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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
25/42

上町台地と梅

2月末になり、大阪城公園に行った。前の年、何度か行った大阪城公園の梅を今年も見に行こうと思って。

大阪ビジネスパーク駅(地下鉄鶴見緑地線)で降りると、新鴫野橋を渡って公園へ。久しぶりの大阪城が、正面に見えていた。

大阪城公園は広くて、大阪市の中心部にあるのでいろんな駅からアクセスできる。でもまあ、梅園には大阪ビジネスパーク駅が近いかな。

公園に入ったら、左手へ。大阪城ホールの正面から外濠の内側に入っていけた。

前にやって来た時には工事中だった公園は、なんだかおしゃれになっていた。スターバックスやマチカフェが入り、あちこちにローソンもある。アールベイカーまで。

2月も半ば頃から、散歩しているとあちこちで梅がけっこう見頃だった。けれど、大阪城公園では少し遅めなのかな? というか、遅めの品種も多いのかな。固い蕾の梅が多かった。人はいっぱいいたけれど、みんな「まだまだやなあ」って。

梅園に何度か通って知ったことには、桜と違って梅の見頃は長い。ほとんどがソメイヨシノの桜とは違って、梅はいろんな品種があるから。

ソメイヨシノは江戸時代に品種改良で生まれた品種で、繁殖能力がほぼないので接ぎ木で増やす。つまりほとんどが1つの木から増えたクローン。それでいっせいに咲いていっせいに散る。

梅はいろんな品種があって、早咲きもあれば遅咲きもあるから梅園全体では長く咲いている。

南高や緑がくはほぼ満開だった。梅園のローソンの前の南高が立派だった。

可愛かったのは、鶯宿おうしゅく。小さめの丸いピンクの花をいっぱいつけて、鶯が似合いそうだった。

鹿児島紅は終わりかけで、となりの摩耶紅はまだ蕾だった。そっくりなのに、咲く時期は違うんだな。

京橋方面のビルを背後にとか、大阪城を背後にとか梅を見て、面白かった。他にも散歩している犬もいた。

この日は鶯とかの野鳥は見なかった。何度か通ったうちに何度か珍しい野鳥も見た(鷹匠の鷹も見た)けれど、この日はスズメくらいだったかな。

(代わりに地元で生根神社(住吉)の下の梅の木にメジロを見た。)


少々見頃には早いなりに堪能して、右手に内濠と、その向こうの天守閣を見ながら坂を上った。

天守閣は高いところに建っていて、そこに入って行けるように、坂でいっきに上って行く。途中から梅園を見下ろすようになり、上がり切るとかなり下の方に梅園と、そこをめぐる人々が見える。

上りきったところは「蓮如の袈裟掛け松」(枯れた根っこが少し残るだけだけど)あたり。

大阪城になるまでは、ここは石山本願寺だった。お寺が多くの僧兵を抱え、一つの国のようだった時代、難攻不落の石山本願寺は織田信長をも手こずらせたそうだ。

元々は蓮如がここにやって来て坊を建てたのが始まりで、このあたりがその跡地とされているのかな。

上りきると左折して、道なりに進んでいった。

人は多かった。韓国語や中国語、日本語が同じくらいの頻度で聞こえてきた。

茶色い髪の小さな男の子に「ぷーどる」と「る」にアクセントのある言い方で指さされた。

みんなが素通りしていくけれど、大きな石の塀の上に登れるところがあって、上っていってみた。下をのぞくと、かなり下の方に外濠が見えた。

遠くの山まで見えていた。こんなところに、誰がいたんだろう。

大阪城の前には石山本願寺。

蓮如がやって来たとき、このあたりは応仁の乱などがあって荒れ果て、「虎狼の住処」となっていたのだって。

けれどその前にも誰かいたはずだった。


ここから西にある難波宮跡公園経由で南へ向かい、どこか適当な駅から帰ろうと思っていた。なにしろあちこちに駅はあるからな。

大阪城公園の南を走る中央大通を西に向かって、難波宮跡公園に行ってもよかったのだけれど、前に歩いたとき、すんなり道を渡れなかった記憶があったし、別の道から行ってみることにした。

地下鉄森ノ宮駅の出入口のある交差点(森ノ宮駅前交差点)から大阪城公園を出て、玉造筋を南下。少し南から西に向こうことにした。

すぐに森ノ宮神社がある。正式名は鵲森宮。聖徳太子が父を祀って建てた神社。

前に寄ったことがあるので神社には入って行かなかったけれど、手書きの説明文が外から読めて、その内容が興味深かった。

前にも読んだのだったかな? 覚えていなかった。ここは元は大和政権の大臣、物部氏の本邸があったところで、物部氏の末裔の守屋氏が訪れてそう語った、ということだった。

物部守屋を倒して、蘇我氏(馬子)は物部守屋の土地の半分をゲット(残り半分は四天王寺のものに)。自分の妻が守屋さんの妹だからというのを理由にしたそうだ。河内の一帯(八尾市あたり)と摂津の一帯を手にした。

そこに渋川神社(八尾市)や大聖勝軍寺(八尾市)などを建てたのだものな。蘇我氏の血を強くひく聖徳太子が建てたことになっている。

上町台地もまた物部氏の勢力地で、そこをゲットした側の聖徳太子が神社や寺を建てたんだろうか。


それからすぐにパン屋があった。いかにもしゃれていて、もう少し違うところがいいなとスルー。

右折して難波宮跡公園方面に向かっていった。上り道で、地名は玉造になった。

玉造稲荷神社の鎮座する玉造には、元はその名の通り玉造をする人々が住んでいた。

高安あたりの神立(八尾市)に玉祖神社があって、そこから玉造まで玉祖道なる道が通っていた。前に歩いた十三街道が元はその玉祖道だったと思われ、途中には玉造をしていたらしい集落跡も複数見つかっていた。

玉祖道あたりが古代、内陸まで大きく入りこんでいた河内湾の南の海岸線だったかもしれないそうだ。

まだ散歩の初心者だった頃、玉造とか勾玉とか、真面目に説明されていてびっくりしたものだった。おとぎ話ー??と思っていたのを思い出すなあ。


「越中井」跡の近くを通った。前に歩いたことがあって、よく覚えていた。

豊臣秀吉が大阪城を建てたころには、玉造には三の丸があり、そこに大名たちが家族で住んでいたそうだ。細川忠興もその一人。

妻はキリシタンとなり、石田三成に人質にとられそうになったとき、自ら命を絶ち、屋敷には火をつけて拒否した。細川ガラシャ、明智光秀の娘。

唯一燃え残ったというのが、屋敷の台所にあったという井戸、越中井だった。

坂を上り、難波宮跡公園の東端あたりにたどり着いたものの、フェンスに囲まれていて入れなかったので、フェンスとフェンスの間の歩道を南下していった。フェンスに囲まれた区画がいくつかあって、その間に通路も確保されていた。

今まで公園の西側のあたりしか歩いたことがなくて、全容を見たことがなかったのだけれど、結構広かった。

草がはえたままフェンスで囲われた区画がいくつかあった。ここもみんないつかは整備して、大規模な公園に作り替えるつもり・・・とかなのかな?

公園の南端には門みたいなもの(出入りはできない)があって、ここの信号から南下していった。

右手に広小路公園があった。

西は上りで、東は下りだった。上町台地の東端にあたるところなのかな。

長堀通りに交差して、長堀通りをパン屋さんを求めて東に歩いていってみた。

途中、左手に玉造稲荷の分社があった。浪花講発祥の地とあった。

江戸時代、伊勢参りが大流行。ひとびとはこぞってお参りに出かけた。一般人は自由に旅行なんてできなかったけれど、お参りは別だったんだって。

けれど宿に泊まると、ぼったくりに飯盛女という名の売春婦に、と、問題もいっぱいだったのだって。

そこで、安心して泊まれる宿を、と、ここに玉造の行商人が旅籠の組合を立ち上げたそうだ。その名が「浪花講」。

その看板を掲げる宿屋は優良って印だったそうだ。その跡地が玉造稲荷の分社となっているのだって。

それからnaoto.panなるパン屋さんを見つけた。ここでパンをゲット。

ついでにもう少し東に進み、空堀町交差点から南下していった。この道には歴史の散歩道の舗装がされていた。ここでもまだ左は緩い下り道だった。

「空堀」は大阪城の南の堀があったところと言われている。西は海、北と東は川で囲まれた大阪城は、南には堀を掘って難攻不落の城となっていた。それを大坂冬の陣の後、徳川家康が埋めてしまい、大阪城は南から簡単に攻められるようになってしまった。で、夏の陣へ。


右手に清水谷公園が現れた。

けっこうな高台で、上っていってみた。なんだろう、峰みたいなところだった。かつては高低差のいっぱいある、緑でいっぱいのところだったのだろうなあ。

道は上りになって、餌差町交差点へ。

ここに「悪縁を断つ・鎌八幡」なるお寺があった。境内で写真を撮らないでとか書かれていた。

寺の前の道は三韓坂といったんだって。飛鳥時代から奈良時代にかけて、三韓館なる迎賓館があったそうで、そこに通じる坂だったのだろうな。

三韓館は後には難波館って名になったらしくて、前に東小橋を歩いていると、外交施設「難波館」があったというところがあった。それがこの坂の向こうなのだろうな。

歴史の散歩道の案内には東に300mで「真田山公園」、北にバックすると「大阪城」「越中井」、西にはすぐ「契沖旧庵(円珠庵)」とあった。

契沖って前に尼崎に行ったとき、尼崎城跡近くに生誕地があった人だ。江戸時代の国学者。

晩年には円珠庵に住み、円珠庵で亡くなり、墓も円珠庵にあるのだって。それが別名、鎌八幡であるらしい。

なんでも鎌八幡では、神木の榎に鎌を打ち込みながら祈願するのだって。真田幸村も冬の陣を前に祈願して

徳川家康に勝利したので、お礼に榎の祠を建て替えたそうだ。


このあたりから学校とお寺がいっぱいだった。

中学校の裏にお寺が見え、観音院、出雲大社高津分祀。都会の狭い境内なので、工夫されて新しいいでたちで建っていた。道沿いに門があり、すぐ階段があり、そこに鳥居がたっていたりする。

広い墓地があり、その向こうもお寺だらけだった。寺内町だったのだろうな。

向かいは高津高校で、新しそうだけれど、雰囲気があった。元は何だったところなのかな。

味原本町交差点で、右手に公園が見えた。東高津公園だった。

このあたりは、仁徳天皇の高津宮の「高津」とか、アジスキタカヒコネからとったのかもしれない「味原」なんかの地名の集まるところだ。中臣氏の先祖の大小橋命が産湯を使ったという「小橋」もある。

そして、比売許曽ひめこそ神社がある。

新羅のアカルヒメを祀っているとか、アヂスキタカヒコネの妹(シタテルヒメ)を祀っているとか言われる神社。古い書物にも、応神天皇の時(または垂仁天皇の時)、新羅のアカルヒメがやって来て、ヒメコソ神社に祀られるようになったとか、垂仁天皇の時、シタテルヒメを祀ったとか書かれていてよく分からないみたい。

「ひめこそ」の「こそ」についても新羅の言葉だとか、「社」の古代語だとか(前に行った古曽部も元はこそ部からきていたし)。

かつて「神社」を「かみこそ」と読んだのだって。神社造、連、忌寸などもいて、物部系だったそうだ。

もしかしたら元は「ヒルメこそ」で、それがヒメコソになり、どの姫の社なんだろうってことでシタテルヒメやアカルヒメの説が古くからあったのかも、とか思った。

アカルヒメ、シタテルヒメ、どちらもあり得るからなあ。

シタテルヒメの同母兄のアヂスキタカヒコネは上町台地を開拓したとされている人だし、アカルヒメは新羅の王子アメノヒボコ(垂仁天皇の時代の人)に嫁いだものの、難波に里帰りしてきた人だ。

平野の赤留比売アカルヒメ神社にもアカルヒメが祀られていた。

つまりアカルヒメは、難波あたりに住んでいた一族の娘だったのかな。

中世の頃には、上町台地は戦場になってばかり。空襲もあったし、その後はどんどん住宅街になっていったし、そんなこんなで古いものがあまり残っていないけれど、上町台地はちょっと歩いただけであれやこれや盛りだくさんだ。


東高津公園は、赤い梅が色が素敵できれいだった。ここで休憩して、パンをいただいた。おいしかった。やっぱり谷町近辺はレベルが高いのかな。

そう高いわけでもなく、小さなお店(naoto.pan)だったけれど、おいしかった。

じゃがいものフォカッチャや、あと、あんパンが、ちょっと忘れられない食感だった。あんパンの生地はすごい薄くて弾力があって、なんだかきんちゃく袋にあんこが詰まっていて、それを食べているみたいな感じで面白かった。けしの実もきいていた。

公園の近くにもパン屋があった。ここも気になったけれど、スルー。

味原本町交差点から続きを南下していった。すぐの小橋町交差点の近くに上本町駅(近鉄)や谷町九丁目駅(地下鉄谷町線)があって、谷九からおうちに帰った。

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