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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
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昆陽池と伊丹寺跡

171号線に出ると左折して信号(東中学校前交差点)まで進み、ここを渡った。

そのまま緑ヶ丘体育館横の通路を通って、体育館の裏手へ右折。

ここも遊歩道になっていて、左手には池が現れた。池には柿色みたいな色の東屋があった。

大きな緑ヶ丘公園の東の端あたりらしかった。

そのまま進んで、池を左に見ながら通り過ぎたところで右折すると、公園を出て、駄六川を渡り、古そうな集落に入っていった。

玉垣が見えていて、臂岡天満宮だった。川の横の小さな丘のてっぺんあたり。

駄六川を渡ったけれど、このあたりはまだ伊丹段丘らしかった。段丘の北の端。

天満宮なので、祭神は菅原道真。

左遷されていく菅原道真がこのあたりの景勝地に立ち寄り、肘を枕に寝たことから肘岡と呼ばれるようになったんだとか。その時、村の人々は道真公におにぎりを差し出して喜ばれたのだって。

そして神社はひじ岡天満宮となった。

淀川を下っただろう道真公がここまでやって来たなんてことがあったのかな?とは思った。

散歩していて見聞きした話をみんな信じるなら、道真さんは淀川を船で下り、娘は光善寺あたりまで追って来た。妊婦の側室は摂津富田あたり(赤大路)まで追って来た。けれどどちらにも会えず、大阪は網敷天神社には重臣たちを残していった。

道明寺(寺)では叔母が住職をしていて、そこにも立ち寄り、服部天神では足を治し、大物近くの長洲で船待ちをして散策。

ここにもやって来たなら、服部天神の前後でかな。道明寺の叔母のように、どなたか会いたい人がいたのかも??


臂岡天満宮は「いもじの天神」ともいったそうだ。地名も鋳物師いもじだった。鋳物師の北はもう川西市だった。

中世、各地を移動していた職人集団を鋳物師というそうだ。その後、定住したらしく、ここにも鋳物師たちが定住し、「鋳物師千軒」と言われていたということだった。

なかなかに広い神社だった。

玉垣には坂上さん藤原さんの名もあった。前に西国街道を歩いていて、大鹿あたりでよく目にした名前。大鹿はこのほんの500mほど南みたい。

駐車場のほうには白髭稲荷が案内されていた。

行ってみると、山道のままのような臂岡神社への参道の途中にあった。段丘の端っこなのかな。

世話する人が誰もいないのか、欠けた石のきつねが土に倒れて埋没しかけていたりした。そのすぐ下には171号線が見えていた。

かつてはここは山への道だったんだ、というのがよく分かる参道だった。それを物語るこんなところがずっと残されるといいな。


緑ヶ丘公園に戻っていった。

公園からは、北すぐにあるらしい伊丹寺跡に行くつもりだった。けれど公園は広すぎて、方向もよく分からず、あちこち歩いていると「右・伊丹寺跡」と案内があった。「右」がどちらを指すのかもよく分からない案内だったけれど、駄六川沿いをさかのぼっていってみた。

公園を出て、新興住宅地に入るあたりで川沿いの道がなくなり、右手の道で続きを行くと、住宅地の中にいくつかの空き地があった。それらが伊丹廃寺跡だった。

バス通り沿いの空き地の1つが史跡公園になっていた。土台の部分が復元されていたりした。金堂と五重塔の基礎らしい。

法隆寺と同じ伽藍配置をもつ、白鳳時代に建立されたと思われる寺院跡。けれどほぼ住宅街になってしまった地味な遺跡で、他には誰一人いなかった。空き地の区画もあるけれど、住宅地になってしまった区画もあって、どうにもならないのかな。

バス通りの向こうは自衛隊の敷地(伊丹駐屯地)で、寺跡はそちらにも続いているらしい。

こんなに空き地も残っているのに、残念だな、と思った。

伊丹って、緑道と言い、残念な部分が目に付いた。素敵なだけに、その利用の仕方が残念に思えるのだろうな。

伊丹寺も、猪名寺も、どんな氏族が関わった寺なのか、よく分かっていないそうだ。猪名寺跡はこの4kmほど南だった。

菅原道真が太宰府に向かう途中に立ち寄ったのは、この伊丹寺を氏寺にしていた氏族に会いにだったのかもしれないな、と思った。

重用されていた宇多法皇の勅願所も近く、宇多法皇や道真公に近しい人の住むところだったのかも。


緑ヶ丘公園に戻り、西に続いて行く緑道を通って、今度はすぐ近くの瑞ヶ池公園に行くつもりだった。

けれど緑ヶ丘公園でまた迷いそうだったので、バス通りを西方面に向かっていった。

たどり着いた瑞ヶ池公園は、ほぼ池だった。池と、その周遊部だけのような公園。

瑞ヶ池は大きくて、見晴らしもよかったけれど、周りぐるりを高い水色の柵で囲われてしまっているのが残念だった。

柵がないと、ごみなどが捨てられて、保全に手間暇がかかるとかなのかな。

ずっと桜並木が続いていて、開花の時期には柵も気にならないくらいきれいだろうと思われた。けれどまだ河津桜も蕾だった。

北と西には山が見え、南は低地だった。

公園の南の低い位置を走る車道には遊歩道があって、すぐが瑞ヶ丘交差点だった。

交差点を渡ると瑞ヶ丘公園で、瑞ヶ丘公園からは瑞穂緑地をしばらく行けば昆陽池公園だった。

少し遠回りしてパンコマチパンでパンをゲットしてから昆陽池公園へ。

たどり着いた公園には大きな池があった。けれど思っていたよりは小規模で、池の周りにはベンチもなくて、なんだかいまいち・・・。

けれど園内地図があってそれを見ると、これは昆陽池ではなかった。

更に奥に昆陽池はあるらしく、行ってみると、また池があった。けれどそれほど大きいでもなかった。

島(日本列島の形になっているらしい)もあり、瑞ヶ池みたいに整った形でもないせいか、池畔から見てもそんなに大きさは感じなかった。

けれど池を眺められるベンチがあって、素敵だった。

ここが行基が整備した2つの昆陽池のうちの1つと思われる池だそうだ。もう1つ、もっと大きな池がおそらく西側にあったそうだ。池尻ってところがちょっと離れた西側にあるから、そのあたりにあったのかな。

こちら側の今残る池も、元の池のほんの一部と思われるそうだ。もっと大きかったのが、長い年月の間に埋めたてられていったのかな。

江戸時代の頃には2つを合わせてかな、東西に1km近くあったらしい。

行基は他にも計5つの池を造り、溝も掘ったそうだ。それが天神川や天王寺川などだと思われるそうだ。灌漑に役立て、洪水を防いでいたのだって。

瑞ヶ池とかもその1つかなあと思ったけれど、なにも分かっていないみたい。


ベンチに座って休憩し、パンもいただいた。

冬の池はけっこう好きだ。渡り鳥たちもいっぱいいた。

近くに小屋があって、ここで鳥たちの世話をしているのかな。餌箱があって、その横に白鳥が3羽いた。

餌待ちしているみたいな姿で、池で泳ぐ1羽とは違う生き物みたいに見えた。脚は中年の女性みたいだった。

飛行機が45度の角度で飛び立っていった。海外にも飛んでいく飛行機。

わたしはきっと飛行機に乗ることはないだろう。乗るにしても、犬は貨物室なんだって。それより、飛行機と白鳥を見ながらパンをいただくのが贅沢だな。

「ヌートリアに注意」とか「野犬に注意」とか書かれてあった。

ここに住むヌートリアも飛行機を見上げるのだろうなあ。

公園からは西国街道の続きを歩くべく南下して行くつもりだった。

スワンホール(公園の白鳥にちなんで名づけられたそうだ)のところから公園を出て、広い道を南下していった。

国道171号線を渡ると市役所があり、裁判所、法務省、警察、伊丹の主要な諸々がここに集まっているようだった。

白と黒の鳥が飛んでいて、岸和田を思い起こさせた。

伊丹は岸辺の感じがする。丘なんかもあるけれど、大昔は入江とかだったんじゃないかという感じがした。

猪名川の向こう、待兼山の南の一帯、亀之森住吉神社のあたりも入江だったなら、猪名川のこちら側の一帯もそれに続く入江だったのだろうな。伊丹段丘の南あたり・・・かな。

もう少し行くと伊丹警察署前交差点で、ここで交差するのが西国街道。このあたりまで前回歩いていた。古かった大鹿、その西の千僧のあたり。

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