伊丹緑道
そして西国街道の続きを歩きに行った。
千僧まで歩いた続きを歩こう。
・・・けれど、その前に伊丹緑地を少し歩いてみよう。伊丹段丘の周りのフリルを。
伊丹緑地の南にある猪名野神社にまずは向かって、そこから伊丹緑地を北上してみよう。
というわけで、JR伊丹駅から出発することにした。
岸辺の健都のマンションが分譲中らしく、電車の中で広告を見た。散歩していて、工事されていく過程を少し目にしていた駅前の開発でできたビル群「健都」。マンションは3500万円からだって。
広告で知った人には、新しいマンション、それだけのことなのだろうな。
建築中だったころや、それまではその向こうに見えていた山の素敵さを知っている身としては、少し切ない。
どんどん変わっていくなあ。
鎌倉時代の石造物なんかは残されるだろうけれど、その周囲はどんどん古さを消して、きれいにつくりかえられていく。今は、残っている古さを垣間見れるぎりぎりの時なんだろうな。
法隆寺や太子町、恩智や竹ノ内、あんなふうに、残す意識がないと、古さは残っていかないものなんだろうな。
JR伊丹駅には福知山線事故についての謝罪文があった。
「申し訳なかった。もう二度と起こさないようにする」というような内容だった。
平成17年、列車が遅れそうでスピードを出しすぎ、列車が脱線。カーブで列車は線路をはずれ、マンションに向かってとびだしていった。
電車に乗る、そんな普通のことで死ななければならなかったなんて・・・。
福知山線で2つ先の駅が川西池田駅だったから、ここは池田市の南のあたり。
伊丹駅の東には大きなイオンモールが広々とあった。その向こうに猪名川が流れているようだった。ここも駅前の開発で変わったところなのだろうな。
改札を出ると、西に「有岡城跡」が案内されていた。有岡城といえば元、伊丹城。織田信長を裏切った荒木重村がいて、激しく攻撃されたところだった。
あちこちの寺社で「信長による荒木重村への攻撃で全焼。その後、再建」なんていう言葉を目にした。
荒木重村を倒すために信長はあちこちで戦火をあげ、寺が焼け、神社が焼け、村が焼けた。
「有岡城跡」方面に進むと、駅からつながった通路(古城橋も渡った)をエスカレーターで降りてすぐ、石垣で囲われた高台の小さな公園(有岡城公園)が有岡城跡だった。
ここが本丸だったところらしい。
途中「黒田官兵衛縁の梅」(だったかな?)も案内されていた。
ここでも飛行機が飛んでいくのが大きく見えた。
織田信長の元、摂津には三人の守護がいて、それが伊丹城の伊丹氏、芥川城の和田氏、池田城の池田氏だったそうだ。
けれど池田城主に仕えていた荒木重村は池田氏を下克上して、伊丹氏も倒してしまった。
伊丹城を有岡城として、そこに入り、摂津の中心とした。信長の信頼も厚くて、摂津守に。
ところが信長にも反旗をひるがえした。
信長はなんとか思いとどまらせようとしたのだって。黒田官兵衛も説得にやって来たらしい。それで縁の梅があるんだな。黒田官兵衛は秀吉の軍師として有名な人で、信長、秀吉、家康に仕えた。交渉の達人だったみたい。戦わずに解決に導こうとする人だったそうだ。
けれど荒木村重は翻意せず、信長は攻撃開始。徹底的に潰すことにした。
有岡城に残っていた妻子ら37人は京都六条河原で死刑に。その他郎党たち数百人、女房衆122人も殺された。
荒木村重本人は尼崎、花隅、尾道へと逃れた。そして本能寺の変で信長はいなくなり、荒木村重は堺で茶人として姿を現した。
城跡と駅との間のバス通りを北上していった。
緩い下り道だった。田舎の感じを残したまま、歩道橋やイオンモールで近代化したようなところで、妙にいい感じだった。
すぐに駅前のにぎわいは終わって、最初の信号では上には高架道(県道99号伊丹豊中線がこれから東に猪名川を越えるために高架になっていく)が、右手には橋(駄六川にかかる橋)があって、ここを左折。99号線を西に向かって行った。
広い幹線道路だった。けれど歩くと、お寺がいっぱいだった。お城に近いから、寺内町ってやつだったのだろうかな。
途中、左に行くと猪名寺(地名)と案内が出ていた。猪名寺(伊丹駅の1つ南の駅が猪名寺駅)には、かつて猪名寺なる大きな寺院があったのだって。
伝わることには紫雲で飛来してきた法道仙人の開祖で、行基も灌漑事業(昆陽池とかをつくったことかな)にあたってやって来たそうだ。
法道仙人は、鉢飛ばしの秘法をもつ、牛頭天王とともに雲に乗って日本にやって来たという人ね。
伊丹商工プラザなんかのある信号のある交差点(伊丹アイホニックホール前)で右折。このあたりには市の施設が集まっている感じで、車を誘導する警備員さんもいた。
北上していくと、右手には大きくて古そうなお寺が見えた。金剛院だって。
元は平安時代、宇多法皇の勅願所(天皇などが国家安泰とかを願うところ)として創建されたそうだ。
宇多天皇といえば菅原道真を重用した人だったけれど、天皇を退くと目が届かなくなり、道真さんは左遷されてしまった。1年後には道真さんは左遷先で亡くなり、ここが創建されたのはその翌年みたい。
何度か衰退することもありつつ再建されて現存。荒木村重の件でも焼失したそうだ。
この金剛院前を通る道は、門前町の感じがしていた。図書館も「ことば蔵」という名で調和してあった。地名も宮ノ前。
そしてその道の先には猪名野神社があった。
わたしはバッグに入っていったけれど、「犬の糞は放置しないで」的なことが書かれてあるだけだった。
「バイクの通り抜け禁止」ともあって、犬や人の通り抜けは許容しているってことかなあ。この日歩いた伊丹の神社って、どこもそんな感じだった。やさしいな。
ここが有岡城の北の端だったのだって。そりゃあ金剛院が焼失するわけだな・・・。荒木村重の重臣がここに入って城を守っていたそうだ。
猪名野神社の祭神は猪名野坐大神、つまりはスサノオってことだった。
元は野宮といったのだって。牛頭天王を祀っていたこともあったようで、それでスサノオということにされたのかな。
難波に宮をもっていた孝徳天皇の時代、猪名寺に創建されたと伝わり、平安時代にここに移ってきたそうだ。金剛院の元となった寺(善楽寺)が創建されたのと同じ年にここに移転してきたみたい。
牛頭天王は流行してあちこちに祀られたそうだし、法道仙人は伝説の人だから何とも言えないけれど、話だけ聞いていると、牛頭天王を連れて日本にやって来た法道仙人がイナに寺を建て、牛頭天王も祀り、平安時代になって、少し北のここに善楽寺が建てられると、その鎮守として牛頭天王がここに移転してきた・・・って感じかな。
法道仙人や牛頭天王は関係なく、猪名野坐大神は「猪名野に坐す大神」、猪名野にいた人々の氏神だったのかもしれなかった。
狛犬は目がランランしていて可愛かった。
他にもいろんな神が合祀されていた。佐田彦神社や大地主神社(えびす)など。
鬼貫の碑があった。伊丹ではおなじみの人なのかな? ほかのところでも名前を見た。
俳人で、上島鬼貫といい、江戸時代の伊丹郷の造り酒屋のぼんぼんだったらしい。松尾芭蕉と同時期の人で親交もあり、「東の芭蕉、西の鬼貫」といわれたのだって。
伊丹ではところどころに拾遺和歌集なんかからとった歌碑などもあった。歌や俳諧の好きな土地柄なのかな。
猪名野は風光明媚なところで、よく歌にも詠まれていたらしく、猪名野を詠んだ歌の歌碑だったのかも。くずし文字で、わたしにはよく分からないからなあ。
ここは伊丹段丘の南東の端あたりになるのかな? 神社の東側は段丘崖になっていて、これは猪名川が氾濫などで削ったものらしい。川幅が200m余りあったという猪名川が、氾濫するとこのあたりも襲ったんだな。
前回、伊丹で公衆トイレがなかなかなかったので、今回はどうかと思っていたのだけれど、神社にさっそくトイレがあった。他にもこの日歩いたところでは随所にトイレが設置されていた。
神社の西側には釣り具やかつおぶしのお店がひっそりとあって、この参道から出て、神社の裏手に進んでいった。
「伊丹緑地」と大きく書かれたところがあって、その裏が遊歩道になっていた。伊丹緑地の入り口で、ここから北に伊丹坂に向かうようだった。
道標があって、まっすぐ進むと伊丹坂(1km弱)、左手の急坂を上ると春日丘だって。
春日丘って名にひかれ、何度か現れた階段をのぼっていってもみたけれど、途中までは素敵に思えるのだけれど、上ってしまうと住宅地だった。春日丘って、単に新興住宅地の地名だったみたい。
元は前回歩いた、大鹿の一部だったそうだ。そこが新興住宅地になって春日丘になった。
伊丹も藤原氏(近衛家)の荘園だったところらしくて、春日神社でもあったのかな。
伊丹坂方面に歩いていくと、「白洲屋敷跡」の説明があった。
白洲さんは明治時代、神戸で白洲商店をたちあげて大成功した貿易商だそうだ。
芦屋などあちこちに別荘を建てていたけれど、ここに建てた別荘(白洲屋敷)が特にお気に入りだったんだとか。4万坪の敷地に建てられた豪奢な館で、ピカソやモネの絵なんかも飾られていたのだって。
今では住宅地の中にある、ウォーキングによさげな緑道で、ちょっとイメージしがたかった。
そして伊丹坂トンネル(の上)に到着。
ここが一番の高台で、見晴らしもよかった。猪名川の向こう、飛び立つ飛行機もよく見えた。
前回やって来たのはけっこう暖かい日で、散歩の人がいっぱいいたのだけれど、この日は北風の吹く曇り空の日で、人っ子一人いなかった。伊丹緑道を歩いている間に、姿を見たのは2、3人。
それから西国街道をよこぎった。ここが伊丹坂。
高低差もあって、おもしろいところだなあ。
緑も多いし、これで飛行機の騒音がなかったら、最高のところだったんじゃないかな、と思った。それで白洲屋敷も建てられたんだな。
左手に墓地があり、緑地は前方に続いていた。いきなり雰囲気が変わった感じがした。
ここまでは段丘崖の上を歩いてきたけれど、ここからは段丘崖の下のほうの低地に緑道が続き、そこを歩いて行くみたい。左手には段丘の高台(地名も「高台」)、右手にはずらっと可愛く家々が並んで、その間が細い緑道になっていた。。
緑道は並ぶ家々の裏側のようで、洗濯物などが干されていた。
朝、緑地に囲まれて、洗濯物を干す、それは素敵だろうな。年季の入ったおうちもあって、田舎の風情で。
けれど日中は、この背中の側には気配がなくて、気配のない家々が建ち並ぶのって、なんだか怖かった。
緑道は西の広い道路(国道171号線)に向かっていき、いったん途切れるようだった。
171号線の向こうは緑ヶ丘公園で、どうせなら公園に緑道で行けるようにすればよかったのにな。
すぐ北を駄六川が流れ、加茂井が北から流れてきていた。南には急な高台で、きれいな家がいっぱい建っていた。
加茂井は川西市の加茂ってところで猪名川から取水して、ずっと南下してくる用水路で、まだまだ南に続いているらしかった。ただ暗渠(蓋などされて見えなくなっている川や用水路)になっていて、それが茨木緑道になっているのだって。今歩いてきた道は、加茂井の上だったのか。




