甲東園
3月になり、西国街道の続きを歩きに行った。
武庫川を髭の渡しで渡り、門戸厄神駅そばを通るのが西国街道だったけれど、今や髭の渡しはなくて、離れた甲武橋で渡るしかなかった。
そこからは時間もなくて、最短距離で門戸厄神駅へ向かって帰った前回。
髭の渡し近くからもう一度やり直すことにして、髭の渡しに近い甲東園駅へ。
阪急西宮北口駅で今津線に乗り換え、宝塚方面(北)に向かって、門戸厄神駅の次の駅だった。
乗り換えで、今津行きに乗りかけたのだけれど、前に中国街道を歩いた時に歩いた今津は南方面だったから間違いに気づいた。すこ~しずつ頭の中でこのあたりの地図ができあがってきたなあ。
せっかく甲東園に行くので、地図で見つけた門戸天神社と神呪厳島神社にも寄ることにした。
そしてやって来た甲東園の駅周辺は昭和な感じだった。甲東園なるニュータウンが昭和の時代に造られたのかな。
けれど駅から離れて歩いていくと、街は新しいところが多かったから、ニュータウンがどんどん広がって、最近も山が街にかわったところが多いのだろう。・・・とか、推測した。
甲東園は寒かった。空気がひんやりしていて、ここは山中だったところだって感じがすごくした。
ただこの日、前日の雨もやんで晴れるだろうと思っていたら、まだ低気圧がいすわっていて、そのせいもあったかもしれない。
西口を出ると左折して少しだけ南下。
銀行を過ぎたところで右折して学園花通りを西へ。「やくじんさん筋」なる道を渡った。ここを南に向かえば厄神さん(門戸厄神)に行けるのかな。
つきあたりのマンションを左折して、山沿いみたいな道に進んでいった。
このあたりは最近開拓されたのだろうな。
と思ったのだけれど、新しく見えた頴川美術館は1973年開館らしく、このおしゃれな雰囲気が町を新しく見せているのかな? 高低差と、石の基調にした白っぽい建物と緑でかなりおしゃれ。
右手の高台に向かって、魅力的な道がいっぱい伸びていた。
その1つ、美術館の横の石の階段を上って行ってみた。素敵な森の中にでも続いていそうだった。けれど、そこは住宅街だった。
まあ、そうだよね、と元の道を歩いて行ったけれど、新しい丘陵の住宅地のあるあるかな、広い道がカーブして交差しあっていて、すぐにどこをどう歩いているのか分からなくなった。
右手に灯籠と階段(上り)が現れて、左にも階段(下り)は続き、その先にも灯籠が見えていた。ここは古いままの感じだった。
階段を上っていくと門戸天神社だった。門戸の氏神で、祭神は手間天神(菅原道真)だって。創建などについては不詳。
「手間天神(菅原道真)」とあったから、手間天神=菅原道真とされているのかな?
けれど、「天満(天満宮)」と「手間」が似ているから混同されることもあるけれど、手間天神は一般的には少彦名のことだそうだ。
服部天神はここから10kmばかり東に行ったところ。
服部天神が鎮座するのは昔は海岸だったあたりで、前に散歩して、和泉のツヌコリ一族の人々がいたところだったのかもしれないな、と思った。
ツヌコリ(角凝魂命)は波多神社(阪南市)に祀られる人で、子孫には鳥取(捕鳥)氏や倭文氏らがいる。スクナヒコナもたぶん、一族の人。
服部天神には渡来系の秦氏が信心するスクナヒコナを祀ったというストーリーが書かれていたけれど、わたしは勝手に波太神社に祀られるツヌコリの子孫らが、一族のスクナヒコナを祀ったのかな、と思った。
祭神が手間天神(スクナヒコナ)だったなら、ここもそうだと思えなくもなかった。
ここも昔は海岸線に近く、それで門戸って名なのかもしれず、ここにも船で往来するツヌコリ一族の人々がやって来たのかもしれなかった。そしてスクナヒコナを祀ったのかも。ただの妄想だけれど。
あたりでは甲東園天神社遺跡が見つかっているらしく、弥生時代の土器も出てきたそうだ。
裏には古墳もあったんだって。裏に回ってみると・・・住宅街だ。
元はハイキングコースだったんじゃないかと思われるような小道もあった。けれど今は小道の先は住宅地で、柵で切断されていた。
見晴らしはとってもよかった。住宅に囲われる前はどんなところだったんだろう。
笹の揺れる音と、新幹線の走る音がしていた。
階段を下り、次は神呪厳島神社を目指すべく、来た道の続きを歩いていった。
道なりに進むと左に中谷公園、つきあたりに西宮高校があった。
中谷公園は低い位置になり、その西側はいきなりの高台だった。その上に神呪厳島神社と墓地があって、高校の側から向かって行った。
中谷公園を見下ろすところにあり、中谷公園がその名の通り谷になっているのが分かった。そのあたりだけぐんと低地になっていた。ダイナミックな山地だったところが、そのまま住宅街になった感じだった。
厳島神社の鳥居は南東の方角にあって、その下は急な階段になっていた。ここは新しくきれいな階段だった。これだけの高低差のあるところを、よく住宅街にしたもんだ、と思った。
門戸天神社の参道の急な階段と同じ山肌だったところかな?
そばの墓地の周りにもびっしりと住宅が並んでいた。
神呪は、記憶にあった。
まだ小さかった頃、甲山に遊びに行って、神呪寺ってところを通った。神呪って、「呪う」ではなくて、「呪う」のほうの意味なんだって。
平安時代の開基で、空海も関わっていると伝わるお寺。
けれどそれはもっと西の、山のあたりだった。
どうしてここに神呪厳島神社があるのかというと、神呪寺が山から下りてきていたことがあるらしく、それがこのあたりと思われるのだって。それが地名に残り、ここは神呪という地名になっているらしい。
そしてここがその降りてきていた神呪寺跡かもしれないそうだ。神呪厳島神社も、神呪寺にあったのをここに祀ったものらしい。
甲山の神呪寺に弁財天が祀られていたらしく、それが厳島神社となったのかな?
西宮高校の前の道を東に下っていき、幼稚園手前のバス通りを右折。
すぐに松ヶ本緑地なる道が現れて、ここを下っていった。
頴川美術館のあった通りに出て、美術館の方へ。甲東園駅に戻っていった。
駅のホームのすぐ南側、ホームに手の届きそうなところにある踏切で東へ。よくある感じの住宅地だった。西側みたいな、高低差や統一された高級感はなかったかな。おしゃれな感じと昭和のこてこてが同居していた。
途中の辻に「上大市庚申塔」があった。葬式があると、埋葬後、草履をここで履き替えたのだって。死者の霊がついてこないように。
地名が上大市。上大市と下大市があって、大きな市がひらかれていたところなのかな。西国街道に武庫川に、交通の要所だったに違いないところだし。
新しく家々が建った感じのところをてくてく歩いていると、左手に鳥居と神社が見えた。
これは行かないとな、と思ったけれど、新しい家々は隙間なく並んでいて、神社には直には行けないようになっていた。よくあるパターンだ。よく分からないけれど、たんぼを一反とか買って、宅地にして売り出すと、こういうことになるのかな。
家々の途切れたところでやっと神社を目指すと、周りには結構たんぼが残っていた。というか、最近まで全部たんぼだったところに、家が建ち始めているのだろうな。
神社は段上若宮八幡神社だった。地名が段上町(西宮市)。
祭神は大日霊女尊。大市八幡から1681年に勧請したってことだった。
大市八幡宮はこの南の若山町ってところにあるみたい。
そこは石清水八幡宮からの勧請で、八幡だから応神天皇を祀るのだけれど、大日霊女尊もまた祀っているのだって。
八幡神社には応神天皇と姫がたいていセットで祀られ、ひめは地域によって異なるのかな。大市八幡宮では大日霊女尊。
オオヒルメ、初めてだ。
近くでは古墳時代の須恵器が見つかっているのだって(段上遺跡)。
鳥居は今は広い道路ができた南を向いているけれど、以前は西を向いていたのだって。阪神大震災で倒壊して、南向きに再建されたらしい。南には新幹線も走っていた。
道なりに東に続きを歩いた。
百間樋川なる小川を越えて、すぐのバス通りに出る手前で右折。
ここが西国街道だった。右手に髭の渡し跡。




