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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
27/42

西国街道と広田神社

そして西国街道だ。

すぐ新幹線の下を通り、道なりに進むと、道は西に向かった。このあたりには「西国街道」の新しい道標があった。新しい家々が建ち並んでいた。

最近までは田畑ばかりだったのだろう。渡った百間樋川も、農業用に江戸時代、武庫川からひいた水路の一部だそうだ。百間は約180m。途中で仁川の下をトンネルで通過するらしく、そのトンネルの距離が百間なのだって。上大市や他の村の人々によってつくられ、周辺の田畑を潤したそうだ。

つきあたって左折。信号の次の道を右折。

あとはずっとこの道を進んでいった。ここは前回、早足で通り過ぎていったところだった。

面白くない住宅密集地で、歩き直すまでもなかったかな、と思っていたのだけれど、次の信号を過ぎて下大市に入っていくと、面白くなった。

水路に、大きなクスノキ。

左手にただものじゃない感じのおうちが見えたので行ってみると、下大市会館があって、「茄子苗培養法発明家頌徳碑」がたてられていた。

培養法発明家というとなんだかすごいけれど、茄子の温床栽培に成功した人たちのことらしかった。高木さん久保田さんって篤農家が、茄子を促成栽培することに成功して、大市茄子として人気を博したのだって。明治時代のことだそうだ。

付近には高木さん、久保田さんのおうちが多かった。

周囲は新興住宅地のようだったけれど、この一角だけは古くて、大きな旧家がいっぱいあった。

永福寺があり、室町時代の「絹本著色四社明神画像」なる市の指定文化財を保有しているらしかった。

地蔵堂の延命地蔵は江戸時代以前のもので、高さ1.72mだって。よく見えなかったけれど。

マンションに大きなクスノキが育っていたりした。このあたりも田んぼだったり旧家だったりしたものが、マンションになっているのだろうな。


元の道の続きを行くと門戸商店会に入った。小雨が降ってきた。

道標があって、「厄神明王道」と書かれてあった。「すぐ○○観音」とかの文字も見えた。

そして門戸厄神駅へ。

駅近くのパン屋さん(リョウ)でパンをゲット。

駅からは門戸厄神への参道が案内されていて、ここまで来たら行くしかない。雨が降るとは思っていなかったけれど、バッグに入れたままの傘が役立つ時が来た。

わたしはだっこで傘をさしたおかあさんは門戸厄神へ。

参道は舗装道路と家ばっかりの、味気ないところだった。「厄神明王道」とある門柱みたいな間を通って行くと、もんどさん筋と交差。甲東園駅の西側にあったもんどさん筋を南下してきた道。

ここをまっすぐ進むように案内されていたけれど、わたしたちは少し北から進んだ。そこに門みたいなのが見えていて、歩きの参道はそちらじゃないかと思えたから。

門戸厄神の表参道(男坂)に到着。

門戸厄神は犬NGだった。ちょっと重くて疲れたし、というんで、わたしは雨宿りしながら待つことになった。

境内には階段を上っていくのだけれど、階段の各段の隅っこにプラスチックのかごが置かれていて、お賽銭入れになっていた。

男坂は42段あって、降りながら各段に賽銭を入れていくと厄落としになるのだって。男の大厄が42歳らしい。

お寺が商魂たくましいのではなく、みんなが置くから、お寺でかごを用意することになったそうだ。


門戸厄神は日本三大厄神の1つだそうだ。

嵯峨天皇が厄年の時、空海が厄除け祈願したのだって。その時、愛染明王と不動明王が一体になった厄神明王が救ってくれると天皇の霊感が働き、空海が3体の厄神明王を彫ったそうだ。

3体の厄神はそれぞれ天野明神(高野山の丹生都比売神社)、石清水八幡宮、そしてここ東光寺に祀られた。日本三大厄神というのもその3か所。

空海の厄神明王が現存するのは、ここ東光寺だけで、東光寺は門戸厄神とも呼ばれるのだって。

おかあさん曰く、そんなに広くはない境内に、いろんなものがあったそうだ。

特に木がいろいろあった。

8000万年前の木の化石とか、樹齢800年だった高野山に生えていた杉の根を譲り受けたもの(延命根)とか、年輪の見える幹のスライスとか。

寺を出ると、とりあえず門戸厄神駅に戻った。

そのまま帰ってもよかったけれど、雨はやんできていて、西国街道の続きを歩くことにした。


ここまで歩いてきた道の続きがどれかちょっと迷ったけれど、グリーンベルト(緑に塗られた線)のある道がそうみたい。横を水路(津門川)が流れている道。

おしゃれなお店が多くて、パン屋さん(アンリアン)もあった。神戸女学院なる学校が近いらしくて、そのせいなのかな。

道が2つに分かれて左側へ。ここにもグリーンベルトがあった。

それから川沿いの道に出た。「みたらし通り」だって。この川沿いを南下していくのが西国街道だった。

けれど反対に進むと、式内社の広田神社があるらしい。

川沿いを北西方向に歩いていった。川は東川、別名、御手洗みたらし川。大きな古い神社にはたいていある(あった)、禊のための川ね。

信号があって、高座たかくら橋がかかっていた。地名も高座町。

橋の向こうには広田神社の常夜灯が見えていた。右手は高台で、「五段坂」とあった。ここを上っていくと、武甕槌たけみかづち神社や若宮神社があったみたい。

武甕槌神社は江戸時代には毘沙門天だったところらしくて、明治時代に弁財天と同じく神社ってことにされたのかな。若宮神社については詳細は不明。


さらに川沿いを行くと上高座橋がかかり、バス停(広田神社前)があった。

雰囲気のある川の横に住宅街があり、けっこう大勢の人がバスを待っている光景は妙に心に残った。

右手には地蔵がいて、気になる坂があって上ってみると、池(新池)だった。

池の周遊部が遊歩道になっていて、小雨の降る寒い日じゃなかったら、気持ちいいだろうなあ。

ここで少し休憩をした。ゲットしておいたパンもいただいた。米粉パンが優しい味でおいしかった。クロワッサンもおいしかった。

周りはすっかり新興住宅地になっていた。

近くの小高いところには具足塚古墳なる古墳があるようだったけれど、家しか見えなかった。

なんでも古墳は史跡指定も受けているのだけれど、周囲を個人宅で囲まれているんだそうだ。

6世紀後半頃の円墳で、横穴式石室を持つのだって。後期の古墳のパターンね。なかなかに大きな石室で、出土品も豊富にあったそうだ。

高座という名からして意味深だったけれど、住宅地になりすぎているし、いろんなことが不詳だった。


バス停に戻り、そばの信号を渡った。

近くには市立西宮高校があるみたいで、ランニング中の男子生徒が数学の解き方について話していた。

ランニングしつつ数学! きっと文武両道の賢い学校なのだろうな。

それからすぐが参道だった。

道沿いに参道があって、そこにずっと灯籠が続いていた。長い参道で、どこから始まっているのかもよく分からなかった。

格式高い感じの神社だった。

広田神社にはアマテラスの荒魂が祀られている、と聞いていたのだけれど、確かに伊勢神宮と同じアマテラスを祀っていることを感じさせる格式高さだった。

もちろん犬NG。

門戸厄神みたいに外で待つには境内が広すぎて、わたしはバッグに入って行った。バッグに入ろうとも犬は入るべきじゃないって声もあるだろうけれど。


三韓征伐から帰ってきた神功皇后が、難波津に入ろうとしていた(和泉の船岡山に寄った後だろうな)ところ船が動かなくなり、どうしたことかと思っていると、三韓征伐に導いてくれたアマテラスからお告げがあり、「わたしの荒魂を広田においていきなさい」といわれたのだって。

それでムコの広田にアマテラスの荒魂を祀ったのだそうだ。

神功皇后は14代仲哀天皇の妻。天皇亡き後、妊娠した身で朝鮮半島に渡り、三国と同盟(かな?)を結んで帰ってきた。

帰国した後に皇子を産み、それが後の15代応神天皇。

仲哀天皇には他の女性との間にも皇子がいて、そのうちの一人、忍熊おしくま王とその兄、香坂かごさか王は反乱を起こしたけれど、失敗。

広田にアマテラスの荒魂を祀ったように、コトシロヌシには「わたしを長田に祀れ」と言われて長田神社を、織姫であるワカヒルメに「わたしを生田に祀れ」と言われて生田神社を、住吉三神に「わたしらをナガオに祀れ」と言われて住吉神社(今の住吉大社?)を創建し、無事に難波に入港したそうだ。

これは、広田、住吉、生田、長田の有力者を味方にして、難波入りし、自分の産んだ子を次の王(応神天皇)にできたってことかしら。

広田神社は元は六甲むこ山の山麓に鎮座していたそうだ。六甲山むこやま神社、六甲比命ろっこうひめ神社も近くにあって、六甲山はすべて広田神社の神域だったのだって。

広田神社の祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。

これがつまりはアマテラスの荒魂だというけれど・・・普通に考えると、向津媛むかつひめ命、つまりは六甲むこつ媛、六甲のヒメってことじゃないかな・・・。


神域の一部が広田公園として残されているようだった。

公園というけれど神域の感じの森だった。

広田神社よりも、ここがちょっとこの世ではないような雰囲気だった。

公園だからそこにも遊ぶ子どもがいて、こんなところで育ったら、どういう子になるんだろうと思った。うそのようにきれいなところ。

野鳥もいた。イノシシマークも見た。公園というより、森に近い。

4月7日はつつじ祭りだって。4万株のつつじが植えられていて、有名らしかった。

そして公園の周りは新興住宅地だった。新興住宅地さえ素敵に見えた。


ここから西国街道の続きを歩いて西宮駅を目指してもよかったのだけれど、この西側にある最寄りの苦楽園口駅(阪急甲陽線)から帰ることにした。

道に迷いつつ西に向かった。

丘陵の尾根あたりを歩いたのか、右手には平野の向こうに山々が見え、その裾部分には家がびっしりと建っているのが見えていた。

賽神社があった。祭神はやちまたひこ・ひめ。賽神社の祭神って、サルタヒコかこの神様であることが多いのだって。

ニテコ池なる池の北側を通って、あとは道なりに西に進めば苦楽園口駅近くだった。

池を過ぎたところに名次神社があった。ここも式内社だったらしい。

元はもっと南の西田町あたりにあったのだって。そこは昔は海岸線だったあたりだそうだ。今は阪急神戸線が走るあたりかな。

川を渡って苦楽園口駅へ。川は夙川だった。

駅前にローゲンマイヤー(パン屋)があった。このあたりはパン屋の激戦区なんだって。いいところだな。

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