のネコについてのポスターもあった。のらねこに避妊手術をして、えさやりをしているんだって。サポーター募集中。


梅園は、前回よりだいぶ咲いていた。

前に満開だった南高や緑がくは見頃を過ぎていて、今回は豊後や八重揚羽や白加賀が満開だった。

白加賀や緑がくは満開でも花は前年よりかなり少なかった。台風で枝がやられたのかな。

前回は固い蕾だった摩耶紅も、少しだけ開きかけて、きれいな赤を見せていた。

江南所無って梅(豊後系)がかわいかった。

黒田錦っていう、とてもピンクな梅(豊後系)の木に、メジロが集まってきたなと思ったら、そのうち1ダースにもなっていた。一本の木にメジロ一ダース。すぐにいなくなったけれど。

八重揚羽も豊後系らしい。豊後系って、梅と杏の雑種なんだって。遅咲きのものが多いらしく、それでこの日は豊後やその仲間たち(豊後系)が見頃だったのかな。

あと、梅干しや梅酒に使われる梅は、南高や白加賀なんだって。弥生時代にはもう梅は日本で見られたそうだ。梅干しは平安時代くらいにつくられ始めたのだとか。


公園を出ると、南にあるQ'sモールの東側の道を南下。

左手に森ノ宮ピロティーホールがあり、「森之宮貝塚跡」があった。大阪市で見つかっている中で一番古い貝塚ね。

縄文時代後期から弥生時代中期にかけての貝塚で、その層になった貝殻を見ると、このあたりが海水から淡水に変わっていったのが分かるのだって。

最初は河内湾で海だったけれど、そのうち河内湖となって淡水化したんだな。

遺跡展示口の入り口があって、今は封鎖されていた。時々公開されているそうだ。

Q'sモールを過ぎると、少し西側にもっと高いところがあって、ここが上町台地の尾根だったあたりかな?と、そこを南下していった。

玉造小学校につきあたって、小学校の西側を南下。

左手に神社が現れた。元は境内だったのだろうけれど、今は紙工所なんかになっているところを抜けて、神社に横から入っていけた。久しぶりの玉造稲荷神社だった。

裏山にあたるあたりが玉造小学校で、境内の案内で知ったことには、江戸時代にはそこで酒造が行われていたのだって。

玉造に細川さん(妻はガラシア)の屋敷があった頃、千利休や古田織部の屋敷もまたあったのだって(前に来た時も読んだ説明だったけれど忘れている)。

玉造稲荷神社の創建は11代垂仁天皇のときで、古くは比売社といったそうだ。

難波宮の時代には、地形から思うに、この南に玉作の人々が住んでいたのかな。

参道の階段を下り、そのまま南下していった。

すぐに道の真ん中に木と祠のある所があった。つきあたったら、少し右手の道で南下。すぐ長堀通だった。

ここでパン屋によるべく西へ。

前は空堀町交差点すぐのnaoto.panでパンを買っておいしかった。今回も交差点すぐの某パン屋に行ってパンをゲット。じゃがいものフォカッチャとあんパン。


元の信号に戻るべく東に向かっていると、途中で南に公園らしきところが見えたので行ってみた。

坂を上ると門が閉じられていたけれど、一部人が出入りできるサイズの開口部があった。

ここから進んでいってみた。

そこは真田山陸軍墓地だった。

「歩兵上等兵○○(氏名)墓」とか書かれた、同じサイズ(小さい)と形(先のとんがった長い四角柱)の墓がずらりときれいに並んでいた。今も隊列を組んでいるみたいに。

太平洋戦争かと思ったら、明治とか書かれてあった。

もっと古い墓の並んだ区画のものには「軍?夫職工」とか・・・文字も旧字で読めなかったから、もっと古い時代のものなのかな?

日清戦争、日露戦争とかの?・・・と思ったら、西南戦争からの墓らしい。

真田山の丘陵地にあるらしく、高台だった。それでけっこう広いけれど、今まで気づくこともなかったんだな。こんな街中にこんなところがあったんだなあ。保存会の人たちの尽力あってのことなのかな。


日本で初めての陸軍がつくられたのは、大阪だったそうだ(明治3年)。陸軍墓地も明治4年に日本で初めてつくられたのだって。それがここなのだって。

そして明治6年、徴兵制開始。

ここは遺体の引きとり手のない人や、戦死して火葬された人たちの墓だったそうだ。南の真田山小学校あたりも墓地だったところなのだって。

先に進んでいくと、宰相山公園とつながっていた。

宰相山公園には神社があった。

ここが三光神社で、真田幸村が通った大阪城への抜け穴といわれている穴のあるところだった。気になりつつ訪れたことのなかったところ。大坂冬の陣での真田幸村の出城、真田丸があったところでは?とも言われている。

真田幸村のブロンズ像がたっていた。像はいらないかな・・・こんなおじさんの姿の幸村さんは見たくないや。

宰相山というのは、大阪の陣でナントカ宰相が陣を置いたからなんだとか。

真田幸村や徳川家康だけじゃなく、伊達政宗、藤堂高虎、上杉景勝とか、名前を聞いたことのあるような人々が大阪に集結していたとき。

末社の稲荷、野見宿禰、竹内宿禰が一緒に並んで祀られているところがあって、ここが妙に落ち着いた。

けれどもう閉ざされて、世話されていない感じだった。

三光神社は元は姫山神社といい(地名も姫山)、18代反正天皇のときの創建と伝わるそうだ。

北には11代垂仁天皇のときの比売社(玉造稲荷神社)があるし、それで「姫山」なのかな?

竹内宿禰(神功皇后などに仕えた人)の子孫がずっと神主をしているのだとか。


宰相山公園もまた墓地と同じく真田山の丘陵にあって、東側の道に下りていった。その道を少し南下すると真田山公園だった。

ここで休憩してパンをいただいた。naoto.panと食べ比べしようと同じようなものをゲットして、楽しみにしていたのだけれど・・・naoto.pan圧勝。

真田山公園を南西に進み、味原幼稚園との間の遊歩道(川が流れていた感じ)を進んで、そのまま道なりに西へ向かっていった。

広い通りに出て、そこにはきれいな真田山公園事務所があった。その前に大きな碑があって、「騎兵第4聯隊歴史」が石碑に刻まれていた。

よく意味が分からなかったんだけれど・・・明治22年に大阪(今の真田山公園)に騎兵隊新設。兵250人、馬200匹(原文ママ)くらいから構成されていた。昭和7年、手狭だってことで金岡に移転、というような内容だった。

昭和60年に書かれた文章のようだったけれど、戦争を知っている世代の(というか兵士だった)りりしいおじいちゃんたちによるものらしかった。

正義と武勇を愛し、力の限り戦い、不思議と生還した。悔いはない。けれど亡くなった人たちのことを思い、心からその安らかな眠りを祈る。

そんなことが書かれてあった。

戦時中には大阪城公園あたりには工員が何万人も通う巨大な工廠(国の軍需工場)があって、大阪空襲の標的となったってことは知っていた。

それ以前からこのあたりには戦争の施設がずっとあったんだな。

戦争が普通に身近にあった時代が長くあったんだな。

その向こうには大きくて立派な寺も見えていた。大圓寺だって。


西に進むと弥栄神社があった。小さな神社で、桃谷の弥栄神社の旅所だった。東向きの神社だった。

旅所があるところって、昔からの街道沿いが多い。この東の道も古い街道だったのかもしれない。

弥栄神社(桃谷)のある丘の下を昔、猫間川が流れていたらしかった。前に猫間川の跡をたどって歩いてみたことがあった。大阪城の東側を北上して淀川に注いでいたという川だった。

この旅所あたりにはかつて味原池があったらしく、味原池と猫間川はつながっていたのかもしれない。それで池や川に沿って道ができていたのかも。

すぐ北側が高津高校だった。前回は高津高校の西側を南下していったけれど、今回は東側を歩いていた。

道なりに南下していったら、右手に産湯稲荷神社。元は比売許曽神社がここに鎮座していたというところ。

アヂスキタカヒコネが井戸を掘り、その水を大小橋おおばせ(中臣氏の祖先で、神功皇后や応神天皇の時代の人かな)が産湯に使ったというところ。

井戸が低地になったところにあって、ここがその「玉之井」らしかった。

「日高の清水」「日高真名井の清水」と呼ばれたと説明されていた。

行ってみるとそこにオオナムチ&スクナヒコナ、ミズハノメ&御井神、祓戸神&アジスキタカヒコネの3ペアが祀られていた。

こんなところで見るとは思わなかった、古い石垣なんかも残っていた。


横は公園で、少し高台になっていた。

このあたりは法蔵山なる山だったのだって。

小さな山がいっぱいあったのかな。狐穴があるって記載もあるらしく、昔の上町台地、歩いてみたかったな。けっこう山あり谷ありだったけれど、大昔から山を崩して谷を埋めて、平らにしちゃったみたい。

南にすぐ千日前通だった。

まだ時間が早かったので、少し東の鶴橋商店街を通って、まだもう少し南下していった。

なんだか古いところに至り、この古さは弥栄神社周辺でしかありえないな、と思ったら、やっぱり高台に弥栄神社(桃谷)。

少し東には御幸森天神宮。仁徳天皇が行幸で休憩していた森だったというところで、反正天皇の時、祀ったそうだ。

満足してUターンし、鶴橋駅から帰った。

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