西国街道と髭の渡し
ここから西国街道の続きを西に向かった。
大きな家が連なっていて、静かだった。
稲野小学校があり、その前には道標があり、「すぐ西宮」「すぐ中山」とか彫られていた。
最初のうちはよく見る「すぐ」に、「どこがすぐなんだ!?」と思っていた。昔の人の「すぐ」の感覚はすごいなあ、と。
「すぐ」は、すぐ近くという意味だと思っていた。そうではなくて、「まっすぐ行くと」という意味なのだって。ちょっと安堵した。
道をちょっと外れていったところに、地蔵堂や寺も見えていて、古そうなところだった。
気づかなかったけれど、東天神社もあったみたい。
昆陽4丁目交差点で、右手は高地で左手は低地なのがよく分かった。勾配は緩やかだけれど。
ここからは比較的新しくて、田んぼだったのが、最近住宅地になったところなのかな。
右手に現れた公園(犬NG)には、丁寧な手書きの説明板が設置されていた。うろ覚えなのだけれど、まとめるとこんな感じかな。
昆陽には5つの池が行基によってつくられて、合わせて昆陽池という(説明によると)。布施屋もつくられていた。
東は伊丹坂、西は武庫川、北は長尾山、南は笠池宣松という昆陽野は風光明媚なところで、歌にも詠まれた。
能因法師も昆陽池亭に住み、「昆陽の入道」と呼ばれていた。
伊丹段丘から武庫川まであたりが昆陽野と呼ばれたのかな。
どうしてコヤというのかは分かっていなくて、「アメノコヤネ」の「こや」か?という説もあるのだって。
能因法師は前に行った高槻で知った、古曽部に住み、「古曽部入道」と呼ばれていたという平安時代の歌人だった。昆陽に住んでいたというのは、古曽部に住み暮らす前の話かな?
布施屋というのは、行基が設けた施設。
当時、自由に旅行なんかはできない時代だったけれど、人々は納税のために都に旅しなければいけなかったらしい。納税は送金するとかじゃなく、物で直接納めていたので、代表者が都まで上納に行っていたそうだ。けれど道中には食堂があるじゃなく、レトルト食品を持参できるわけでもなく、行き倒れになってしまう人も多くいたらしい。
当時、社会問題を解決しようとしていたのはお坊さんで、それで行基も池を造ったり橋を架けたり。
行き倒れになる人も減らそうと、食事や寝床を提供する施設を街道につくった。それが布施屋で、ここは山陽道(西国街道の前身)が通っているところだったから設置されたのかな。
たぶん地方の豪族の誘致があって池や寺をつくり、その一環で布施屋も置かせてもらっていたみたい。
ここ、コヤには奈良時代、伊丹廃寺を建てた人たちがいて、多分その人たちが行基に来てもらい、灌漑施設を造ってもらったのかな。池を5つ作るという大工事が施行され、池を管理する寺なども建てられ、その代わりというか、一環として、山陽道の道筋に布施屋を置いたのかな。
前に行った池田では、724年、行基によって秦郷に寺がひらかれている。
その頃、行基と秦氏が強くつながったのかな、と思ったのだけれど、ここ伊丹はその秦郷と猪名川を挟んでご近所さん。
731年に昆陽施院や昆陽池が造られていて、その工事にも秦郷の秦氏やイナのイナ部が関係していたのかも?
公園には東天神、西天神についても説明されていた。
イザナギ、イザナミを祀る神社で、どちらも創建についてなど不詳だけれど、行基の灌漑事業に際して創建されたともいわれているのだって。
公園の前には祠があって、「庚申祭所」とあった。
お地蔵さんもいて、ほぼ地べたの低い位置だった。
少し先、今は駐車場などになっているところに松並木があった。元は参道かなにかだったんじゃないかと思われた。
もしかするとこの先、道路の向こうにあった西天神の参道だったところとかかな。
国道171号線に至り、道路向こうには西天神が見えた。横断歩道で渡って行ってみた。
森の静かな神社だったのだろうなって感じがした。けれど今では、住宅や道路に囲まれて、ぎゅうぎゅう詰めになっている感じだった。
171号線は西に向かって坂を上っていくけれど、そのすぐ左手(南)の道で西に進んで寺本4丁目交差点へ。
後で知ったことには、このまま西にもう少し直進していたら昆陽寺だった。寺本って地名であるからには、なにか大きなお寺があるのかな?とは思ったのだけれど。
行基のつくった布施屋(昆陽施院)を前身とする寺だそうだ。「院」というのは、民衆のための寺を言ったみたい。行基が天皇に認められたのち、「寺」となったのだって。
ここも荒木村重の件(有岡城の戦い)で焼けてしまったけれど、再興。近くには、猪名野神社(伊丹段丘の南のとは別の)もあったようだった。
けれど昆陽寺のことは知らず、左折して南に向かっていった。西国街道は寺本4丁目交差点から少し南下してから西に向かうみたい。
左手に公園(昆陽南公園)が見えたところで右折して、西に向かって行った。すぐ右手に「西国街道」と書かれた公園(犬NG)があった。
ここ(閼伽井公園)に「閼伽井の井戸」が保存されていた。閼伽井の井戸ってこれまでもたびたび見てきていた。素敵だった松尾寺(和泉)近くの宝瓶院とかで。
「アカイ(閼伽井)」は梵語で水のことらしい。ここは行基が掘らせたといわれる井戸で、「あかいの井戸」と呼ばれたのだって。
その向こうには飛行機が45度の角度で飛び立っていくのが見えた。ここの南の地名は山田だった。
昆陽里交差点で再び国道171号線に合流。しばらく171号線を進んで行く。
途中で右側の歩道に移ってもよかった。次の西昆陽交差点で171号線は南に方向を変え、西国街道はそのまま西(西南西)に進む道を行くのだけれど、左側の歩道からは171号線を簡単には越えられなくて、地下道を行ったりで少し面倒だった。
このあたりで尼崎市に入ったみたい。地名は池尻で、このあたりにも昆陽池が続いていたのかもしれないんだな。
右手に坂を上ると、久しぶりの武庫川だった。
けれどまだ川には出ず、道なりに進んでいった。道は南に方向を変えて、川沿いに上り道になっていった。
左手には小学校、その向こうには常松春日神社があるようだった。平安時代、春日大社から勧請したと伝わるそうだ。
河川敷に祠などあって下りていくと、少々草ぼうぼうの中に「髭の渡し跡」とあった。
かつてはここで武庫川を渡しで渡っていたんだな。近くの茶屋の主人が髭男だったので「髭の渡し」だって。対岸は西宮市。
武庫川は大阪湾に注ぐ川で、武庫川をはさんで西側は西宮市と、その北に宝塚市、東側は尼崎市と、その北に伊丹市がある感じかな。
今では武庫川は、本来の西国街道より南の甲武橋(171号線)で渡るしかない。
甲武橋に向かい、少し荒れた感じの河川敷を歩いていくと、途中、新幹線の通る橋の下を通った。新大阪から加島を通って北上し、ここを通って新神戸に向かうんだな。
甲武橋辺りは工事中だった。河川敷から上っていって、甲武橋を渡った。
ここから髭の渡しの対岸まで戻って、段上ってところを通って南西に進むのが西国街道のようだった。
けれどもう時間が押していて、ちょっと離れた渡し跡までさえ戻る気になれなかった。
甲武橋を右側の歩道で渡りきったところに階段があって、階段を下り、そのまま道なりに進んでいった。
百間樋川を渡り、上大市というところを通って南西へ。
西国街道は、途中でこの道に北から合流してくるようだった。
急ぎ足で門戸厄神駅(阪急電車今津線)に到着。あまり周囲を見る暇もなかったけれど、住宅密集地なのはよく分かった。
駅のそばには門戸厄神への参道なども見えたけれど、行きたい気持ちに蓋をして駅へ。
改札すぐそばにパン屋(ハウネベーヤー)があって、ついここでパンをゲット。カスカードの関係のパン屋さんのようだった。
門戸厄神は東光寺といい、厄払いで有名だそうだ。




