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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
23/42

石津太神社と石津神社

まだ2月のある日、短めの散歩に行くことにした。

時間がそんなになかったので、あまり遠くないところ。

そうだ、石津に行こう。というわけで、石津川駅(南海本線)に。石津川駅(堺市)は堺駅から各停で2つ目の駅。堺、みなと、石津川、諏訪ノ森、浜寺公園・・・ね。

石津には石津神社と石津太神社があった。前にも行ったことはあったけれど、まだな~にも知らない頃で、本当にただ行っただけだった。

最近になって、高槻の昼神ひるがみ車塚古墳や上宮天満宮に行って、日を「ヒル」と読んでいたことを知った。

上宮天満宮の鎮座する山(天神山)は日神ヒルガミが降臨したと言われ、元は日神山と言ったのだって。

それで、ふと蛭子ヒルコって本当は日子ヒルコだったのじゃあないかと思った。

元は日子だったのに、蛭子とされたんじゃあないか・・・。その一族が滅んだとかで。

それから西宮神社に行って、蛭子は元は石津に流れ着いたと言われているってことを思い出した。

イザナギとイザナミの最初の子どもだったヒルコは、アメノトリフネに乗せて流され、流れ着いたのが石津だったという話だった。

石津に行ったのはずいぶん前で、その頃、わたしは何も知らなかった。

まだ身近にあった熊野街道や紀州街道を歩き始めたばかりの頃で、歴史にもたいして興味もなかった。というか、歴史って概念さえなかったかも。

改めて行ってみたいな、と思った。


改札を出ると左手に向かい、公道に出ると左へ。

ふたばらん公園を過ぎて右折。浜寺石津小学校手前を右折。すぐに道が2つに分かれて、左手の道へ。

この道を道なりに行くと石津太神社だった。

細い古そうな路地道で、交差する道も古そうだった。土のままの道もあって、その道を進んで行ってみると、かつては井戸なんかのある家々の集合体だったのかなって感じのところだったりした。

そういうところがいっぱいあった。

途中、石津川本通り商店街と交差。

前方には緑が見えていて、左手に慈光寺、右手に石津太神社が現れた。

遠くからでも見えていた緑は大きなクスノキだった。神社は一部屋根が壊れているところがあった。

前に石津太神社にやって来たのは、紀州街道歩きでだった。表参道を進むと鳥居があって、ここが紀州街道。

紀州街道でやって来た前回は分からなかったけれど、一本西側の道からやって来たら、こんなに面白いところだったんだな。

石津太神社には戎神腰掛石があった。まあ、冗談半分に言い伝えられているくらいの話かな、とは思った。

本殿が横に2つ並び、南本殿は諏訪神社、北本殿が石津太神社だった。

諏訪ノ森に鎮座していた諏訪神社は石津太神社に合祀されたらしく、それがこの南本殿なのかな。合祀にしては扱いがよかった。

諏訪神社の祭神は諏訪明神ことタケミナカタ。菅原道真を祀る神社を天満宮と呼ぶように、タケミナカタを祀る神社を諏訪神社というみたい。


石津太神社は日本初の戎神社を名乗っている(石津神社も)。

戎神社にはコトシロヌシが祀られていることが多いそうだけれど、大阪湾あたりではヒルコが祀られていることが多いかな。

ここは蛭子ヒルコを祀っていて、祀ったのは5代天皇のときだとされている。

イザナギとイザナミの最初の子がヒルコだったけれど、アメノトリフネ(もしくは葦舟)に乗せられて流され、石津に流れ着いた。そして5代天皇(孝昭天皇)のとき、勅令で蛭子を祀る社殿が建てられたと伝わるそうだ。

そこにコトシロヌシとアメノホヒを合祀。

今でも北本殿の石津太神社の祭神は、蛭子とコトシロヌシと石津連の祖、アメノホヒだって。

出た! アメノホヒ。

日神山に降臨したという日の神の正体は、アメノホヒの息子、タケヒラトリ(タケヒナテル)だった。

日の神こと武日照たけひなてる命の子孫が、土師氏の族長(野見宿禰など)だということだった。

ここに住んでいた石津連は野見宿禰(アメノホヒの14世孫)の子孫であるらしかった。つまりヒルガミの子孫たち。

ヒルガミの子孫がヒルコの流れ着いた石津に住んでいたのはただの偶然だったのかな?


ヒルコ(日子)がいたならヒルメ(日女)もいたのかと調べてみると、「おおひるめむち」と「わかひるめ」がいた。

オオヒルメムチはアマテラス、ワカヒルメはアマテラスの妹ということになっているみたい。

本当かな・・・。

本当は別物で、ヒルコと同じくヒルメがいたけれど、それがアマテラスってことにされたのじゃないかな、という気がした。

そしてヒルコ、ヒルメが「ひこ、ひめ」になったんじゃないかな?と思った。

ヒルコ、ヒルメって言葉を使っていた人々がいて、それがひろがっていって、多くの人々が「ひこ」「ひめ」を使うようになっていったとか・・・。


神社までやって来た細道はまだ先に続いていて、続きを歩いていった。

細くて、おかあさんとわたしが歩くのに幅はぴったりのサイズだった。そんな道なのにずっと続いていて、ますます細くなったあと、つきあたった。

その手前、右手に古そうなお寺が見えていたから、引き返して行ってみた。

辺りは新旧入り混じっていて、見えていたお寺は教蓮寺。一時はこのお寺を中心にしていた集落だったのかな、という感じがした。

教蓮寺を過ぎて右折すると、「八幡宮跡」とあった。このあたりには小川が流れていたんじゃないかなという感じがした。

最初の辻で右折すると、石津太神社に戻った。この道にも小さな川が流れていたのじゃないかな。近くには浄念寺なるお寺もあった。

今は、家々で埋め尽くされている。けれどかつては小川が流れる、寺や神社の集中する素敵なところだったのだろうな。


すぐ南を石津川が流れていて、次は石津神社に向かうべく、川に近い道を東に向かっていった。

紀州街道を越え、阪堺線の線路を越えて、阪堺石津東通へ。一応商店街のようだった。

川沿いの道になり、フナにパンをあげる自転車のおじさんがいた。見ると大きなフナがいっぱいいた。

歩道は狭くて、少々危なっかしい道だった。

右手に川を見ながら東に進むと、左手に浜寺石津町東どんぐり公園。かつては川から取水して、水を流していたところの跡地とかかな、という感じがした。

左手に「農薬0の」とうたった古そうなパン屋があった。けれど入り口にお店のおじさんが立って外を見ていて、スルー。

大阪って、家々と道路ばっかりだ、と思った。

かつては、井戸のある路地で近所の人たちが井戸端会議。老人も普通に外に座っていて、子どもたちは遊んでいて、戸外と戸内の境目はあいまいだったのだろうな。

今はきっちりと閉ざした中に住み、こんなにも家々はあるのに、外に人は少ない。

パンをあげるおじさんも、パンを焼くおじさんも無言で、室外にいる者、室内にいる者、それぞれの薄い鎧をきている感じがした。

こんなに家々は並んでいるのに、そこに住む人々同士が話す時間は短いのだろうな。

おじさんだけではなく、おばあさんも、子どもも、お母さんたちも。


道は川沿いに進んで、前方には橋が見えていた。そちらには行かず、途中で左に分かれる道へ下っていった。

ここを進んで高架になった国道(第二阪和国道)を過ぎれば石津神社前交差点だった。

けれど途中、石津太神社周辺と同じような路地道が左手に現れて、そこに入っていってみた。

道が駐車場で2つに分かれて、右手に進んで行った。細い道を進むとつきあたって、円浄寺と願行寺の間から高架の下へ。

このあたりも少し前までは田んぼばかりのところだったのじゃないかな。

向かいには神社が見え、信号を渡るのに、右手(南)の石津神社前交差点ではなく、左手の石津神社北交差点へ向かってみた。そちらのほうが、なんだか古そうな感じだった。大きな旧家もあった。


信号を渡ると「神石温泉」の案内があり、神社のある方に右折せずに温泉方向に直進してみた。

右手に神石会館があって、次の辻を右折すれば神石温泉。

直進する道が面白そうで、さらに直進していった。

道は上りになり、左手に墓地が現れた。次に現れた永詳寺の墓地かな。和田さんとかの大きな旧家があった。

永詳寺は楠木さんの親戚の和田某さんが建てたと言われる寺だそうだ。

楠木正成の甥っ子に和田正遠という人がいて、正成らとともに戦い、湊川で戦死。その孫が仏門に入って、寺を建てたのだとか。

もっと進むと高台は、新興住宅地になっていた。神社の北側のあたりだけが古いまま残っているみたい。

神社の北側一帯を行ったり来たりした。石津にもこんな古いところがあったんだなあと思わされた。

古そうな石垣や、大きな古い旧家や、そういったものが段差毎に伸びたいくつかの路地に並んでいた。

それから道を下って神社へ向かっていった。石津神社は、丘の下にある神社だったんだな。今までの散歩の流れで言うと、石津川河口部からこのあたりにかけて入り江になっていたのかも。

石津太神社と同じく、日本最古のえびす宮(自称)。前(西側)の道は熊野街道。熊野街道歩きで通ったはずの道だったけれど、ほぼ記憶にないのは面白くない26号線になってしまっているからだろうな。

ここでは戎神は蛭子ではなく、コトシロヌシとされていた。コトシロヌシが五色の石を持って降臨したのだって。

他、オオナムチ(オオクニヌシ)、アメノホヒ、野見宿禰などを祀る。


入ってすぐ左手に野見宿禰宮があった。石津神社は野見宿禰が神主をしていたといわれている。

かつては相当の大社だったみたいで、石津川も御手洗川とも呼ばれていたらしい。

野見宿禰は11代垂仁天皇に仕えた人で、その末裔は一部、土師ノ里(藤井寺市)に住み、氏寺が道明寺(菅原道真の叔母さんが住職をしていた寺)で、一族からは菅原道真を輩出。

土師ノ里や道明寺周辺は古墳の多いところだった。百舌鳥・古市古墳群の古市古墳群の近く。

野見宿禰はハニワを天皇に提案した人で、この人の進言で古墳に埴輪が置かれるようになったとされている。

前に今城塚古墳出土の埴輪の力士を見て仰天したことがあった。今の力士とまるで同じで、当時からすでに相撲があったんだという驚き。相撲はイスラエル語のシュモウからきているという説がしっくりきた。

ハニワによく用いられるモチーフの1つが力士で、野見宿禰は人間同士の(神以外の)初の相撲をとったとも言われる人(VS.当麻の蹴速けはや)。

イスラエルの失われた氏族はわたしには秦氏よりアメノホヒ一族に思えるなあ。(秦氏は「イスラエルの失われた12氏族」のうちの1つ、という説があるみたい。) 渡来人と呼ばれるよりもっと前に日本に土着していた人々だったのかも?

野見宿禰に石津の地が与えられて、野見宿禰は石津神社の神主になったとかいう。

それで野見宿禰の子孫が石津連となり、始祖であるアメノホヒを祀った、という単純な話なのかもしれない。

けれどもしかしたらここはヒルコ(蛭子・日子)が流れ着いたところで、そのヒルコの霊を鎮めるために、野見宿禰にヒルコを祀らせたのかもしれない、とか想像した。

三輪山のオオモノヌシの霊を鎮めるために、血を継ぐオオタタネコに祀らせたみたいに。

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