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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
24/42

石津の諏訪神社

次は諏訪神社に行くつもりだった。

南の船尾ってところに諏訪神社があって、気になったから。

26号線を南下すれば諏訪神社だったけれど、地図を見て他にも気になったあたりを回遊しつつ行くつもり。

石津神社からすぐの老人ホーム手前まで26号線で南下すると、左折して、東に向かっていった。

神石共同墓地に入って行く道と、少し左手の道に分かれ、左手を進むと新興住宅地だった。道はぐるりと半円を描いていて、元は池があったとかかな。

円の内側に墓地があり、古い石碑なんかもあった。外周部分は高台で、新しい家々が建ち並んでいた。

半円を描く道を道なりに進むと石津川に出て、川沿いを西に進むと、神石橋(府道30号大阪和泉泉南線)。橋を渡って南下して行く前に、30号線を信号で渡ってすぐの霞ヶ丘公園に寄ってみた。

公園をちょっと歩いてすぐ引き返すつもりだった。けれど、公園は素敵すぎて、くまなく歩いた。

なんて気持ちいい公園だっただろう。広くて、芝生の丘陵が奥まで続いていた。

奥(東)の方には池や川があって、元はここは森の中の谷だったところなのだろうな。

周りは高台の新興住宅地や学校で、フェンスがあって出入り口は少なかった。東端まで歩いて、東に公園を出てみると、ここも新興住宅地だった。地名は上野芝。


ここから更にちょっと寄り道をした。

南東方向の高台はきちんと区画整理された新興住宅地になっていて、そこに信唱寺があり、その横はフェンスで囲われた小さな丘だった。

かぶと塚古墳だって。5世紀頃の帆立貝形墳で、立ち入りできないようになっているのは私有地だからだそうだ。

百舌鳥大塚山古墳の倍塚かもといわれているらしかった。百舌鳥大塚山古墳はこの近くにあって、今はもうなくなってしまった古墳だそうだ。戦後、壊されて宅地になり、ほんの一部残っていたものの、それも昭和の終わり頃に住宅街に消えてしまったそうだ。けっこう大きい前方後円墳で、鉄製品などが多数出土。刀は300ほども出てきたのだって。

ここを北東に300mも行けば履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)で、さらに500mも行けば仁徳天皇陵(大仙陵古墳)だった。どちらも5世紀の巨大古墳。

仁徳天皇陵が日本一大きい古墳なのは有名だけれど、履中天皇陵も三番目の大きさなのだって(2番目は羽曳野市にある応神天皇陵)。そして百舌鳥大塚山古墳も、百舌鳥古墳群の中では5番目の大きさだったらしい。

大きな前方後円墳が3つ、海岸線に平行に並んでいたんだな。


かぶと塚古墳から西に下っていった。

下り坂の先に川が流れていて、かかる橋は高入橋だった。

ここは渡らず右折して、西へ向かっていった。予定よりかなり東の方まで歩いてきてしまったので、西に軌道修正。

川沿いに進むと300mで石津川に合流とあって、川は石津川ではないらしかった。石津川の支流の百済川。

向こう岸には、南からやってきた石津川とにはさまれた三角の部分デルタに墓地や公園があった。

百済川が石津川に合流して、石津川沿いを少し北上。すぐの禅海寺橋を渡った。

禅海寺はこのあたりにあった寺のことだそうだけれど、それも今は住宅地になっているそうだ。

石津川を渡ると、堤から下って西に向かう道が2本あり、右手の道を進んでいった。

地名は神石町だった。

真行寺があり、すぐの信号で30号線を渡ると市之町の地車庫があって、その横に小さな石明八幡。川向こうの禅海寺の境内にあった八幡さんがここに移されたそうだ。

そのまま進んで、つきあたったのは熊野街道。

また声をかけられた。この日歩いたあたりは、犬好きの人たちが多かったなあ。わたしにいろいろアクションしてくれた人の数は5本の指じゃあ足りないくらい。張り合えるのは鶴橋、桃谷あたりくらいかな。


熊野街道の西側は船尾ってところだった。

このあたりは、古い家や、古いアパートも多かった。空気は悪かった。

ばらばらな方角を向いた道をじぐざぐ歩き、浜寺東小学校の南側の道を西へ向かっていった。

元立寺なるお寺があった。

船尾薬師堂があり、その隣が諏訪神社だった。

ここが船尾村のかつてのメインストリートだったのだろうな。薬師堂と諏訪神社の間の道を少し北に行くと地蔵堂もあった。

もう少し西の諏訪ノ森に、元は大きな諏訪神社があったそうだ。広大な神社だったらしく、神宮寺もあったらしい。

地名になっている諏訪森も、諏訪神社の森からきているのだろうな。

けれど明治時代の神社合祀で、諏訪神社は石津太神社に合祀されることになってしまった。それが石津太神社の南殿の諏訪神ね。

船尾の人たちは、遠くなってしまった諏訪神社を毎日拝めるように、船尾に遥拝所をつくったのだって。

そしてそれを後に神社にしたのが、この諏訪神社。


元の諏訪神社跡も、一部だけだけれど残され、そこに後に諏訪神社を小さいものの再建。

そこが前に紀州街道歩きで行った小さな諏訪神社だった。

船尾の諏訪神社から西に進むと、阪堺電車の踏切に到着。踏切は渡らず、線路沿いを北上するとその諏訪神社があった。北に下りになっていて、ここが石津川そばのちょっとした丘だった感じがあった。その一帯が諏訪の森だったのだろうな。家々に囲まれて分かりにくいけれど、歩いてみると、神社の裏手あたりに大きな木も見えていた。

そのあたりもみんな神社の森だったあたりなのだろうな。今は大部分がテモテ教会になってしまっているけれど。

祭神はタケミナカタ、アメノタジカラオ、武龍命。

今やどうしてここに諏訪神が祀られていたのかも不明。

前にも書いたことがあるけれど、むかしむかし、この地の王はオオクニヌシだった。けれどアマテラスが自分の息子(オシホミミ)に譲らせようといた。

まずオオクニヌシの元に送られたのがアメノホヒ。けれどアメノホヒはオオクニヌシに心酔し、帰ってこなかった。

次に送られたのはアメノワカヒコ。けれどアメノワカヒコはオオクニヌシの娘(アヂスキタカヒコネの同母妹)と結婚し、自分が次の王になろうとした。

それから最後に送られたのがタケミカヅチ。タケミカヅチが国を譲るよう迫ると、オオクニヌシは息子たちにきくように言った(世代交代していたのかな?)。タケミカヅチが息子たちに問うと、コトシロヌシは譲りますと言い、タケミナカタは力比べして決めようと言った。

タケミカヅチは強く、タケミナカタは諏訪(長野県)に逃げて、「譲ります。そして私はずっとここにとどまります」と許しを乞うた。

そしてオシホミミが降臨・・・となるはずが、オシホミミが嫌がったので、その息子のニニギが降臨した。

そんなタケミナカタが石津の地に祀られたのはどうしてだったのかな。


目的地は回り、あとは帰るだけだったけれど、まだ時間も早かったので、そのまま北上して行くことにした。

踏切を渡って北上すると、間もなく紀州街道に合流し、すぐ石津川で、大きな五輪塔があった。

これは紀州街道歩きでも見た「北畠顕家の五輪塔」。

北畠顕家は南北朝時代、後醍醐天皇について戦うも、石津の戦いで21歳で戦死した人で、五輪塔は昭和初期に地元の人たちが建てたものだそうだ。

紀州街道を北上していくと、神社通り商店街を通り、石津太神社へ。

その鳥居の前に「五色の石」と書かれた石があるのに気がついた。蛭子がここに漂着した時、手に五色の石を握っていて、それをこのあたりに埋めたと言われているのだって。

それが石津神社では「コトシロヌシが五色の石を握って降臨」という話になっているんだな。

左手に石津川本通り商店街が現れて、そちらに進んでいった。

横寝地蔵があって、これも覚えがあった。紀州街道歩きで見たのだろうな。覆いをとると、地蔵が横になっていた。

駅に到着。駅前にトリーゴなるパン屋があって、パンをゲット。前に千代田(河内長野市)の寺ヶ池近くにもあったお店だった。

時間にも体力にも余裕があったので、そのまま湊駅まで歩いた。

住宅地であまり面白くなかったけれど、湊駅近くの出島町あたりは場末の感じが色濃くて、けっこうおもしろくて好きだった。途中、公園で休憩した。

湊駅から電車に乗ると、次の駅が石津川だった。なんで??と思ったら、上りと下り、方向を間違えて乗ってしまっていた。

「いしづがわ~いしづがわ~」って放送が最初「いすずがわ」と聞こえたから、いったいどこに来てしまったかと思った。

昔は「石」と書いて「いそ」とか「いわ」とか読んだそうだ。

石津太神社は「いわつた」だし、石上神宮は「いそがみ」だし。

そして「五十」は「い」「いそ」、あとは「いわ」とも読むのだって。

「五十・・」って、ときどきいる。五十猛(イソタケル・イタケル)とか、五十瓊敷イニシキとか、五十鈴媛とか。

もしかしたら「石」と「五十」は元々同じなのかも?なんて思いながら電車を乗り換えた。

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